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里屋和彦の『エネルギー学講座』



(2000/12)

エネルギー学講座 Vol.9
エネルギー需要について(6)

エネルギー需要の抑制は、「自主的努力」が最も求められる方策であることは前回述べた。では、どういう「自主的努力」であればよいか考える。

エネルギー関連のシンポジウム等においても、需要に関する議論は極論に走り迷走しやすい。例えば、2000年4月27日の第33回日本原子力産業会議における若手政治家の討論会においても以下のような発言があった。

(引用はじめ)
司会の田原総一郎氏が、原子力に対する国民の不安感に議題を持っていき、そこで各議員は自説を気兼ねなく主張し始めた。

[民主党の枝野氏の発言]
国民は原子力が嫌と言っているのだから、それなら電気を切るべき。夏の高校野球の時、電気を思い切って切る。あるいはものすごい料金をかける。それくらいのことをすべき。

[社民党の辻元氏の発言]
賛成。エネルギー需要をとにかく減らすべき。何かすごいキャンペーンをしないと、このままダラダラ行ってしまう。
(引用おわり)
エネルギーフォーラム 2000年6月号 19頁

枝野氏の発言はインパクトがあるかもしれないが、ついつい陥ってしまう常套句(つまり正論であるが実現性がない)の一つである。辻本氏の発言は、人間の行動の多くは経済的合理性によるという観点からやはり実現性がない。

では、どう考えていけばいいのか。
茅陽一東大名誉教授は、以下のような発言をされている。(毎日新聞2000.10.7)

(引用はじめ)
通産省の諮問機関である総合エネルギー調査会総合部会の茅陽一部会長(東大名誉教授)は、毎日新聞のインタビューに対し、来春にも改訂する「長期エネルギー需給見通し」で、

「省エネルギーの努力義務などを消費者に課す考えを盛り込むこと」

を明らかにした。産業界の省エネが進む一方、家庭などでのエネルギー消費は、ライフスタイルの変化もあり増加に歯止めがかからない。しかし、原子力発電の新規立地が難しいうえ、温室効果ガス削減の国際公約を守るには、消費者に省エネを促す実効性のある政策が必要と判断した。

政府のエネルギー政策の根幹となる同見通し策定のまとめ役である茅部会長は、今回の最大のポイントが省エネの達成度にあるとし、「消費者行動に何らかの影響を及ぼす政策を考えなくてはいけない」と強調した。

具体的な省エネ対策は未定で、「一人当たりの石油消費が何リッターなどという規制はしたくない。単純に税金をかければよいとも言えず、どういうやり方がいいか議論したい」と述べ、具体的には、

@乗用車通勤の公共輸送への代替策

A家庭の電気製品の電力消費が一目で分かる「省エネナビ」の普及

などを検討するという。国内のエネルギー消費量は、自動車の保有台数の増加やオフィス面積拡大などが大きな理由で、国民生活に密着した部門の消費増が目立っている。
(引用おわり)

Aは、自分の利益になるという動機(インセンティブ)に依った「自主的努力」の方策の一つとしてとらえられる。

@については、自分の利益になるという動機の部分も考えられるが、それほど強くない。実現するためには法的規制が必要となるかもしれない。というのも同教授は以前、以下のように述べられている。

(引用はじめ)
省エネルギーがどこまで可能なのかというような問題に対して、アメリカにはたくさんの論文がありまして、ものすごくできるという論文が多いのですね。例のエイモリー・ロビンズの論文を見ますと、いまと同じような生活体系、生活レベルが、いまの五分の一から十分の一でできるという。これが代表的な例なのですが、それに限らずずいぶんたくさんあるし、省エネルギーがはるかに安いという説がアメリカで主流をなしている。けれどもたしかに浪費が多いのは事実なのですけれども、現実には過去のデータを見る限り、そういうふうな可能性は見えないのです。

なぜかといえば、日本でも同じことなのですが、技術的にできる、それから経済的にもできるということと、それが社会的に実現されるということとは違うと思うのですね。世の中、エネルギーだけで動いているわけではありませんからね。車だって経済的で燃料消費の少ない車はたくさんある。しかし、みんながそれを買うなら、世の中は小さい車だけになっているはずだと。

しかし実際には、格好のよさを求め、かなりガソリンは使うのに、高級な車が世の中に満ち溢れている。結局、世の中の人々の好みがエネルギーとは別のところにある。そのことに代表されるように、技術的・経済的にできるということと社会的に実現するということにはギャップがある。それが何であってどこに原因があるかということをもっと詰めなければ、いくら技術的・経済的可能性を議論しても意味がないと私は思っています。

その意味では、もし省エネルギーの可能性という意味で議論するなら、いま申し上げたようなギャップをどのような形で埋めることができるかという議論をしなければなりません。しかし、そんな論文はじつは皆無なんです。これは経済の研究なのか、工学の研究なのか、おそらくその両方にかかわる問題だと思いますが。このことに象徴される視点を見逃すわけにはいきません。
(引用おわり)
世界モデルに未来をよむ 茅陽一interview森谷正規 三田出版界 1990年63−65頁

毎日新聞のインタビューでの茅教授の発言は、需要の抑制の方策について、それが困難であることを承知しつつ、あえてボールを国民に投げかけたものとしてとらえるべきなのである。

つまり、自分(個人・企業)の利益になるという動機(インセンティブ)に依った「自主的努力」が最も望ましいが、他にありませんかと。
(つづく)

2000/12/22(Fri) No.01

エネルギー学講座 Vol.8
エネルギー需要について(5)

現在の連載の流れの意味について、これまで述べたことと重複するが再度述べる。

エネルギーの問題は、結局のところ、エネルギーの需要をどう考えるかに関わってくる。

発電に関して言えば、例えば「原子力発電は安定的に大きな需要に応えうる特質を持っている。一方、昨今話題の風力発電、太陽光発電等の新エネルギーは、どれだけの需要を賄えるかが、今後の課題である。」といった言説が聞かれたりするが、問題の根幹は、“需要にどう対応するか”ということにある。

戦後、増大するエネルギー需要に大きく立ちはだかったのが、ローマクラブの報告書「成長の限界」の中の「石油の可採年数は30年」というフレーズである。当時、化石燃料の枯渇がエネルギー問題の最大の関心事となった。ここで命題@が発生した。

命題@
“エネルギー資源の枯渇を防ぐために、エネルギー需要は抑えなければならない。”

日本では省エネルギー(エネルギー需要を抑える)が盛んになった。しかし、化石燃料の可採年数が、その後減ることがなく、むしろ増え、そして石油価格が1980年代半ばに暴落してから、資源枯渇の問題は省エネルギーと併せて、次第に常套句の一つとしての位置づけでしかなくなり、一般の人々の関心は薄くなっていった。

ところが、冷戦終結と軌を一にして、地球規模環境問題が突如として浮上してきた。地球規模環境問題といっても、具体的に重要なのは、二酸化炭素による地球温暖化問題である。なぜなら、化石燃料の大量の消費が直接的に、地表の二酸化炭素の増加をもたらすからである(この意味で、二酸化炭素問題は、環境問題の一つとしてとらえるよりも、エネルギー問題としてとらえたほうが、正鵠を射ると思われる)。再び省エネルギーが脚光を浴びることとなった。ここで命題Aが発生した。

命題A
“地球温暖化を防ぐために、エネルギー需要は抑えなければならない。”

この二つの命題の変遷を統合して、命題Bが発生した。

命題B
“エネルギー資源の枯渇よりも、地球温暖化を防止するために、エネルギーの需要は抑えなければならない。”

余談であるが、2000年7月21,22日に行われた東大システム量子工学部とハーバード大学ケネディスクール共催の原子力関係の公開シンポジウムにおいて、ジョン・ホールドレン教授が“エネルギー資源論から環境制約論へのシフト”という言い方で同様の趣旨のことを訴えている(エネルギーフォーラム 2000年9月号16頁)。

上記に対応するための、最優先課題として以下の作業が必要となる。

@ 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)および気候変動枠組条約締約国会議(COP)の動向を追い(監視し)、社会および個人に及ぼす影響を考えること。

Aエネルギー需要の性質を考え、それをどうやって抑える(れる)かを考える。

原子力、石油、天然ガス、新エネルギーの個別の問題よりも、エネルギー需要の問題、およびそれを制約する二酸化炭素問題は、上位の問題として存在しているのである。
(つづく)

2000/12/21(Thu) No.01

エネルギー学講座 Vol.7
エネルギー需要について(4)

CO2の削減方法(人為的な)は大きく分けて三つある。
(参考文献:欲望する市場 江澤誠 新評論 2000年 P91−P95)
(1) 化石燃料の燃焼などによって起こるCO2の新たな排出を抑制する。
(2) 排出したCO2を吸収(森林による吸収及びCO2を化学的に分離液化し、深海に隔離して封じ込める)する。
(3) 蓄積されているCO2の放出を防ぐ(森林火災などを防ぐ、乱伐をしない)。

対策としては(1)、(2)となるが、(2)の内、森林による吸収は、その算定方法、考え方、CO2隔離は技術的な問題等を抱え、今後の展開は紆余曲折が予想される。
となれば、(1)をメインとせざるを得ない。
(1)の具体的な方法としては、さらに三つに分かれる。

(i)「自主的努力」
中央官庁や地方自治体、あるいは民間の様々な呼びかけによるキャンペーンや教育等で(あるいは自律的に)、企業、国民等が自覚し、省エネに自主的に自ら取り組むこと。

(ii)「規制的措置」
政府が温室効果ガスの削減目標値を方針として決め、それを各省庁に割り振って、さらに密接に結びついている産業界の産業界の団体に協力を要請し、全体として「ノルマ」を達成するシステムである。

(iii)「経済的方法」
経済的なインセンティブを与えることによって、温室効果ガスの削減に適合した経済行動を選択するよう促すこと。具体例としては、
・ CO2の排出に課税する炭素税を始めとする環境税の賦課
→市場に介入する性質を持つ。

・ 排出枠を市場で取引する排出権取引
→市場の自立性に委ねる性質を持つ。
等がある。

「規制的措置」は、日本のお家芸の手法であったが、統制の非効率性や規制への不信、市場への評価が高まったこと等による昨今の規制緩和・撤廃の時代の趨勢から、評価は下がっており、対策としては今後さらに取り入れられなくなる風潮である。

「経済的方法」の内、排出権取引は、毀誉褒貶はあるものの、排出削減目標値を最小の費用で達成するという機能を持ち、市場原理に委ねられるという優れた特質を持っている。しかし、当然の事ながら、CO2排出量を物理的に減らすものではない(環境NGOが排出権を購入し、他者に売らない場合は物理的に削減されるが、量的には期待できない)。

従って、長い目で見れば、結局(i)「自主的努力」が最も求められる方策となるのである(極めて常識的な結論であるが)。

「自主的努力」は、企業の省エネに期待が向けられるのであるが、家庭でも、CO2排出量は大きな割合(12.6%:地球関係保全に関する関係閣僚会議資料、1999年7月)を占めており、各人の努力がなされるならその効果は大きい。

「規制的措置」は、最も避けるべきことであるが、ただしそれで済むか否かは別問題であり、CO2問題においては、再度この伝家の宝刀が抜かれる可能性もある。「自主的努力」という衣をまといつつ行われるかもしれない。CO2問題からイデオロギー論争が巻き起こることは予期しておきたい。

「自主的努力」により、CO2削減が困難であることは前回述べたばかりである。
(つづく)

2000/12/06(Wed) No.01

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