感想文等 | われはわれとてひとすじに恋いわたりたる君なれば、あわれシナラよ。。。
キリオン・スレイ。砂絵のセンセー。物部太郎。都筑道夫の「名探偵」たちは、いつも面白いロジックできりきりマイさせてくれた。 「誘拐作戦」。「紙の罠」。「宇宙大密室」。しばらく読まないでいると、なんとなくかつえたような感じになって、何か買わないでいられなくもなった。 それでも、怪談であれSFであれどこかミステリ的にロジックが通りすぎている気がしてきてしまって、そこが今ひとつドライな感じがして、特に最近はあまり積極的に読めなくなってしまった。本棚にあるのも、キリオン・スレイと片岡直次郎、物部太郎の1連のシリーズだけだ。 けれど、これだけは。。。と思ってしまうのが、初期長編の1つ、この「猫の舌に釘を打て」だった。
人並みかどうかは知らないが、恋の1つもしたことくらいはある。そして、かなったことなどない。そのくだくだしい辺りを書いてみても仕方がない。 「猫の舌に釘をうて」を読んで、そのたびに感じるものは違うのだけど、それでもどうしても、この1節だけはたまらなくなる。 われはわれとてひとすじに恋いわたりたる君なれば、あわれシナラよ。。。
ひねくれ者の私は、純粋に恋愛小説としてのみ、あるいは「純」文学としてのみ書かれたものに対しては、比較的冷淡だ。どんなにベストセラーになろうが賞を取ろうが映画になろうが、読まなければという強迫観念の虜になることはない。むしろ、評判になればなるほど醒めてくる部分が多分にある。 おそらく私は、根本的なところで、「ミステリ」とか「SF」とか、つまりは「1歩客観的に下がった」位置から、あくまでエンターテイメントのフィルターを通して提出されたものでなければ、素直に受け容れることができない性分らしい。文学である、哲学である、と真っ正面から突きつけられるとどうにも照れくささや窮屈さを感じて、ひどくすれば胡散臭さすらも感じ取ってしまう、そんな拗ね者の部分を持っている。 これが、いったんミステリの殻やSFのオブラートに包まれて提出されると、いささか浅薄なものにでもコロリと参ってしまうのだから単純なものだ。ひねくれているんだか単純なのだか矛盾しているが、そういう人間として生きてきてしまった。変えられるのかもしれないが、強いて変えたいとは今のところ思ってはいない。 この「猫の舌に釘をうて」は、都筑道夫の「蘊蓄」と「ロジック」と「バズラー」と、ここまでは頭の先から都筑道夫なのだが、もう1つ、他では計算として外してあるのだろうが、ウェットなところを思う存分前面に出して作ってある。「完成作」だ。「余分」と思えるところは山ほどあるが、それがきっちり作品全体に雰囲気を培っているのは間違いない。他の作家が描いたものならベタベタしきってどうにもならないところが、都筑道夫だから「1歩引いて」しかし思いきりウェットという離れ業に成功しているのかもしれない。
「私」と有紀子の回想シーンの中での会話は切ないものだ。ここだけ取り出せば、しかし、ありふれた情愛小説でしかないのかもしれない。ミステリという中で語られるからこそのハイパワーなのだ。これがエンターテイメントの武器というものだ。そして、この「猫の舌に釘をうて」では、凝りに凝った構成と叙述トリックが待っているのだから、脱帽するしかない。こんな作品が1級のミステリといわれてしかるべきだろう。私ももう、今後はこういうタイプのものしか読めなくなってしまうような気はする。
今回読み返していて、あるシーンでは、グレアム・グリーン「ジュネーヴのドクター・フィッシャーあるいは爆弾パーティ」を読みながら感じた焦燥と祈り?を思い出した。読みながら登場人物の行く末について真剣に案じ、そんなことのないように。。。と祈ったのは、思い出す限り、せいぜい2,3回しかない。
この作品の後味がいいかと言われれば、後味なぞ決してよくはないと答えよう。こんな切ない作品は読み返したくない、と昔思った。グレアム・グリーンのあの作品は、あれから2度と読み返していない。けれど、バズラー・ミステリとしての構成に守られたこの「猫の舌に釘をうて」はこれで3,4回読んでいる。読むたびに感じることは違っている。変わらないのはただ1つだ。われはわれとてひとすじに、恋いわたりたる君なれば、あわれ。。。
こんな愛しかたしかできなくて、すまない。
そう。。。何度胸のうちで泣いたことだろう。。。 泣いたことだろう。。。(おっぺ)
・途中、白いページが続きますが、そこでやめないで! ・犯人=被害者=探偵というトリックです。これはネタバレではないので安心して読んでください(笑)。 ・せつない。「三重露出」と合本になっているのは、せっかくのトリックを台無しにしているのでダメ。
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