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里屋和彦の『エネルギー学講座』



(2001/09)

Vol.18 エネルギー産業の自由化(6)
ネットワーク産業自由化の概念について、簡単ではあるが、基本的なポイントを再度復習したい。

ネットワーク産業の自由化は未だ現在進行形であり、自由化の範囲および制度の設計についても、世界的に普遍的なモデルの確立に成功していない。先陣を切った英国、米国でも試行錯誤が続いている。

他の産業でもそうであるが、ネットワーク産業では特に、市場が整備(インフラがくまなく普及)されているか否かで、自由化の進展は左右される。資本主義が充分に成熟することが、社会主義到来の必要条件である?ことと似たようなものである。

自由化の議論は、自由化の範囲(程度)をどうするかという問題と、自由化のための制度設計をどうするかという二つの問題に別れ、相関関係にある。そして、両者の議論ともはインフラの整備状況に立脚している。

【自由化議論の枠組み】

( 自由化の範囲 ⇔ 自由化の制度設計 )←インフラ整備

私自身、自由化拡大の方向性は支持している。といいながらも、自由化の程度、そのための制度設計のあり方の見定めは難しく、各論となると、自ら社会に対して試行錯誤していない(できない)ために、主張は曖昧となってしまう。

自由化の程度についていうと、電力で言えば、経済産業省は全面自由化派、電気事業連合会は部分自由化派といえるが、電気事業連合会も自由化の範囲を拡大することについても総じて反対している訳ではない(総論賛成各論反対の勢力ももちろんある)。その意味において、共に自由化(の方向性)は支持しているといえるだろう。

全面自由化の全面とは、電力を売る対象に制限をかけず、どんな小さな需要家(通常、各家庭を指す)に対しても、誰が売ってもよいとすることである。

自由化の制度設計についていうと、例えば前回紹介した【電力プール方式】(主に英国)、【第三者アクセス方式】(主に米国)は、まさに自由化のための手段(制度設計)の違いであって、どちらがより自由化された方式であるということではない。前回、述べたように、制度設計のあり方は、当該国の歴史的な歩みに追うところが多く、各国固有の歴史を捨象した普遍性のあるモデルはまだない。

上述したように、自由化といっても、市場が整備されていること、すなわちインフラ(電力で言えば送電線)の普及が必要である。そのインフラ形成の為には、法律で何らかの保護が必要なことは共有の認識としてある(でないと、一生懸命投資して建設した送電網が、できた途端、皆の共有財産として解放せよなどといわれるのなら、コスト回収の見込みが立たなくなり、そんな巨額でリスキーな投資を行う資本家がでてこなくなる)。

さらに、問題は送電線の整備だけでない。自由化が進展すれば、発電を行う会社は、卸料金の引き下げの圧力により、巨額の資本費の回収を求められる新規発電所の建設に消極的になる。そうした供給力不足の状況においては、需要の逼迫に際して、電力価格の高騰が予期される。カリフォルニアの電力危機では、このような最単純電力危機モデル?の構図が根底にある。

自由化の圧力の中、料金を低減させるには、償却済みの発電設備を豊富に持ち、効率的な運転を可能とする会社が断然有利になる。実際、米国で、エクセロンという会社が近年急成長したのは、自由化が進む環境の下、償却済みの原子力発電を買収して、低コストの電力を提供してきたからである。

原子力に限らず、他の発電においても、いま動いているものに対しての評価と、これからつくろうというものとは、自由化の観点からの評価は明らかに違うのである。

日本の電力産業は、自由化のインフラ(送電線網)はかなりの程度備わっているが、都市ガス業界は、電力の送電線網に相当するガスパイプライン網は、欧米に比べ極めて貧弱である。先の比喩で言えば、資本主義が成熟していない状態である。

都市ガス業界では、現在、日本独特の審議会主導による自由化論議が、電力に先駆けて始まっているが(エネ庁「ガス市場整備基本問題研究会」)、成熟していない業界であること、さらにプロパン業界との対立関係も相俟って、利害が錯綜した議論が展開され混迷している(別稿で紹介したい)。

余談であるが、審議会主導の政策決定過程はこれまでも指摘されてきているように、民主主義のあるべき政策決定過程からすると異質である。エネルギー問題は国家の重要事項であり、重厚な考察が必要であることは認めるので、一切無くすべきとはいえないが、最終的には、政党の政策として国会での議論が高まらないと、エネルギー政策に対して国民は責任を負う気にはなれないであろう。原発の問題についても、その賛否は別にして、政党の政策としてディベートしあい、選挙を行った結果、原発廃止となるなら、如何に国民の負担が多大なものになろうと、それはそれでやむをえない。審議会主導の改革では、国民は傍観者から脱しきれない。

閑話休題。
全面自由化が、古典的なニュアンスからしても望ましい方向であるとついつい思ってしまうのであるが、問題なのは、それに向かっての企業家の活動が、自由化に対して自律的に望ましい方向に向かうとは限らないことである(先の例でいえば、発電所の投資が控えられてしまうようなこと)。

従って、自由化とは、法律が不要になるということでなく、市場の整備という側面において、その利害を最小化させるような木目細かな規制(制度設計)が必要となる。野放図な自由化は寡占化(巨大企業による独占)を招き、消費者に不利益を被ることは歴史のレッスンである。

かくして、ネットワーク産業の自由化は、以上のことから生じる複雑なリスクを回避しようとして、金融産業のエジキにされてしまっている感がある。そのあるべき姿は五里霧中となってしまった。

そんな中、米国最大の消費者団体である米国消費者連盟(CFA)は、この程、何と電力規制改革中止を訴える調査報告を公表した。
(つづく)

2001/09/30(Sun) No.01

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