「法」は人の為に

 ここで言う「法」とは一般に言われる法では無く、宗教上の法です。原始宗教
の「律法」にファリザイ派が固執、イエズスを迫害した事がキリスト教とユダヤ
教に分裂する原因ともなった。
 イエズスは「人の為に法があるのだ。法の為に人があるのではない。」と言わ
れ、理に適った教義の解釈をされ且つ実践された。対して原理主義的な連中は己
の權威を危うくされ、人心も離れて行くのが堪らなかった。結果としてイエズス
やその使徒達を迫害したり、より原理主義を強化する動きに出たのだろう。

 第一義的に考えれば、神は人に不必要な難行苦行を課せられなかった。良く知
られる十戒や「主の祈り」の他はああせい、こうせいとは申されなかったし、人
の道などは十戒に凝縮されている。
イエズスは「安息日に池に落ちた子供を救い上げるのは是か非か?」と反問為さ
り、神の御心を曲解して憚らぬ者を窘められた。

 何度か言及したが、イスラム世界では原理主義の色合い強き国家が多く、驚く
樣な事が散見される。憲法よりも経典が優先される事もあり、タリバーンが発布
した女子に対する御触れには耳を疑った。
 女性は働きに出ては成らず、家に篭もって夫に尽くす。すべての職場や職業か
ら女性を排除すると言うものであった。社会的に大混乱を招くだろうし、何より
もアラーの神はこの様な愚を望まれたのか?
この愚策を強行するにあたり大問題が判明した。看護婦を廃止すると代わりをす
る者が居らず、医療が立ち行かぬ事が判ったのだ。結果として看護婦だけは例外
されたが、思慮浅き「是を遣ってみようか?」の結末である。

 念を押すが人の幸せを願わぬ神は無いし、徒に難行苦行を課す神も無い筈だ。
神の御教えを己が都合で曲げたり、權威付けの為に可笑しな教義を創り出して仕
舞う破戒者が宗教を卑しめる。