日本基督教団の成立


 昭和15年8月31日、福島民報に「神の教へも新体制・キリスト教会大同団結」
という記事が載っている。メソジスト教会や日本基督教会など日本のプロテスタ
ント各派の教会代表が集まって、外国からの経済援助、宣教師の排除などを採択。
合同団結して日本基督教団という単一統合の宗教団体結成を決め、欧米神学に影
響されない日本純正のキリスト教の誕生と謳われているものの、「皇紀二千六百
年記念日本キリスト教大会には宗教団体法に初めて宗教法人として認められたこ
とを記念する」と報じられており、文字どおり天皇制の下に認可された宗教とい
う国家との屈辱的な妥協の産物であった。



 
プロテスタント諸派の合同とデサイプルの合同支持

 「一九三九年(昭和十四)一月十八日、平沼内閣によって「宗教団体法−」が
議会に提出され、超非常時局大政翼賛議会はこれを難なく通過させた。この法律
では宗教団体を設立しようとするときは、一定の事項を記入した規則を作成して
文部大臣に提出し、その許可を受ける必要がある。その見返りとして、認可され
た宗教団体は文部大臣の保護監督の下にあって、一定の利益をうけ、例えば戦時
体制下にあって他からの指図や干渉からのがれ、それ自身の教務を完全に執行す
ることができる。
 当時のキリスト教界は、三十余の教派にわかれ、その組織は民主的で、各々別
個に活動し、その多くが欧米の教会と関連をもっていた。このままでは、文部大
臣の管轄下に入らない「宗教結社」となり都道府県知事に結社の届けを出さざる
を得ず、内務大臣の監督下で厳しい取り締まりをうける恐れがあった。
 基督教会(ディサイプルス)は昭和十五年十月十六日聖学院中学で教役者会議
を開き、大合同支持を議決翌年六月の教団創立とともに、第三部に所属すること
になった。」 
日本基督教団(編)日本基督教団史 日本基督教団出版部(一九六七)



 
一九四一年(昭和一六)
 全教派の大合同教会成る

 昭和一六年に入って、日米関係は一触即発の状態になった。各国大使館や各教
派の伝道局は在日宣教師に帰国を勧告し、多くの者はそれに従った。わが基督教
会のヤング夫妻は三月に帰米し、残るはマコイ夫妻のみとなった。時局の緊迫は、
全教会の大合同について一日の猶予をも許さなかった。前年一〇月の信徒大会の
決議に続いて早速合同準備委員会が発足し、各教派の信条や伝統の相違から難行
したが、外的圧力もあって、一六年三月には合同教会創立委員会(委員三一名、
千葉儀一を含む、委員長富田満)が作られ、六月二四、五両日富士見町教会で日
本基督教団の創立総会が開催されるに至った。
 ただし、準備段階で大きな問題となった各教派の信条と伝統とを持続し得るよ
うにするため、暫定的に部制合同によることにした。この大合同に参加したのは
三十三派(信徒数二四○、六二○)で、参加しなかったのは聖公会とセブンスデ
ー教会だけであった。(注、聖公会は単独の教団設立が認可されず、一八年七月、
六〇余の単立教会として参加し、セブンスデー教会は一九年六月解散を命ぜられ
た)。合同教会は一一部から成り、わが教会は第三部、四谷ミッション系(東京
基督教会)は第一〇部に加入したが、雑司ケ谷ミッション系は上富坂教会のよう
に閉鎖した所が殆んどで、細々と家庭集会を続けたようだ(昭和四八年、お茶の
水キリストの教会小幡史郎)。日本基督教連盟、日本日曜学校協会などは発展的
解消を遂げた。なお創立総会の各派割当て議員数はつぎのとおり。
第一部 日本基督教会      八六名
第二部 日本メソジスト教会   六三
    日本美普教会       四
    日本聖園教会      --------
第三部 日木組合基督教会    四七
    日本基督同胞教会     四
    日本福音教会       四
    基督教会         三
    基督友会        --------
第四部 日本バプテスト教会   一〇
第五部 日本福音ルーテル教会  一○
第六部 日本聖教会       --------
第七部 日本伝道基督教団(日本イエスキリスト教会、基督伝道隊、日本協同基
督教会、基督伝道教会、基督復興教会、日本ペンテコステ教会、日本聖潔教会)                 一四
第八部 日本聖化基督教団(日本自由メソジスト教会、日本ナザレン教会東部部
会、同西部部会、日本同盟基督教会、世界宣教団)      一〇
第九部 日本きよめ教会、日本自由基督教会         一〇
第一〇部 日本独立基督教会同盟会(ウェスレアン・メソジスト教会、普及福音
教会の一部、一致基督教団、日本聖書教会、東京基督教会、聖霊教会加入)一三
第一一部 日本救世団(旧救世軍)一〇
推薦議員            一〇
              計三二〇
 創立総会(わが教会から千葉儀一、石川養之輔、友野三恵が議員として出席)
では教団規則を可決し、統理者に富田満(旧日基)、代務者に小崎道雄(旧組合)
を選んだ。一一月二四日に文部省から教団の設立認可が下りた。政府は仏教の各
派の統合も進め、キリスト教では日本天主教団(統理土井原確)と日本基督教団
の二つを認めただけであった。(注、教団名については「基督教会」としてはと
いう意見もあったが、それではわが教派と同じになるというので「日本基督教団」
に決まったのだ----千葉儀一談)
 昭和16年当時の教会月報は、「基督教会の年会は教会大合同への参加を決議し
たので、五○年の歴史を持つ年会も今回で最後となり、従って総務委員会もなく
なり、今後は年会で挙げられた実行委員会が処理して行くことになった。その氏
名は 委員長=千葉儀一(東京)」と記しかつての原町基督教会牧師だった千葉
儀一が、旧教派の幕引き役と新生の日本基督教団の創立メンバーの一員であるこ
とを示している。


 
戦時下のキリスト教界 概説

 戦時下のキリスト教界 昭和期後半のキリスト教界は、昭和一六年一二月の太
平洋戦争突入、二〇年八月の敗戦、二七年四月の平和条約発効(独立回復)など
政治動きに影響されるところが多かった。苦境に立った教団日本基督教団の成立
半年後、日本は太平洋戦争に突入、教団はきびしい戦時下の要請にいかに対処し
て行くかという苦しい立場に追込まれた。軍事政府と憲兵がキリスト教は国体に
反するとして圧迫の挙に出たので、全教会と全信徒とを保護することは容易でな
かった。教団が国策に追従し過ぎ、自信を欠いた動きをしたとしても、止むを得
なかったと見るべきであろう。

 弾圧と迫害 キリスト教会と教徒に対する迫害は、すでに戦前から顕著であり、
昭和一五年八月には賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で憲兵隊に拘引さ
れ、投獄された。開戦後の一七年六月にはホーリネス系聖教会・きよめ教会に属
する教職一○六名が天壌無窮の皇運と国体に反する教義(再臨信仰・終末思想)
を宣布したという理由で検挙され、四一名が一〜四年の刑をいい渡された。
ついで一八年四月には両教会が結社禁止処分にあい、教職たちは生活にも困窮す
るに至った。(拘引中に一名、釈放後に二名の教職が病死した)。

 教団未加入の聖公会教職)にも投獄されたものがあり、セブンスデー・アドベ
ンテスト教会では一八年六月全教師と有力信徒が検挙され、一九年六月に教会の
解散を命ぜられた。

 報国団と練成 教団では開戦前から基督教報国団を組織していたが、開戦後は
これを強化し、地域の防災、託児、国債割当など戦時緊急事項の処理に協力した。
一方文部省からの要請により、教師たちに大東亜における日本の使命を理解せし
めるために練成会を開いた。「日本的基督教」が好んで口にされるようになった
のはこのためである。教団は中国、フィリピン、インドネシア等に多くの教師を
送り、現地の教師信徒との交わりを深めた立教団はまた文部省の要請により、戦
時布教指針を発表したが、それは宗教報国、日本基督教の確立を骨子とするもの
であった。

 空襲決戦下の教会 昭和二十年に入ってドイツは撃破され、日本に対する空襲
は激化した。帝都はたちまち焼け野原となり、多数の教会が罹災した。この間に
も教団では、困難な信仰告白よりもまず「信仰問答」をと、その作製に努め、二
十年五月文部省に草案を提出したが、文部当局は、現人神なる天皇を神とキリス
トの下位においていること、キリストの復活信仰は幼稚な迷信であるとして不満
を示し、改正を要望した。その帰途、統理者富田満と教学局長村田四郎は「いよ
いよ殉教かも知れぬ」と語り合ったという。圧迫は日に日に激しくなったが、こ
の問題については、文部省から何の連絡もないままに終戦となった(東京教区史)。


 
日基原町幸丁教会

 
 成瀬稿日本基督教団原町教会75年略史はこの間の事情を次のように書いている。
「4 日本基督教団の成立と終戦」
 戦局の進展に伴って戦時態勢の国策の一つとして企業合同があつた。あらゆる
企業は戦力増強の目的で合同の策がとられたが宗教団体もその例外でなく、宗教
団体法が成立して、プロテスタント教会の合同が進められた。

 日本のプロテスタント教会はこれを神意と受けとめて大同団結を決議し昭和十
六年(一九四一)六月、日本基督教団が成立し、原町教会も日本基督教団原町幸
丁教会と名称を変更し、宗教団体法の規制を受けることとなった。従ってその規
定によつて古山牧師辞任のあと主管者を置かなければならないので、平教会(い
わき教会)の中村清次牧師が兼任することとなり、月一回出張して教務に当った
が、宗教活動は殆んど不可能となり、会堂は鉄道教習所の教室に転用され建物は
日に荒廃していつた。その間教会敷地の一部(約四〇坪)が道路設置の名目で無
償収用され、接渉の上敷地西側に二〇坪の代替地を求め敷地は百七十五坪に減少
した。昭和二○年(一九四五年)一世紀の敗北を喫して十年間に亘る戦火はその
幕を閉じた。」

 成瀬稿による最初の教会史パンフレット65年略史では、信者の態度に対する表
現がやや異なる。 「プロテスタント各派はこの期を神意と認めて合同を決議し
昭和16年(1942年)30教派が合同して日本基督教団の成立を見るに至り、日本基
督教団原町幸丁教会と名付けて、合同最初の牧師として古山金作牧師を迎えるこ
とになった。古山牧師は自給教会最初の牧師として非常に困難な中に教会に当た
った。遠藤剛男、阿部喜一、佐藤馨諸氏が教会の危機に対処してその運営を助け
た。

 時局いよいよ苛烈を加え、古山牧師も炭鉱方面に徴用されて出働、続いて福島
教会副牧師に招請を受けて原町を去ることに成って、すべての集会は停止のやむ
なきに至り、教会堂は一時鉄道教習所に転用されることの成り、その混乱不況の
機に教会敷地の一部は町の行政区画整理を理由に無償接収されて現在の教会東側
の道路が出現した。

 信徒達は官憲の偏見を恐れて或いは転向し、浅薄な排米英思想に惑わされて信
仰を捨てて時局の中に埋没する者が続出するという最悪の事態に直面したのも止
むを得ぬことと言はねばならない。

 基督教は徳川時代当時のような苦境に立ち、獄中に病死した牧師も多数生じた。
教会の十字架は撤去を命じられ、教会の集会には特高が私服で偵察し、教会の名
簿記録等は官憲に没収されて遂に帰らなかった。然しその間にも数名の信徒は教
会の管理に当たり、法の定めに従って、平市の磐城教会牧師中村佳次牧師が兼務
主管者として教会は存続したが、宗教活動は不可能の状態となり、やがて終戦を
迎えた。」

 成瀬氏は、65年史から75年略史に改稿するにあたってかなりの部分を削除して、
やわらかい表現に直している。信者や警察に対しての非難がましい批判が表面に
現れすぎる、と思ってのことだろうか。
 時代が変われば、信者や牧師ら信仰者をとりまく状況も変わる。確かに戦時中
は信仰者にとって困難な時代ではあったが、豊かで自由な時代と思われている今
日の状況もまた、別な意味での困難で深刻な時代なのではなかろうか。

 敗戦によって日本の社会は劇的な変化に直面した。旧体制が崩壊する。
昭和21年、年頭には「天皇の人間宣言」が行われた。

 いったんは合同した日本基督教団から、ホーリネス教会がいちはやく離脱し独
立した。一度は天皇制を呑み込んでしまった日本基督教団にとって、みずからの
腹の中から再び別教派を吐き出すことは、苦い体験となったのである。終戦後の
状況については別にあらためて筆を起こすが、成瀬氏の旧稿で前半をしめくくる
ことにする。

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