それは、河原での試合から数日が過ぎた頃の事だった。
「そういやさ、お前ってエクストリームのチャンピオンなんだってな」
「まあね」
「この間、クラスのダチに雑誌を見せてもらってさ。驚いたぜ、綾香って格闘技界のアイドルだったんだな」
「……まあ、ね」
不意に、あたしの心に一抹の不安が生じた。
周りの人たちの殆どは、あたしのことを『来栖川の御令嬢』『エクストリームの女王』といった肩書でしか見てくれない。『来栖川綾香』というあたし自身を見てくれる人は非常に少ない。
もしかしたら、浩之もそうなってしまうかも。
胸に怖さが沸き上がってくる。
「なーに? 憧れちゃった? なんならサインでもしてあげようか? 今ならサービスであたしとの握手付きよ♪」
その恐怖心を無理矢理に抑えこんで、あたしはわざと戯けた口調で訊いた。
「はぁ? なーに調子に乗ってんだ。いらんいらん。なんでお前のサインなんか貰わなきゃいけねーんだ」
あたしの申し出を、浩之は手をパタパタと振ってあっさりと断った。
そして、心底呆れたように、
「世間の奴らにとっては綾香はアイドルかもしれねーけど、俺にしてみたらお前は単なる変な奴でしかないんだぜ。そんなののサインなんかいるかよ」
そう言葉を続けた。
「なによぉ。ひっどい言い草ねぇ」
「仕方ないだろ、事実なんだから」
少しくちびるを尖らせて怒ったように言うあたしに、浩之は顔色一つ変えずにきっぱりと言い切った。
「ふーんだ! あとで欲しくなっても絶対にあげないからね! 後悔しないでよ!」
不機嫌そうに声を荒げるあたし。でも、本心は全くの逆だった。
浩之の変わらない相変わらずさを見て、あたしは心から安堵していた。抱いていた不安が綺麗に霧散していく。
やっぱり浩之は浩之だった。
あたしの好きな、くだらない肩書なんかには目もくれない、いつもの飄々とした浩之だった。
「まあ、握手はちょっと魅力だけどな。でも、サインはマジでいらねーって。つーか、どっちかと言ったら、俺がお前にサインしたいくらいだし」
「は? 浩之があたしに?」
「ああ」
そう言うと、浩之はニヤリとしたエッチ笑みを浮かべて、
「首筋とか胸元とかその他諸々いろんな所とかに。それはもう思いっ切り」
―――と、宣った。
「はい?
…………………………………………。
……っ!?」
思わず絶句するあたし。顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
それは……つまり……あたしと……あ、あれを……し、したいってこと?
「だはは。なーんてな。
……って……お、おい」
「あんたってヤツは……い、いきなり何を言い出すかと思えば……」
「ち、ちょっと待て! なんで拳を堅く握りしめてるんだよ!?
落ち着け! ただの冗談なんだから落ち着けって!!」
後ずさりしながら、浩之は必死にあたしを宥めようとする。
だけど、頭に血の昇ったあたしの耳には、浩之の言葉など入ってこなかった。
「浩之のどスケベ! そもそも、そういうのはサインじゃなくてマーキングって言うのよ!
この……大ばかーーーーーーっ!!」
「わー、待て待て! タンマ! ロープロープ!」
「問答無用! エクストリームにはロープブレイクなんか存在しないのよーーーっ!!」
「あべしっ!」
気が付いた時には、あたしの黄金の右が浩之のボディーにめり込んでいた。
まったくもう。そ、そういうことは……もっとムードとかTPOとかを考えて言いなさいよね。
そしたら……。
崩れ落ちていく浩之を眺めながら、あたしはそんな事を考えていた。
「ホントに……しょうがないヤツねぇ」
浩之は、どこまでいってもとことん『浩之』だった。
でも、あたしには、それが途轍もなく嬉しかった。
あたしはそんな浩之のことが……
「たぶん……あたしが浩之に惹かれた最大の理由は……」
「「「理由は?」」」
「あいつが、これでもかってくらいに『浩之』だからよ」
「「「はぁ? なにそれ?」」」
不思議そうな顔をする友人たちに、あたしは満面の笑顔で再度繰り返した。
溢れんばかりの想いをこめて。
「『浩之』だから、よ」
「つまり……それって、藤田くんみたいな絶倫な人が好きって事?」
「そ、そうなの!?
キャー。綾香さんって意外とエッチなんだ~♪」
「なるほどなるほど。底なしな所に惹かれたのね」
「ちっがーーーう!!
……あ、あんたらねぇ、どうしてそういう解釈をするのよ!?」
「え? だって……藤田くんだし」
「藤田くんと言えば……やっぱり……ねぇ」
「うんうん。うちの学校では『藤田浩之』って名前は『性欲魔人』『絶倫』『馬並み』の代名詞だし」
「……………………」
この後、どれだけ説明しても誤解は解けなかった。
浩之の所為で、あたしにまで『えっちっちぃ』のレッテルが貼られてしまった。
違うのに。あたしは違うのに。
浩之のばか。
…………くすん。