「ねえ、お母さん。ちょっと質問してもいい?」
わたしは、料理の本を読んで研究に勤しんでいたお母さん―――藤田あかりに尋ねた。
「ええ、いいわよ。なに?」
本から視線を上げて、ニコッと微笑んでお母さんが応える。
「あのね、恋について聞きたいんだけど」
「へ?」
わたしから投げかけられた言葉を受けて、お母さんがキョトンとした顔をする。
余程意外だったらしく、目が完全に丸くなっていた。
「ど、どうしたの、急に?」
「どうしたのって言われると困るけど……ちょっと、ね」
不思議そうな表情で聞き返してくるお母さんに、わたしは曖昧に濁して返した。
それを耳にして、頭の上にクエスチョンマークを浮かべるお母さん。
―――が、次の瞬間、
「あーっ! 分かった! ゆかりってば好きな男の子が出来たんでしょ。だから、そんなことを言い出したのね」
お母さんはパンと手を打ち鳴らしてわたしにそう尋ねてきた。『謎は全て解けた』と言わんばかりの晴れやかな顔をして。
「うわー、ゆかりにも春が来たのねぇ。おめでと~♪」
「ち、違うってば! 変な誤解しないでよぉ」
わたしは慌てて声を上げた。手をワタワタと振って、お母さんの言葉を否定する。
「そっかぁ。ゆかりに好きな男の子が。これはお祝いしなくっちゃね」
でも、お母さんの耳には全く入っていなかった。一人で勝手に話を進めていってしまう。
このまま放っておいたら凄い所にまでエスカレートさせそうな勢いだ。
「だーかーらー、違うって言ってるでしょ!」
お母さんの目を覚まさせるかのように、わたしは大きな声を張り上げた。
そして、断固とした口調でキッパリと言い切る。
「えーっ!? そうなのーっ!?」
心底落胆したようにお母さんがガクッと肩を落とす。それはもう大袈裟なまでに。
「ちぇー、ガッカリぃ」
お気に入りの玩具を取り上げられた子供の様に唇を尖らせるお母さん。顔には如実に『あかりん、つまんなーい』と書かれていた。
「あ、あのねぇ、こんなことで拗ねないでよ。もう、いい年なんだから」
わたしはため息混じりにお母さんに言った。
「うー、ゆかりんのいけず~」
当然のようにお母さんはブーブーと不満を訴えてきたが、わたしがそれら全てを綺麗に無視したのは言うまでもない。
ときどき『いじめっこゆかりん』とか『娘の苛めに耐える健気なあかりちゃん』等という聞き流すのに苦労するセリフも含まれてはいたが。
「100人斬り達成おめでとう」
放課後。
帰り支度をしていたわたしに、友人の一人が不意に謎の数字を投げかけてきた。
「え? なに? 100?」
意味が分からずに、首を傾げるわたし。支度の手は完全に止められてしまった。
「今月に入ってからの、あなたたち藤田姉妹に告白して返り討ちにあった男子生徒の数よ。もっとも、『確認が取れているものに限る』って注釈が付くけどね」
「か、確認って……」
思わず目が点になってしまうわたし。予想もしていなかった答が色々と返ってきた。
「ん? 人の目や興味を惹くのは学園のアイドルの宿命よ。あなたたち、藤田姉妹の一挙手一投足はみんなが注目してるんだから。これでもかってくらいにね」
「うう、それって何かイヤ」
発せられたご無体なセリフに、わたしの瞳からルルルーと涙がこぼれ落ちる。
学園のアイドルって何? 注目って何? 何時の間にそんなことになってたの? わたし、ちっとも知らなかったよぉ。
「ま、諦めなさい。ともかく、昼休みにゆかりが振ったのが丁度100人目。おめでとう、大台達成ね♪」
パチパチと拍手をしながらその友人が『おめでとう』を連発して賞賛してくる。
わたしが悲嘆に暮れる様は眼中に入っていないらしい。
「は、はあ」
妙にテンションの高いその姿を見て、わたしは間の抜けた声を出すことしか出来なかった。
毒気も抜かれて涙も出ない。
「うわ。すっごーい」
「相変わらず凄まじいわねぇ」
「ホント罪作りな姉妹だわ」
「取り敢えず、砕け散った男子諸君の為に祈っときましょ。なんまんだぶなんまんだぶ」
わたしたちのやり取りが耳に入ったのだろう。周りにいた娘たちが、興味津々といった顔をしてわたしの近くに集まりつつ、口々に勝手なことを述べてくる。
色々と突っ込みたい衝動に駆られたが、下手なことを言うと逆効果になりかねない。従って、ここは矛を収めておく。
「それにしても振りも振ったりね。少しくらいは『格好いいなぁ』とか『素敵だなぁ』とか思えてトキメキを感じちゃったりするような人はいなかったの?」
友人の一人が感心したような呆れたような口調で尋ねてくる。
「格好いい? 素敵? うーん、どうだろ? よく分からないや。わたし、そういうことにあまり興味ないから」
問いに、わたしは口元に人差し指を添えたポーズで暫し考えてから答えた。
「なんだかなぁ。無意識に理想が高いのかそれとも単にお子ちゃまなのか。玉砕者の中にはかなりの高物件も含まれていたっていうのに。バスケ部キャプテンの八島君とか」
肩を竦めて、最初に話を振ってきた友人が語る。
「えーっ!? そうなのーっ!?」
「うわー、勿体なーい!」
「ハァ。この分じゃ、ゆかりは当分恋なんて出来ないだろうね」
「うんうん、同感」
様々な反応を取ってくれる面々。
「恋、出来ないかなぁ?」
彼女らのセリフを受けて、わたしはポソリと疑問を零した。
「まあねぇ。少なくとも高物件の男の子を見て『格好いいなぁ』とか『素敵だなぁ』とか思えるようにならない限りは無理なんじゃない?」
返ってきたのは諭すような解答。疑問符付き。
「そうなのかなぁ? まあ、今はまだ大して興味ないし、別にいいかなとも思っちゃうけど。
ところでさ、『格好いい』とか『素敵』とか思えたら恋が出来るようになるの? 恋ってそれほど単純じゃないんじゃない? そんなのだったら、わたし、お父さんとかに何度も恋してることになっちゃうよ」
それに、小首を傾げてわたしが問い返す。
「まーね。もっとも、ゆかりだったら本当にお父さんに恋してる可能性もあるけど」
すると、わたしの言葉に対して、友人の一人がそんなことを宣ってくれた。
「そもそも、恋をするってどういうこと……って、ち、ちょっとぉ。どさくさ紛れに変なこと言わないでよ。それじゃ、まるでわたしがファザコンみたいじゃない。失礼しちゃうなぁ」
唇を尖らせてそう反論する。
いきなり何を言い出すか、という感じである。
『え? 違うの?』
すると、周囲から即座に反応が返ってきた。心底意外そうに。しかも綺麗に声をハモらせて。
「違うよぉ」
『ホントにぃ~?』
わたしに対して、疑惑の視線を放ってくる面々。
「将来はお父さんのお嫁さんになりた~い、なーんてことを思ってるんじゃないのぉ?」
「あのねぇ。琴美じゃないんだから。確かに中学の頃まではそんなことを本気で考えていたけど。でも、あくまでも中学の頃までだよ。今は全然……あれ? どうしたの、みんな?」
どういうわけか、友人たちは一様に退いていた。
おや? わたし、何か変なこと言ったかな?
「う、ううん。なんでもないの」
「ただ、流石だなって思っただけ」
何やらちょっぴり顔を引き攣らせていたりする一同。
わたしは訳が分からず、小首を傾げてキョトンとするばかりだった。
「よく分からないけど……まあ、いいや。ところでさ、話を戻すけど、恋をするってどういうことなのかな? 未経験者のわたしに是非とも具体的に教えてくれない?」
『え?』
切り出されたわたしの質問を聞いて、周囲の面々の表情がどことなくバツの悪そうな物に変わった。
「当然、みんなは経験あるんでしょ?」
『そ、それは……』
「わたしのことを『お子ちゃま』なんて言うぐらいだし」
『う゛、実は何気に根に持ってたのね』
練習していたかのように綺麗にユニゾンさせる友人たち。
あまりの見事さに思わず感嘆の声を上げたくなるが、それよりも疑問解消の欲求の方が上回っていた。
従って、わたしは尚も言葉を続ける。
「ねえ、教えて。どういうことなの? どんな気持ちだったりするの? 楽しい? 嬉しい?」
『え、えっと……』
わたしの素朴な疑問に、何故か揃って顔を引き攣らせる友人一同。
「ん? どうかしたの?」
『そ、その……何と言いますか……』
どういうわけかは知らないが言葉を濁らせる面々。
わたしは、その行為を彼女らの冗談半分の軽いイジワルだと解釈した。
きっと、わたしのことを焦らして楽しんでいるのだろう。
「もお! 勿体ぶらないで早く教えてよぉ」
『ゆ、ゆかりぃ、あんた、分かって言ってるでしょ~!』
「へ? なにが?」
訳が分からずにポカンとするわたし。
『だ~か~ら~』
それから数十分ほど、延々とこのようなやり取りは繰り広げられた。―――が、みんなは結局教えてくれなかった。
引き攣りまくった顔で唸り続けるばかり。
最後には『恋愛の先輩であるあかりさんに聞いてみて』と、自分で答えることを放棄し、挙げ句『どうせわたしは実地の伴ってない耳年増よぉ。ふえ~ん、ゆかりんがいじめる~』と謎&人聞きの悪いことを叫んで、泣きながら逃げるように去っていってしまった。
どうしたんだろ、みんな? わたし、何か悪いこと言っちゃったのかな?
「というわけなの」
わたしが説明を終えると、お母さんは「なるほど」と応えて頷いた。
やや苦笑を浮かべていたが。きっと頭の中では『100人斬り』とか『学園のアイドル』とか『お子ちゃま』なんて単語が駆け巡っていることだろう。
「ねえ、お母さん。恋をするってどういうこと?」
「うーん、そうねぇ。上手く言葉には出来ないんだけど」
わたしの問いに、お母さんはそう前置きしてから答えを返してきた。
「相手のちょっとした仕草に一喜一憂して。思い浮かべるだけで胸がキュッと締め付けられて涙が溢れそうになって。声を聞くだけでドキドキして。少し姿が見えないだけで寂しくなって。相手の身も心も欲しくなって、自分の全てを奪ってほしくなって」
お母さんはそこまで一気に言うと、のどを潤すようにコーヒーを一口含む。
そして、一息置いてから、
「それらを全部引っくるめたものが、そして、そんな気持ちを抱くことが『恋をする』ってことなんじゃないかな。少なくとも、わたしはそう思うよ」
そのように纏めた。
「なるほどねぇ。それじゃあさ、お母さんはお父さんに対して、そういう気持ちを抱いたんだね」
「ううん。それはちょっと違うよ」
感心したように言うわたしの言葉を、お母さんが即座に否定する。
「え? 違う? なんで? お母さんはお父さんに恋をしたんでしょ? だから結婚したんでしょ?」
わたしが疑問を口にすると、お母さんは『チッチッチ』といった感じで指を振ってみせた。
「わたしはね、今でも浩之ちゃんに恋をしているの。現在進行形なの。『抱いた』なんて過去形で言われるのは心外だよ」
イタズラっぽい笑みを浮かべて宣うお母さん。
「あー、はいはい」
わたしは呆れたように投げ遣りに応える。
「そーだよねー。確かにお母さんは今でもお父さんラブだもんねー」
「うん、そうだよ。わたしは永遠に浩之ちゃんにラブラブで恋してるんだから」
眩しいほどの笑顔でお母さんが言い切った。
周囲に花が咲いているかのような錯覚さえ憶えるほどの笑顔で。
「……ごちそうさま」
それを見て、ボソリと零しながらわたしは思った。
ハァ、恋する女は美しくなるって話は本当なんだね。
お母さんってばホントに綺麗に笑うんだもん。娘の私が本気で見取れちゃうくらいに。
わたしも、恋をしたらお母さんみたいになれるのかな?
恋なんて興味なかったけど……お母さんの様になれるのなら……
恋、してみたいかも。
前言撤回。
どう頑張ってもお母さんみたいにはなれない。絶対に無理。
というか、なりたくない。
だって、
「浩之ちゃん、アーンして♪」
「アーン」
「はい、どうぞ。……どう? 美味しい?」
「おう、美味いぞ。あかりの料理は相変わらず絶品だな。誉めてつかわす」
「ホント? えへへ、嬉しいな♪ それじゃ、こんどはこっちを……はい、アーン」
こ、これはさすがに、ねぇ。
わたし、いい年して『アーン』なんて恥ずかしいことはしたくないし。
やっぱり、恋はしばらくいいや。