語る「万華鏡」

(ぬの地ぬす人ぬれば色)

ぬの地ぬす人ぬれば色(ぬのじぬすびとぬればいろ)

項目名ぬの地ぬす人ぬれば色
読みぬのじぬすびとぬればいろ
分類必殺シリーズ

作者
  • 監督・野宏軌 脚本・國弘威雄
  • 公的データ
  • 必殺仕置人第10話(おっぺ)
  • 出演・上野山功一 鮎川いづみ 北林早苗
  • 将軍家側室という権力が、一介の染物職人の娘から無謀にも父と許嫁を奪った。
     その上、天涯孤独の身となった娘に口封じのためか、大奥へ上がって奉公せよとの話があったとき―
     昔、娘の父に恩のあるおきんはその行く末を案じ、付女中として一緒に大奥に上がることになった。
     果たして大奥で二人を待っているものは何か?
     権力の横暴と男子禁制の大奥に向かって仕置人は立ち上がった。
  • 感想文等
  • 観ていると、なんだか何でも屋の加代が夫と父親を殺されて頼み人になっている。おー、おきんとお加代の揃い踏みだ、これは、なかなか面白い。
     が、一番「うーん」と思ったのは、途中の中村主水の科白で、加害者連中を評すときにこう言っているんですよ。
     「俺たちよりもあくどい奴がいるもんだぜ」
     仕置人のコンセプトが、「正義が悪を裁く」のではなく、「悪が悪を」なのははなから承知していたはずなんですが、あらためてこんな科白を聞くと、「うーん」と思ってしまいます。
     自分たちを「悪」だと断じていたからこそ、仕置人たちは全く「殺す側の苦悩」などとは無縁でいられたわけでしょう。「正義」なら、その思想と「殺すという行為」との矛盾に悩んでしまうわけですが、最初から「悪」なんだから、「もしかして『裁く』とか言って人を殺すのは『悪』になってしまうのかも……」なんて悩む必要性も何にもありません
     まあ、いくらなんでもマルマルの「悪」だとTV番組としてはあんまりだ、ということで棺桶の錠という「どこか正義」の人を配したのかもしれないとか、空想したりしてしまいますが。
     第2話「牢屋でのこす血の願い」の「頼まれなきゃあ見逃したかもしれないが、頼まれちまった以上、こっちも商売なんでね」という念仏の鉄の科白などからも、決して「正義」のためにやっているのではなく、ちょうど金になるものが見つかったのでやっている、という感じで──時々出てくる「許せねえ」というのも、別に正義のために許せねえんじゃなくて、要するに現代の「むかつく」と同じレベルの言い方でしかないわけです。「むかついた」から「仕置きしてる(殺してる)」、ただし、無料奉仕でやるほど楽なことではないので、金を貰うことで商売として成り立たせている、といったところでしょう。
     で、それがだんだん「無関心もよくねーな」「ちっとはましな人間になった気がするじゃねえか」と「正義」が被ってきてしまって、とうとう仕置人は終わってしまうわけですから、なんだかよくデキてるなー、と。
     さらに、次の「暗闇仕留人」では、「正義」として仕置をしようとしていた男、糸井貢は最後には死んでしまうし。煎じ詰めれば続く「必殺仕置屋稼業」もそうでしょう。
     「必殺仕置屋稼業」の第1話では、もはや涙などでは(正義などでは)動くまいと思い定めたような主水の「金だけでいいんだ」が聞かれますが、結局仲間同士の絆をも「正義の範疇」だとして捨て去ろうとしていた主水はグループの崩壊を前に、一握りのそれをつかみ取ってしまう。
     その後、さらに続く「必殺仕業人」の第1話で、「俺たちゃ、人様の命奪っておまんま食ってる悪党だ」と自分たちの定義をハッキリさせた後で、「だから仲間が欲しいんじゃねえか」と一旦自分の気持ちを納得させにかかる。いろいろと主水は「理屈」が欲しいようです。これは糸井貢が影響しているのかもしれない。
     一方、別れた友の念仏の鉄は、「必殺仕置人」最終回でトリックを使ってまで「別れ」を選択したくらいであり、早々に体に染みつこうとしていた「正義」を捨て去ってしまったらしい。その証拠に、主水が「必殺仕置屋稼業」で「金だけでいいんだ」と言っていたのをさらに突き詰め、江戸に戻って仕置人を再開したときには、依頼人のも名前も、殺らなきゃならないそのワケも──つまり、後期仕事人がやたら拘泥しだした「仕事のスジ」をきれいさっぱり考えないで金だけ貰ってやる「寅の会」のシステムをすんなりと受け入れていた。ここでは基本的に人情のからんだ仕置は行わなくなっているはずです。「必殺仕業人」に続く「新必殺仕置人」を見ていても、が意識的に「仕事のスジ」を確認してからコトに及ぼうとしているとは思えません
     それどころか、は一度鋳掛屋の巳代松の兄貴の頼みで、この後々のグループ仲間を殺そうとしていたわけですね。巳代松が仕置きされるべき人間かどうかは少し調べればわかるはずですから、はたぶん頼まれるままに、「スジを調べる」ことなど全くせず、ただ殺しに向かったものと想像されます。(因みに、このとき画面上では巳代松を殺そうとして竹砲を撃っていますが、これは単純に『反撃』とだけ捉えておけばいいでしょう)もちろん、正八か誰かが調べ間違ったなどの可能性も否定できませんが……。
     さて、そうして再び「やりたいことをやる悪党・念仏の鉄」と、正義にからまれた自称悪党・中村主水が再度組んでの「新必殺仕置人」がどうなったか。
     最終回、巳代松がつかまり、一体どう行動すべきかを話したとき、
    主水「俺は今まで自分を後生大事に生きてきた。誰が死のうと、誰がどこでくたばろうと、そんなこと俺は知っちゃいなかった」(嘘つけ)
    「俺だってそうだよ」(ちょっと嘘)
     の会話のあと、救出に赴いてしまいます。この時点で、再び主水の人情に呑まれてしまった。そして、ついに最期を迎える。
     主水はといえば、人情の部分をが引き取った分、また中途半端な位置となり、生き延びてしまう。
     主水は──「正しいことなんかないと思いながら、心のどこかでそれを信じていた」自分を、「ろくでなし」「悪党」と定義することで弱い部分を削ぎ取り、仕置という行為への原動力を得ていたのではないでしょうか。
     しかし、決して、口で言うような「悪党」になれていたわけではないのだと思います。「誰が死のうと知っちゃいなかった」というセリフにはどうしても、「嘘つけ」と思ってしまわざるを得ません
     実のところ、主水は人情の権化であり、ただ必死に自分を「悪」と定義して「弱さ」を切り離そうとしていただけだと思えてならないのです。
     しかし、それはいかにも中途半端なものでしかなく、結果、いくつものグループの崩壊を引き起こし、あるいはくい止める力を持たなかった──。
     さらに、「必殺商売人」を挟んで「必殺仕事人」の仲間としてかざりのが加入してきたとき、主水は一つの危機感を抱いたかもしれません。これまでは仲間たちは自分と同じかあるいは同レベルまで人情を抑えられる連中たちだった。あるいは自分の人情への傾斜を引き戻せるだけのクールさを持っていた。
     ところがは全く逆で、しばしば主水をその人情脆さに引き込んでしまいそうになる。
     「悪」を標榜することで、人情への没入から自分を遠ざけてきた主水が、もし「正義」を認めてしまったら──ここで「必殺仕事人III 」の冒頭で、順之助に対して言っていた科白が思い出されます。
     「金を貰うのは、歯止めなんだ」
     これは、主水の堕落を示す科白として捉えられるむきもありますが、あるいはあの時点での中村主水のギリギリの本音だったのではとも考えられるのではないでしょうか。
     「仕事人」半ばからの「情」に呑まれる形で、正義への天秤が傾いていく。これまでなら、それが限度を超えた時点でグループの崩壊が訪れていたのだが、微妙なバランスを取りながら、「仕事人」は「正義の味方」へとなだれ込む。
     このとき、悪を標榜することで自己正当化を図ってきた主水アイデンティティーは混乱を来したはずです。
     もし、自分たちが「正義の味方」──だとすれば、いったい正義というのはなんなのだ? 金を貰って人を殺すのが正義か?
     「俺たちのやってきたことで、世の中少しでも良くなったか? 俺たちにやられた奴にだって、家族や好きな奴がいたかもしれん」
     主水は──
     「正しいことなんかねえと思いながら、心のどこかでそれを信じて」──
     いたあの頃から、ちっとも変わっていない。「正義」を信じている。だから、「金を貰って人殺しをする」「人様の命をちょうだいしておまんま食ってる」自分を、絶対に、「正義」だなどと認めるわけにはいかない……のではなかったでしょうか。
     だから、の足を引っ張る、「悪」への熱い怒りを燃やさない。「金で割り切れ、金で」と、いじましいまでの「小悪党ぶり」を表出する。
     「かっこいい」「正義の味方」なんかになってたまるか──と思い続けたのが、「仕事人」以降の中村主水だったのではないでしょうか。
     だから──仕事人以降の主水が、それ以前のような或る「かっこよさ」を見せないのは当然です。
     「公儀隠密か!」「違う……仕置人だ」
     あの頃の中村主水は自分の「仕置人」というヒーロー性を楽しんでいた。しかし……(おっぺ)
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