感想文等 | ↑ 。。。というのが、帯の惹句。 他ならぬ貫井徳郎の作品でこういう惹句がついていると、かなり読み応えがありそうだったので、ついついハードカバーだというのに買ってしまった。 というより、これが西澤保彦とか加納朋子の新作なら、ほっといてもちゃんと図書館なり古書店なりででも再会はまず100%に近くあり得るのだが、貫井徳郎だと必ずしもそうは言えないという哀しい現実があり(泣)、本は買えるうちに買えという格言にもとづき、入手しておいたというのが本当のところ。ここ数年来の本の入手難は、実際、情けなくなるほどなのだから。
で、読み終えたばかりのこの作品、別にミステリーの限界を超えた新世紀の「罪と罰」などではないのだが、読み応えはあった。とはいえ、これは読者をたぶん選ぶ小説ではあるはずで、神がどうの罪がどうのという宗教的或いは哲学的と言ってもいいのかもしれないが、そういう抽象的形式的論理のようなものが「好き」で生きている、或いは生きていた経験がある読者にとっては、このうだうだ「どうでもいい」ことで悩んでいる主人公は面白いかもしれない。
実際のところ、貫井徳郎は今さらそういうSFで取り組むようなテーマを選択したというわけではなく、実はちゃんといつもの貫井徳郎でいるのだが、この三部構成のミステリを読みながら、いったい貫井徳郎はどういうスタンスで、どういう手つきでこの小説を書いているのだろうかと思ったりもしていた。それについては、ちゃんと第3部途中で判明するのだが、、、それにしても、第2部エンディング部分はなかなかに戦慄した。これは恐ろしいものだなと感じられた。私は冷たい人間なので、小説を読んでいてたいていの犯罪には心を動かされない。別に犯人、加害者と一緒になって悦んでいたりはしないが、綾辻行人「殺人鬼」や、我孫子武丸「殺戮にいたる病」などを読んでいても、平然とのんびり読み進められてしまう。或いは全くこれらの犯人・加害者とじぶんとに共通感情が持てないからなのかもしれない。 が、この主人公の早乙女には、もしかしたら割と感情移入していたのかもしれない。だから、特に第2部終了時での早乙女の殺人に、戦慄を感じることになったのかもしれない。
さて、この小説には、ちゃんといつもの貫井徳郎らしい仕掛けが存在していて、「慟哭」のときのようなサプライズはすでにないものの、やはり再読くらいはしたいものだという読後感になった。それにしても、第1部の早乙女と第2部の早乙女との間に何ら違和感が無いというのは、本当に、第3部の父子の様子を読んだあとでは苦笑という感じになってくるなあ。。。
この小説が本当に「ミステリーの限界を超えた新世紀の『罪と罰』」のようになろうとすれば、当然この2倍3倍のページを必要とするだろうし、予定された結末に着地するためのミステリの宿命から考えて、この惹句のようであることはまず考えられないのだが、それは勿論、この小説の価値を別段損なうものでも何でもないのだ。その辺を混乱した書評が出てきたりしたら、哀しいなと思ったりはする。(おっぺ)
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