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里屋和彦の『エネルギー学講座』



(2002/08)

Vol.30 電力業界とガス業界の融合について
欧米人に対して、日本の電力・ガス業界の実情を理解してもらうのは相当困難である。

欧米人に、日本では電力業界が、ガス業界を脅かしている昨今の状況を説明しても"really? real threat?"と聞き返されてしまう。

彼らの頭の中には、電気は幾多の工程を経て作られる高級なエネルギー形態であり、それがゆえに高価なもののはずである。それに比べてガスは、ガス田からパイプラインを通して運んでくるだけだから、当然安価であるに違いないと(拮抗している国もあるが、捨象する)。

10社で、日本全体の需要家を賄っている電力会社と、243社で、日本全体の半分の需要家しか賄っていない都市ガス会社とでは、政治力、経済力に大きな差がある。一社の規模でいうと、電力会社に対抗できるのは、東京ガス、大阪ガス、東邦ガス(名古屋)くらいで、それ以下の240社は、中小企業群といってもいい過ぎではない。

この規模の差が、ガスと電気という商品の生産過程の差を無視して、末端価格が拮抗してしまうという現象を生んでいる。

さらに、欧米においては、そのエネルギー価格差に応じて家庭用の機器においても、棲み分けがなされている。

例えば、寒さの厳しい欧米諸国では、特に暖房を発展させてきた。単に火を燃やすだけのストーブから、ボイラーで温水を作り、その熱を各部屋に設置したラジエーターに効率的に供給する、セントラルヒーティングが誕生し、さらに、ふく射熱を利用したふく射式温水パネル暖房へと、暖房の歴史を発展させてきた。そこで使われる燃料は天然ガスである。

一方、日本では、電気対ガスのエネルギー競争は、あらゆる家庭用機器で激しい競争が繰り広げられてきた。

ガスは灯りで負け、炊飯器で負けたが、電気温水器に勝ち、床暖房に勝ち、衣類乾燥機に買ってきた。(ガスエネルギー新聞 2002年8月28日号より)

このような競争はひとえに、日本における両者の価格が拮抗しているから起こってしまう訳で、何度もいっているように、ガス・電気の本来の物理的性質に基づく適切な棲み分けが歴史的になされていなかったことに起因するねじれ現象である。

ところで、米国においては、近年、ガス会社と電力会社が合併するケースが非常に増えてきている。1997年から1999年にかけて、5億ドル以上の資産価値を有する企業の合併数は20件に達している。

また、ドイツやオランダのような欧州諸国では、伝統的に数多くの公益事業がガスと電力を販売してきており、ガスと電力の間には下流での統合が見られる。

英国では、地域電力会社と2大発電事業者であるナショナルパワーとパワージェンが、ガスの子会社を有するか、ガス供給会社の主要な株主である。(「エネルギーセキュリティ」矢島正之 東洋経済新報社 133〜135頁)

このような欧米の近年の動きは、無論、自由化の進展によるところが大であるが、日本のような奇妙な対峙関係とは、その感覚において大いに異なるのである。

こういった中、日本においては、電気事業法・ガス事業法は電気事業者・ガス事業者がほかの業務を行うことを厳しく制限してきたが、99年5月の両事業法の改正によってこの条項(いずれも第12条)が削除された。この結果、東京ガスと大阪ガスとNTTが電力分野に進出したり、電力会社がガス分野に進出したりする動きが活発となっている。

今後は、電力・ガスの境界線が無くなり、競争はますます激化していくであろうし、また、同時に電力会社とガス事業者の合併、電力会社同士の部分統合、石油会社や商社、通信事業者、電機メーカー、コンピューターソフト会社などのの異業種企業の勃興など、多くの変革が起きてくるだろう。

もちろん、電力会社とガス会社が単純に合併すればよいというものではない。独禁法に抵触していきかねない懸念もあるし、歴史を逆戻りさせてしまう。とにかく今は、寡占がよいのか、独禁法による適度な市場がよいのかなどの神学論争は、狙われている日本において行う余裕はない。

もし、電力会社とガス会社が敵対し消耗戦を続けるなら、この間隙を抜って、外国資本を巻き込んだ複合的な提携を梃子に、諸外国に国家の根幹であるエネルギー供給体制に対して楔を打ち込まれかねないのである。

2002/08/31(Sat) No.01

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