感想文等 | 読まず嫌いはいけないな、、、と思ったものだった。。。(おっぺ)
北村薫がさ、どこでかな?言ってたけれど、 「人が小説を読むのは、人生がヒトツシカナイ、ことへの<(ささやかな?)抗議>だ と思います。」ってね。(ワタシは、本の雑誌『ダ・ヴィンチ』で、見たように思う・・ ・)
ア、「わかる。」って、オモッタ。
でも、”ソレバッカリジャナイ”。
確か「花嫁人形」に、 ”織ちゃんと自分(昭菜)の境遇がチガウのに、感動するモノは同じ”・・・。 ミタイナ、箇所、ありましたよね? 「コレも<道理?・・ト、イウカ・・普遍?>」 ダト思った。ウン。
どこに書いたっけ?<独我論>の、ハナシ。 (そこともツナガッテクル、と、思うのですね。)
「見知らぬあの人はワタシ・・・、ワタシはあの人・・・。」
すべて”環境に左右サレルワケデハナイ”。ニンゲンは。 「占い」は、”いつも当タルワケデハナイ”。
「意志や愛、そして信仰?」で、動かせるナニカ、も、タクサン・タクサン、アルので はないか。(事実・聖書には「あなたに信仰があれば、山をも動かせるだろう」と、謂う セリフ(爆)が、アルノデスヨ。)
でも、”この環境に置かれたらコウナルだろうな〜〜”トカは、思ったりもシマス。 だから、「ソレ」は、<ナルシシズム的自然>、ダト思う。 (「占い」も、ある程度?”自然法則観察”、ミタイな、トコ、アルじゃないッスか。 )
小説・は、ナルシシズムの<可能性(実験?研究?)>、カモシレナイ。 (SFなんて、ある種のヤツ・は、モロ、ソウかも。)(新潟県人)
私は、本のあとがきだか解説だかでその言葉に触れたような気がします。。。
「小説を読むのは別人生の疑似体験」という言い方はよく聞くところですが、「ささやかな抗議」という言い方は、北村薫流かもしれませんね。。。(おっぺ)
単行本「空飛ぶ馬」裏表紙に書かれた著者の言葉ですね。 ちなみに原典は 「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」 となっています(^^)b
僕はこの言葉に対して連想したのは、自分でも不思議なことですが小林秀雄「当麻」です。 そうあの有名な一節 『美しい「花」がある。「花」の美しさと言う様なものはない』 という文章です。これは世阿弥「花伝書」を受けてのことですが、僕には小林秀雄があるはずのないといった「花の美しさ」を記そうとしているのが小説なんじゃないかな?と思ってます。 自分が生きている人生以上にリアルで真実味のある人生なんてあり得ないのに、僕たちは、もしかしたら、ないと知りつつも求めずにいられない、という意味で。
北村薫は「秋の花」と「植物採集」「ものがたり」が好きですね。(小林和彦)
江戸川乱歩の「現世は夢、夜の夢こそまこと」とか。 たぶん森茉莉も似たようなことを言い。
もしかしたら、佐々木丸美の作品もそうかもしれず。
とりあえずの接することのできるパラレルワールドとして、小説や物語は機能してくれている。。。ふうにだけ、ささやかに(笑)私はは感じたりするのです。。。(おっぺ)
特に「冬のオペラ」と「ターン」。
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