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里屋和彦の『エネルギー学講座』



(2001/12)

Vol.21 エネルギー産業の自由化(9)
カリフォルニア電力危機(2)〜電力危機発生

前回の電力危機前夜の復習と危機発生までをスケッチする。

電力危機発生前夜の状況を、再度、歴史を遡って少し詳しくみていく。

1970年代の石油ショックの後、アメリカ政府は石油に頼らない発電に力を入れ始めた。そして、カーター政権時代の1978年に、公益事業規制政策法(PURPA)を成立させ、原子力、風力、ソーラーなどから発電された一定量の電力を、電力会社は買い入れることが義務づけられた。

石油ショ ックを背景として施行されたPURPAは、省資源や効率的な発電の促進を目的とした連邦法であり、同法の下で電力会社は小規模発電事業者やコジェネレーションからの余剰電力の購入義務が課せられた。それ以来、連邦レベルで多くの小規模電源が出現し、卸売市場が急速に拡大したのが、 米国における電気事業の規制緩和の端緒といわれている。

ところが、90年代初め、原子力は厳しい環境規制により建設コストは60年代の3〜10倍にもなり、風力や太陽光発電も火力発電よりコスト高であった。

それに、カリフォルニアの人々は環境問題に先駆的で、発電所建造・運営に関する環境水準が厳しいため、同州の電気料金は、他のどこの州よりも高かった(全米平均と比較し30〜50%も割高)。

このため、州内の大口の電力消費企業(製鉄やセメント工場)を中心に、大手電力会社以外からも電力を購入できるようにしてほしいという訴えが相次いだ。

電力会社も、その後、意外にも石油価格が下落したにも拘わらず、風力やソーラー発電等の割高な買い物を続けなければならなくなり、損失を増やしていった。

90年代初めは、ちょうどアメリカ経済が不況のときで、電力は余っていた。「作り過ぎにも関わらず、電気料金が高い」。そんな状況を打開するために、電力市場を自由化し、市場競争原理によって、電力料金を下げることを目指した。

1995年12月に、CPUC(カリフォルニア州公益事業委員会)は寡占状態にあった電力市場に自由競争の理論を導入する規制緩和を認可した。

1996年9月に、ピート・ウィルソン前加州知事(共和党)は電力市場の規制緩和法案(AB1890)に署名した。規制緩和をビジネス拡大のチャンスと見た大手3社も積極的に賛成にまわり、カリフォルニアは米国で初めて電力自由化に踏み切った州となった。自由化の仕組みについては、前回説明した通りである(Vol.20参照)。

※大手三社:PG&E=パシフィック・ガス&エレクトリック、SCE=サザン・カリフォルニア・エジソン、SDG&E=サンディエゴ・ガス&エレクトリック

そして、1998年の1月1日からは、一般消費者への全面自由化が施行され、消費者は電力供給先を自由に選択できるようになった。同時に10%の電力料金の引き下げが行われた。

同時に、CPUC(カリフォルニア州公益事業委員会)は、大手電力3社に対し、発電事業の自由競争を促進する目的で、発電施設を新規参入者や既存の独立系発電会社へ売却するよう推奨し、2002年3月までがその移行期間として設定された。

この期間、3社の電力小売価格には上限が設けられ、電力価格は短期で損益が出ない程度に高値で固定された。設備投資で負債を抱えていた3社は、この期間に大半の施設を州外の電力会社に売却し、負債の償還を図った。

発電会社が3社に電力を売却する(実際にはPXを通して)卸売り電力価格は低い水準(キロワットあたり3〜4セント)で安定し、自由化の滑り出しはまずまずのように誰もが思っていた。ところが、2000年の夏を迎えて事態が一転した。

この年のカリフォルニアは、アメリカ経済の好調を後押しに、シリコンバレーを中心とするIT関連産業が活発化し、電力需要が底上げされた状態になっていた。さらに、同年の夏は大変な猛暑で、電力消費が急増したことに加え、ワシントンやオレゴン州から輸入している電力供給量も逼迫した(90年代の加州は近接のオレゴン州はもとより、遠くカナダからも電力を輸入していた)。

増え続ける需要に対し、供給電力が追いつかないという状態が継続し、慢性的な電力不足に陥った(96年から99年の間に最大電力は552万キロワットも伸びたが、発電設備は67万2千キロワットしか増えていない)。そして、サンフランシスコで気温が華氏103度を記録した6月14日に、カリフォルニア州は第2次大戦後初めてという、計画停電の実施を余儀なくされた。これにより、PG&E管轄の9万7千世帯が影響を受けた。

さらに状況は悪化し、発電の燃料源となる天然ガスの価格がかつて経験したことがないレートで高騰。原因は、厳冬により、ガス需要が増大したこと、新設電源が、建設期間の短いガス火力発電に集中していたこと、渇水に伴う水力発電の出力低下を補うため、ガス火力発電へのニーズが増加し、ガスが不足したこと等があった。

その結果、卸売り価格は天文学的と言ってよいほど上昇した。CPUC(カリフォルニア州公益事業委員会)により消費者への小売り電力価格を固定されている大手3社は、コストをそのまま消費者に請求することができず、逆ざや状態で電力を提供する羽目に陥った。このため3社の財務状況は急速に悪化し、買電のための資金繰りにも窮するようになった。

発電会社は電力会社が債務を返済する能力がないとみなし電力の卸売りを拒み始め、電力市場での供給不足に拍車がかかり、2001年1月には2日連続で北部、中部カリフォルニアで、3月には遂にSCEの管轄のロサンゼルス周辺でも計画停電が実行され、深刻な電力危機を経験することとなった。

日本では、高度成長以前にこのような計画停電がしばしばあったため、当時を知る人達からは、何故、2000年のアメリカでこんなことが起きるのかと驚きを持って受け止められたのである。
(つづく)

2001/12/30(Sun) No.01

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