項目名 | 複製症候群 |
読み | ふくせいしょうこうぐん |
分類 | ミステリ小説 |
作者 | |
公的データ | 兄へのコンプレックス、大学受験、恋愛。進学校に通う下石貴樹(おろしたかき)にとって、人生の大問題とは、そういうことだった。突如、空から降りてきた七色に輝く光の幕が人生を一変させるまでは……。 触れた者を複製してしまう、七色の幕に密閉された空間で起こる連続殺人。 極限状態で少年達が経験する、身も凍る悪夢とは。 |
感想文等 | が、ちと疑問の解消が為されなかったのは、この作者の作品では僕にとっては珍しい。その疑問というのは他でもなくネタバレになってしまうのですが、 「なぜ、死者のコピーが生者なのか」 というところですね。もちろん、これは大元のネタに直接からんでくることなので、この設定は絶対に崩せないわけです。死者のコピーは生者になる、故にコピーには「コピーされたときの、オリジナルの身体状況そのものはコピーされない」、従って、先生のコピーは「風邪を引いていない」、だからこれはラストシーンへの伏線となり得る……というつながり方もしますから、なおさら崩せない。 だから、この条件というか、設定は、作品の成立には必須のものだということ自体はわかるのですが、作品内において、つまりコピーとオリジナルはコピーが為されたときの「そのまんま」でできあがりますよね。コピーが自分をコピーだと認識していない、自分こそオリジナルであると考えている。なにしろ主人公自体が実は途中からコピーの方だ(笑)。となれば、肉体の全構成がそっくりコピーされたと考えるしかないでしょう。脳細胞のカケラの一つまで。 整形手術か何かをして老婆に化けていた女が、「元の姿形」になってしまう。病気が治る。死者がよみがえる。となれば、怪我──スリキズ、キリキズについてまで、オリジナルが整形手術という形で自分の意思で自分の肉体に加えていた改造まで「治してしまう」、コピーシステムだとしたら、逆に「コピーがオリジナルのすべての記憶を受け継ぎ」、「己れをオリジナルだと思い込む」ほどのコピーになり得ないんじゃないかと思うんですが。 盲腸の手術なんかしてた場合、どうなるんだろう? 生まれつきの斜頸か何かを治していた場合は? はたまた、これまた生まれつきの盲目などの場合、これは「見える」ようにコピーされるのか、やはり「見えない」のか。そして、逆にまたこの「盲目」が手術の成果か何かでオリジナルは「見える」ようになっていた場合、コピーの方は「見える」のかそれとも「見えないように治されて」いるのか。 こういった疑問がぞろぞろ芋ヅル式に出て来てしまうわけです。中1から大学の頃まではSF者でもあったもんで、こういうSFミステリにはどうしてもついついツッコミが多くなってしまうんですが、SF嫌いが言う「荒唐無稽」というのと、作品内でのSFとしての、あるいはミステリとしてでもいいんですが、ロジックの中途半端さとは違うわけです。今回は作者の中でこの点での追及が為されきってなかったんじゃないかな、と思っちゃうんですよね。 とはいえ。 僕は実は西澤作品のよき読者じゃないんです。「殺意の集う夜」なんて、読後感が悪くて大嫌いだし(笑)、つまり、「いちげん客」でしかないってことで。(おっぺ) |