公教会と奇跡

 宗教、特に基督教に奇跡は付きものの樣に言われます。
他宗教では奇跡の類いは格好の宣教材料とされ、それがテレビや雜誌を賑わ
す事もあります。特に新興の御利益宗教と呼ばれるものに、その樣な傾向が
顯著であり、空中浮揚や難病が治った等と大騒ぎに成ります。その殆どは再
現性の無いものや、何等証拠の残らないものです。
 
 基督教での奇跡は数知れず、特に公教会での奇跡は広く世に知られていま
す。他宗教と大きく違うのは、それ等に対しての扱いです。この章では基督
教と奇跡に付いて解説します。
 公教会の奇跡には外部も認めたものが多く、形として現存するものも多い
のです。五百有余年を経ても腐敗せぬ遺骸等も多くあり、『ルルドの聖水』
やカイロの奇跡等も外部に認められています。反論を試みた者も居た様です
が、一つの成功例もありません。

 腐敗せぬ遺骸とは一般的なミイラとは全く違い、埋葬時に防腐処理も内臓
の取り出しもせずに、全く通常のままに納棺されたもののみを指します。そ
れが後の改葬や、列福調査で棺を開けられた際に始めて判ります。地下の墓
室等の場合は水没している事も多く、必ずしも保存環境は良好ではありませ
ん。
 その状況でさえ遺骸に何等の腐敗も無く、生前と見紛う程の状態を保って
いる。皮膚に十分な弾力が殘存するし、メスを入れると鮮血が出る。稀有な
例ですが白髪が黒髪に戻った例もあり、死亡時の傷跡が消えていた例もあり
ます。

 奇跡と申しても決して良い加減なものでは無く、公教会の認める奇跡は極
めて厳しい審査を経ます。審査には外部の中立機関も参加しますし、五感で
確認出来る証拠が残っているか或いは再現性のあるもので無くては成りませ
ん。『ルルドの聖水』の奇跡等の医学的なものは、外部の医師も認定に参加
します。それでも数多くの奇跡が世界各地に現存します。特筆すべきは公教
会は奇跡を認めたがら無いと言う事です。
 幾つかの理由がありますが、その一つが奇跡によって信仰を過つ可能性が
言われます。ここで「教会」と言う文言に付いて、少し詳しく述べたいと思
います。

 「教会」と言う文言には1.建造物として2.組織として3.信仰共同体と
しての三つの意味があります。内村鑑三先生の「無教会主義」とは、この内
の2.組織としての教会を嫌ったものです。即ち官僚化し、或いは権威主義
に陥った組織に反撥したものです。
 話しを戻しますと公教会の信仰とは、組織の指導のもとに建造物たる教会
に參じて、司祭の導きで祈り語らうのが理想とされます。奇跡に目や心を奪
われると、信仰の対象が「奇跡そのもの」に移ったり、奇跡を起こした者を
崇拝したりします。奇跡本来の意味は神がその力を顕したり不信心者を諌め
たり、篤信者を励ましたりする場合に起こります。
 ですから奇跡そのものが有り難いのでは無く、奇跡を起こした神やイエス様
やマリア様が有り難い訳です。ところが凡人にはそれが判らず、恰も黄金の
牛を崇め奉ったモーゼ時代の過ちを懸念されます。そうなると信仰の本筋か
ら離れて、神の御教えから逸脱した「似て非なるもの」に成ってしまいます。
それを危ぶむ訳です。

 もう一つの大きな理由は公教会も組織ですから、信者が教会に参ぜずに奇
跡に日参していては献金も集まりませんし、公教会の權威も揺るいで成り立
たなくなります。その意味でも奇跡を安易に認めたくないのです。
他の理由としては今更大騒ぎせずとも、奇跡は本当に捨てる程その辺にあり
ふれている事、奇跡には神の力によるものと悪魔が人を騙して信仰の妨げを
目論む為のものがあるからです。結果として厳選されたものだけが奇跡と認
定される為、外部からの異論や反論に耐え得るものだけが殘るのです。