生きるということ
“死ぬ苦しみは一瞬だが、生きる苦しみは、生の続く限り終わることはない”
隆山という地に高級旅館である鶴来屋が存在した。
その鶴来屋の最上階には、会長室がある。
旅館とは名が付いているものの、実際に目をすれば誰もが高級ホテルだと思うような、壮大で格式のある、そういった建物である。
その鶴来屋の会長室と言っても、部屋の広さがそれほどあるわけでもなく、デスクが一つ、資料用の棚が3つ、あとは来客用の応対机が一つあるだけの部屋でしかない。
海に面している壁は、全体がガラス張りになっており、隆山の海が一望できるようになっていた。
現在、この会長室にいる人間はたった一人で、その名前を柏木千鶴と言った。この鶴来屋のオーナー兼会長である。
歳は23、まだ、うら若き女性でしかない。
長い黒髪に、グレーのスーツを着用している。
彼女は、今日も朝からデスクワークに明け暮れていた。
彼女が会長職に就いてからまだ一年足らず。
未だ、経営に関しての重要な役割を与えて貰ったことはない。
行う仕事と言えば、書類に判を押すことだけである。
大学では経営学を学んだものの、実際に於いてそれが活かされるのは、いつになるのか分からない。
実のところ、彼女のこの鶴来屋における最大の役割を果たすのは経営の面ではなく、宣伝と言う舞台なのだ。
容姿において秀でた彼女は、ポスター、テレビCM、雑誌のインタビュー、それら全てに出演して、美人女将としての名声を欲しいままにした。
そう言うことが、彼女の意に添っているとは必ずしも言えなかったが、それでも、自分が何かの役に立っていると言うことには、多少の満足もしていた。
しかし、営業活動自体は、辛いものである。
好きになれない人間に対して、頭を下げ、お世辞を言い、愛想笑いを繰り返す。そんな、毎日を繰り返す羽目になっていたのも事実だ。
今日も来客がある。
毎年贔屓にして貰っている、会社の人間だ。
以前一度会ったことがある。
中年の男性。とても好きになれそうもない、人格に欠けた人間。
会いたくはない。しかし、向こうから会うのを望んでいる。
断るわけにはいかない。
これも、営業活動だ。
得意となるお客に対して無下なことは出来ない。最大限の愛想をふり蒔かなければならない。
そうしなければ、鶴来屋が生き残っていくことも、また、困難を極めていくだろう。
この鶴来屋を潰すわけにはいかない。
親から―――叔父から―――受け継いだ財産なのだ。
彼らが愛したこの鶴来屋を、自分の代で終わらせるわけにはいかない。
それが、自分に出来る、唯一の恩返しなのだから…
忙しく働いていれば、時間は矢のように過ぎていく。
気が付いてみれば、空も暗くなった。
星が瞬き、月がオレンジ色に淡く光る。
だが、まだ仕事は残っている。
それを片付けなければ帰ることは出来ない。
もちろん、会長の権限をもってすれば、無理矢理にだって帰ることは出来るだろう。
だが、自分はいわば新入社員も同然なのだ。
どうして、定時に帰ることなど出来ようか。
定時出勤、定時退勤。
そんなことをやっていて、どうして社員達の信望を掴めようか。
毎日、朝早くから働き、夜遅くまで残業をやっている人間は自分だけではないのだ。
なのに、自分が楽をするようなことをやれるわけがない。
もちろん、自分がこうやって残業したところで、それほど効果があるワケ無いことも承知である。
だが、それは問題ではないのだ。
自分の、姿勢は見せなければならない。
自分が努力しているということ。
たとえそれが、無駄だと分かっていても。
それが自分に出来うる―――会長としての最高のつとめなのだ。
やっとの思いで、仕事を終え、家に辿り着いた。
家までの車の運転も自分で行う。
経費削減のために、送り迎えの車も今では廃止した。
だが、自分で運転するのも気持ちがいい。
少なくとも自分の思い通りに動かせるモノがあるというのは良いことだ。
門から、家の戸までの距離を歩いていく。
こう言うとき、この家の広さは嫌になる。
疲れた体と重い足を、引きずるように歩いていく。
1秒でも早く家に帰りたい、その思いが、僅かな距離でさえも、それが遥か遠くに感じた。
虚ろになりそうな意識の中で、庭の至る所から、スズムシの鳴く声を聞いた。
(もう、そんな季節なのね)
そんなことを、考える。
そういえば、あまりの忙しさに季節の移り変わりさえも忘れていたような気がする。
ややもすれば倒れそうな自分の体を必死に支えながら、ほとんどよろめきつつ進んでいく。
やっとの思いで家の戸まで辿り着くと、ガラガラと開ける。
そしてその音に反応したように、いきなりの声がした。
「あ!お帰り!千鶴お姉ちゃん!」
パタパタとスリッパの音を立てながら、こちらへ駆けてくる少女。
「ただいま、初音」
一番下の妹に向かい微笑みかける。
多少それもぎこちないかも知れなかったが、自分ではよく分からない。
初音は、屈託のない笑顔を浮かべて、訊いてくる。
「千鶴お姉ちゃん、ご飯あるよ、食べる?」
はい、と頷いた。
「ちょっと待っててね、暖めなおすから」
そう言って、また駆け出していく。
その後ろ姿を見ながら、取りあえず、居間へと向かうことにした。
居間の卓袱台には、一人分の食事が並べられていた。
それらは作り置きをレンジで暖めなおしたものだが、だからといって味は決して悪くない。
その、遅すぎる夕食を作ったのは妹の梓である。
ふと、気になって尋ねてみる。
「梓は、もう寝たのかしら?」
「うん。梓お姉ちゃん、明日も早いからって」
梓は、家族5人の食事を一人で作っている。
朝早い妹たちの朝食とお弁当を作るのは彼女の役割である。
夕食も彼女が一人で引き受けている。
そのことに対して、悪いと思いながらも、彼女が進んでやることを、自分が口出しをすることは出来ない。
梓は彼女なりの責任を負ってやっているのだ。
自分がどうこう言えるようなものではない。
こうして、家庭の料理を食べられるのも、彼女のおかげなのは事実なのだから。
「楓は?」
「楓お姉ちゃんは、お部屋で勉強しているよ」
「そう―――」
「千鶴お姉ちゃんと同じ大学に行きたいんだって。そのためのお勉強だって―――」
1年前―――楓は、大学を卒業後自分の仕事を手伝ってくれると言った。
“姉さんだけには背負わせないから―――”
そう言ってくれたのだ。
“あなたは、自分の人生を歩みなさい”
“姉さんだけに背負わせるなんて、わたしには出来ないから―――”
そのときの会話が思い出される。
だが、そんなことは初音に対しておくびにも出すつもりはなく、
「楓も、頑張るわねぇ」
言ったのはそれだけで、そのあとお茶をすすった。
初音が入れてくれたお茶は少し渋いが、それがかえってちょうど良いくらいだった。
食べ終わると、自分で食器を片付けるつもりでいたが、
「お姉ちゃんは、疲れているんだからもう休んでね」
―――おとなしく初音の言うことに従った。
実際、もうふらついて限界だった。
ここ数週間ばかり、ハードな生活がずっと続いたせいとはいえ、こうも自由にならない自分の体が恨めしかった。
しかし、家長としての立場、鶴来屋会長としての立場、それを貫き通すためには倒れるわけにはいかないのだ。
「どうしたの、千鶴お姉ちゃん?顔色悪いよ」
さすがに悟ったのだろうか、心配げに初音はそんなことを言ってくる。
「何でもないわ、ちょっと疲れただけ」
「そう―――あまり無理しないでね」
「明日はお休みだから、大丈夫」
心配はかけまいと微笑むのも、あまりにも弱々しいのが自分でもよく分かる。
それでも、
「ホントに、大丈夫だから…」
そう言って浴室に向かう。
「明日はゆっくり休んでね」
後ろからそう聞こえた。
そしてわたしは頷いて答えたのだった
疲れきった体を休めるために、シャワーを浴び、浴槽に肩までつかる。
入浴剤のハーブの香りが心地よい。
全身の筋肉の力を抜く。
湯気で曇った鏡を拭いて、そこに映った自分の顔を自分で見つめる。
映っているのは知っているはずの顔なのに、他人のような気すらする。
「あなたは誰?柏木千鶴でしょ?」
当然、返事がかえることは無い。
「そんな疲れた顔をしていたら、美人女将の名がすたるわよ!」
出来るだけ大きな声でそう言ってみる。
反響して響いたその声も、すぐに消え去ってしまう。
「…頑張ろう!」
それは自分に言い聞かせるための決まり文句だった。
だが、結局は…それしかないのだ。
わたしはドアの前に立つ。
数ヶ月前に、この部屋は、愛する人間との部屋へと変わった。
とんとんとノックを二回。
返事は返ってこない。
別に遠慮はせず、ノブを回し、部屋に入る。
部屋の中は、意外と明るい。
そこに、会いたくて会いたくて、仕事中にも、電話したくてたまらなかった、その声が聞きたかった、人間がそこにいる。
彼は、わたしを見てにっこりと笑い、言った。
「おかえり、千鶴さん」
思わず涙ぐみそうになりながら、
「ただいま、耕一さん」
ただ、それだけを答えた。
ベッドに腰掛けた耕一さんは、優しい眼で、わたしを見つめる。
「お疲れさん」
わたしはほとんど衝動的に、彼の胸に飛び込んでいた。
耕一さんは、いきなりのわたしの行動に戸惑いつつも、そっとわたしを抱きしめた。
目をつむり、耕一さんの感触だけを確かめる。
厚い胸板、逞しい腕。
彼の鼓動が聞こえる。それを聞いているだけで、わたしの心は安らいでいった。
「千鶴さん、泣いているの?」
彼は言った。
指摘されるまで気が付かなかったが、わたしは泣いているらしい。
「何か、悲しいことがあったの?」
いえ、と、わたしはかぶりを振った。
「あまりにも嬉しくて、涙が出ちゃって…」
にじんだ涙のせいで、向き直って彼の顔を見ようとしてもよく見えなかった。
ただ、もう何も言葉を発することが必要ないことだけが確かなことだった。
「千鶴さん―――」
わたしは抱きしめられ、二人してそのままベッドに倒れ込んでいた―――
「千鶴さん、疲れているんだろ?もう寝ないと」
「明日はお休みですから―――」
「そう―――じゃあ、明け方まで頑張ろうか?」
「あぁ、耕一さん―――もっと抱きしめて―――」
「それでは、あなたの望むがままにいたしましょう―――」
かつて、
自分の運命を憎んだことがある。
自分の人生を嘆いたことがある。
自分の境遇を諦めたことがある。
自分の誕生を呪ったことがある。
自分の死を、望んだことがある。
それでも、
いまは、生きたい。
生きることに喜びを感じる。
生まれてきて―――良かった―――
「耕一さん、わたし、とっても幸せです」
彼は何も言わず、微笑んだ後、わたしに口づけるのだった。
…2年後、柏木家に、新しい命が誕生することになる。
“喜ぶことを出来るのは、生者のみに与えられた特権である”
―――(終わり)―――
あとがき
Hiroさん、一万ヒットおめでとう御座いますm(_ _)m
おめでたいはずの話に、このようなお話ですみません。 出来も―――駄目です(^^;
ええ、ダメダメです(^^;;
今度はもっとましな小説を差し上げようと思いますので、今回はこれで勘弁して下さいまし。
ちなみに今回のテーマは“生きてるって素晴らしい”でした(笑)
大感謝です~~~。
ああっ、生きてるって素晴らしい(笑)
しかし、ダメダメだなんてご謙遜を。心にズシッと響いてくる、とっても素敵な作品ですよ。
うまく表現できませんが、行間が語るとでも言いましょうか。とにかく、テンポ・間の取り方が絶妙です。
見習わせていただきます、マジで。
本当にありがとうございました \(^▽^)/