『……に耳あり』
人類が圧倒的に優勢となり、出撃も殆ど無くなったある日の放課後。
プレハブの屋上で速水厚志と瀬戸口隆之、滝川陽平の三人が談笑していた時のこと。
「あ、そうそう。そういえば、ちょっと速水に聞きたいことがあるんだけど。いいかい?」
不意に瀬戸口が、速水の顔を覗き込みながら尋ねてきた。ポンと手を打ちながら。
「ん? うん、構わないよ。なに?」
いつもの様に『ぽややん』とした笑顔を浮かべて、やや小首を傾げつつ速水が返す。
「少々噂を小耳に挟んだんだけどな。お前さん、芝村の末姫に盗ちょ……」
瀬戸口がそこまで言った時、それを遮る様に速水が瀬戸口の口元で人差し指を立てた。
「え? 速水?」
怪訝な、物問いたげな顔になる瀬戸口。
そんな彼に、速水は「ちょっと待ってて」と目で合図をすると、小走りで屋上を後にした。
「なんなんだ?」
「さあ?」
顔を見合せて肩を竦める瀬戸口と滝川。
その後、二人が待つこと数十秒。速水はノートとペンを手にして戻ってきた。
『悪いけど、ここからは筆談でね。あまり舞の耳には入れたくないから。下手に警戒させたくないし。
――で、瀬戸口君の質問だけど、聞きたいのは盗聴器の事? うん。それなら幾つか付けられてるよ』
速水はノートにそう書くと、瀬戸口と滝川の二人に見せる。
それを目にして、愛の伝道師とヒーローを夢見る少年は眉を顰めさせた。
盗聴器の事を気付いていて放置している事実に。ついでに『警戒』云々という部分に妙な腹黒っぽさを感じて。
『おいおい、速水。お前、盗聴されてるって分かってて何で放っておくんだよ?』
速水からペンを借りて滝川が疑問を書き殴る。
『こいつは流石に行き過ぎだと思うぞ。プライバシーの侵害もいいところだ』
次いで瀬戸口も苦言を呈した。
しかし、当の速水は涼しい顔。
『いいんだよ。これはこれでいろいろ便利だったりするんだから』
返された一文を見て、二人の運命の友は揃って目を丸くした。
顔に露骨に『便利? なんだそりゃ?』と書いてある。
その二人に「ま、ちょっと見ててよ」と目で語ると、速水は制服に付けられたボタンの中の一つに口を近づける。
そして、
「ふふっ、案外うぶなんだね。耳に息吹きかけられたぐらいで。次はどこがいい?」
聞いているだけで蕩けそうになりそうな甘い口調で囁き始めた。
なるほど、あそこに仕掛けられてるのか。――と、呆れと感心の入り混じった何とも言えない顔をしている瀬戸口と滝川を横目に。
その瞬間。そう、まさにその瞬間。
「あああああ厚志! そなた、なにをしておるかぁ!」
速水のすぐそばで天を衝く程の怒号が轟いた。
美しい黒髪をポニーテールに纏めた、速水にとって世界で一番大切で愛しい少女、芝村舞の声が。
「し、芝村!? あいつ、どこから現れたんだ!? 何時の間に!?」
突如出現した舞に動揺して滝川が叫ぶ。
「どこからも何も、単にテレポートしてきただけだろ。あいつの十八番じゃないか」
対照的に冷静な瀬戸口。やれやれと言わんばかりに肩を竦める。
彼にとってはテレポートなどは驚くに値しなかった。今までにも何度か目にした行為であるし。
それよりも、舞の片耳に付けられている補聴器大の小さな機械の方が何倍も気になった。
「噂の盗聴器か。芝村のことだからお手製かな? あれでずっと速水の様子を窺っていたんだろうな、きっと。浮気防止の為に」
分かりきっている事を改めて口にすると、瀬戸口は軽く頭を振って「ふぅ」とため息を零しつつ、大声で喚いている少女と詰め寄られている親友へ視線を移した。
「私という者がありながらっ! 我がカダヤのくせにっ! 他の女に手を出すとはっ! まったくもって良い度胸だっ!」
憤怒の表情で速水の襟首を掴み、舞はガックンガックンと勢いよく前後に揺らしている。
速水の顔色が目に見えて悪くなっていった。
「はっはっは。苦しいよ、舞。あまり揺さぶらないでくれないかな? 思わずゴッドスピードになっちゃいそうだよ」
その割にはムチャクチャ余裕っぽかったりするが。
「なーに? 嫉妬しちゃった? ふふっ、本当にヤキモチ焼きなんだから。舞ってば可愛いね」
「っ!?」
満面の笑顔を浮かべた速水にそう言われ、舞は瞬時に耳まで真っ赤に染め上げた。
掴んでいた手からは力が抜け、速水の顔を見ていられずに視線を落としてしまう。愛らしい口元からは「たわけ」「ばかもの」等々の小さな小さな罵倒の言葉。
恋人のそんな姿を目にして、速水は笑みを更に濃くした。内心で「舞、本気で可愛すぎるよ。卑怯なくらいだ」と思いながら。
暫しの間、速水は舞の羞恥の姿を楽しんだ。
そして、じっくりと堪能した後、速水は目を瀬戸口たちの方へ向けた。
「どう? 瀬戸口君に滝川。ほら、こんな風にいつでもどこでも舞を呼べ出せたりするんだよ。ねっ、便利でしょ?」
「な、なに!? 瀬戸口に滝川だと!?」
罪の無い笑顔で言い放たれた速水の言葉を聞いて、舞はハッと我に返った。慌てて周囲に視線を運ぶ。
舞の目に飛び込んできたのはぎこちない笑いを顔に貼り付けている両名の姿。
気持ちを落ち着け、冷静になって見渡してみると、女の姿など欠片も無い。
では、先程の甘い囁きは一体?
疑問を抱く舞。しかし、その答えは考えるまでもなくすぐに出た。
「ま、まさか……そなた、また騙したのか!?」
声を張り上げての舞の問い。それへの返答は速水の楽しげな笑みだった。
テレパスセルで速水の居場所を確認するや否や慌ててテレポートで飛んでしまったことを激しく後悔する舞。なぜ、共にいる者を確認するという基本行為を怠ったのかと自責の念に駆られる。こんなことだから毎回毎回いいように遊ばれてしまうのだと、舞は深く息を吐き零した。
「私をからかうのもいい加減にしろ、厚志。そなたは楽しいかもしれないが私は不愉快だ」
「ごめんごめん。けどさ、舞に来て欲しかったんだもん」
舞の身体をギュッと抱き締めながら、速水は全然言い訳になっていない言い訳を宣う。
近くから聞こえてくる、
「『また』って、速水の奴、こんな事を何度もやってるのかよ」
「目的の為には手段を選ばずってか。中々に黒いな、バンビちゃん」
――といった友人達の疲労感すら漂わせた呆れ声を一切無視して。
「ありがとうね、舞。すぐに飛んで来てくれて。僕、とっても嬉しかったよ」
言葉通り、嬉しそうに微笑む速水。舞の「ううううるさい、黙れ」という抗議の声を耳に心地よく感じながら。
「ねえ、舞?」
「な、なんだ?」
「僕のコトが大好きだから……他の女の子に取られたくなかったから急いでやって来てくれたんだよね」
ニッコリと『あっちゃんスマイル』を浮かべて速水。
視覚と聴覚の双方からダメージを喰らい、舞はピシッと完全硬直。
そんな恋人の様子に構わず速水は尚も言葉を続ける。
「心配させちゃった? 僕が浮気したんじゃないかとドキドキさせちゃった? ごめんね、舞」
彼女の髪を優しく撫でながら、穏やかな口調で耳元で囁く。時折「ふっ」と息を吹きかけたりしつつ。
「僕は舞だけだよ。手を握りたいのも、抱き締めたいのも、キスしたいのも……舞だけ」
抱き締められる感触と、伝わってくる暖かさ。耳から入ってくる甘い声。
それらの波状攻撃を受けて舞の頭の中に靄がかかる。
何も考えられなくなり、身体中から力が抜け落ちていった。
ずっと浸っていたい。この優しい空気にいつまでも。――舞は心からそう思った。
しかし、その願いは無常にも崩されてしまう。しかも、彼女の愛するカダヤによって。
「だから、今からそれを証明しようと思うんだ。明日の朝までかけてジックリと、ね。いいでしょ?」
「うむ……って……な、なに!?」
一瞬で我に返る舞。
ハッとして顔を上げると、そこには速水のイタズラっぽいニヤニヤとした笑顔があった。
「ちちちちょっと待て! そなた、いいいいったい何をする気だ!?」
「嫌だなぁ、舞ってば分かってるくせに」
恋人の顔を覗き込んで速水が言う。舞は既に首筋までもが朱に染まっていた。
「それじゃ、行こうか」
舞の肩を抱いて速水が歩き出そうとする。
「あああ厚志。ま、待て。待ってくれ」
「どうしたの、舞? そんなに身体を固くして。心配しなくてもちゃんと優しくしてあげるよ。安心して。今日は変な道具を使ったりする気も無いし」
「た、たわけ! そそそんな事を言ってるのではなくて!」
にこやかにさり気なく物凄い事を口にする速水に舞が一喝。どもりまくっている為にいまいち迫力に欠けているのが難点だが。
「だったら何なの?」
額が触れ合うくらいに顔を近づけて速水が問う。
「な、何と言われても……その……だから……」
「もしかして、僕とそういう事するの、イヤ? ひょっとして迷惑だったりするのかな?」
舞の目を見詰めて速水が尋ねた。やや不安の色を感じさせる声で。若干上目遣いで。
「もしもそうならハッキリ言っていいんだよ。無理強いする気は無いし、舞の嫌がる事はしたくないから……いたたっ、痛いよ、舞」
舞に頬を軽く抓られ、速水の言葉が遮られた。
「そ、そなたは……ずるい。卑怯者だ」
カダヤの耳に口を寄せて、舞が静かに囁く。僅かに非難の色を込めて。
「そんな事を言われたら断れるものであっても断れなくなるではないか。それに、今更何を言っている。イヤなワケ……ないであろうが。こんなこと、女の口から言わせるな……ばか」
「舞……それじゃ、いいんだね?」
「だ、だから、女の口から言わせるなと言ったであろうが!」
オズオズと確認してくる速水に、舞は不機嫌さを滲ませた口調で返した。
「あはっ、了解だよ。じゃ、話がまとまったところで早速行こうね。えっと、場所は……僕の部屋でいいかな」
速水の顔が瞬時に明るくなる。
楽しくて、面白くて仕方が無いといった微笑みに。企みの成功を喜ぶ達成感に包まれたニパッとした――否、ニヤリとした笑みに。
それは、あまりにもあからさま過ぎる変貌ぶり。
「待て。なんだ、その急激な変わりようは! さては、先程の殊勝な態度は演技であったな!? 私があの様な言い方に弱い事を知っているが故の芝居だったのだな!? この卑怯者! 卑怯者! そなたは本当にずるい。ずるすぎる!」
「はいはい。文句は後でゆっくり聞いてあげるよ。ではでは、僕の部屋に一名様、ごあんなーい♪」
「ちょっと待て、厚志! いま聞け! ここで聞け! こ、こら! どこに触っている! ま、待て! テレポートを作動させるな! 待てと言うのにぃぃぃっ!」
叫びを一つ残し、舞の姿が屋上から消え去った。無論、速水も一緒に。
「……行っちまった、な」
唖然呆然として速水と舞のやり取りを見ていた瀬戸口が、二人の姿が掻き消えた瞬間にポツリと呟いた。深いため息と共に。
「あいつら、俺らのこと完全にアウトオブ眼中にしやがって。ったく、あの欲ぼけバカップルが」
口を尖らせてぼやく滝川を瀬戸口が「まあまあ」と宥める。
心の中で「あの速水が相手じゃ姫さんも苦労するな。明日、学校に来れれば良いが」と、小隊一の名物カップルに対して苦笑をしながら。
「あーあ。なーんか、すっかり気が抜けちまったな。仕事も訓練もする気が失せちまった」
空を仰いで滝川が零した。
それを耳にして、瀬戸口が胸の内で「お前、訓練はともかく仕事は最初から無いだろ。無職なんだから」とツッコミを入れていたのはここだけの秘密。
「そんな訳だから、俺、今日はとっとと帰ります。師匠は?」
「俺か? 俺は……そうだな。麗しのお嬢さん方に愛でも振り撒いてくるかな」
「愛、っすか?」
「そう。愛だ。何と言っても俺は愛の伝道師だからな」
目に尊敬の色すら浮かべて問うてくる滝川に、瀬戸口は男臭い笑みを浮かべて答えた。
その瞬間。そう、まさにその瞬間。
「たたたたた隆之さん! あなた、なにを言ってるのですかぁ!」
「たかちゃん! うわきはめーなのよ!」
瀬戸口のすぐそばで天を衝く程の怒号が轟いた。しかも二つ。
袴姿の黒髪の少女壬生屋未央と、髪にリボンを結んだ女の子東原ののみ。瀬戸口にとって何よりも大切で愛しい少女たちの声が。
妙な既視感を覚える瀬戸口。
「麗しのお嬢さん方とは誰の事ですか!? 不潔です! 不潔です!」
「ののみたちをほうって、ほかのおんなのひとのところにいくの? それはめーなのよ」
「お、お前たち、なんでその事を? というか、どうやってここに現れた?」
詰め寄ってくる二人の勢いに圧倒されつつも、自称愛の伝道師は冷静さを装って逆に尋ね返した。
「わたくしとののみさんと舞さんは『運命の友』。つまり、そういうことです」
簡潔な未央の答え。
しかし、瀬戸口にはそれで充分だった。納得した。心底納得した。
なるほどな。盗聴器を付けられているのは速水だけじゃないってことか――と。
よく見れば、未央もののみも、舞と同様に片耳に小さな機械を付けていた。
もちろん、舞に貰った物である。ついでにテレポートパスも。
瀬戸口は本気でこれ以上はないというぐらいに納得した。
「あなたの発言はしっかりと聞かせていただきました。言い逃れはできませんよ」
「ののみもきいてたのよ。たかちゃん、ごまかせないからね」
頬を膨らませて睨んでくる愛しい少女たち。
瀬戸口は一瞬動揺するが、そこは場数を踏みまくった自称美少年。この手の修羅場でも殆ど狼狽しない。
アッサリとすぐさま気持ちを落ち着けると、未央とののみの二人にニッコリと微笑み掛けた。
「やれやれ。どうやら誤解をされてるみたいだな」
「誤解、ですか?」
「ごかい?」
怪訝な顔をする未央とののみ。二人とも微かにジト目になっている。
「そうだとも。俺が言った『お嬢さん方』というのは未央とののみの事なんだぞ。つまり、二人に会いに行こうとしてたのさ。俺がお前さんたちをほったらかしにして他の女の所に行くわけがないだろ」
いけしゃあしゃあと言い放つ瀬戸口。滝川が「おいおい。ホントかよ、それ」という疑惑の視線を送ってくるが、すっぱりと無視する。
「え? え? ええっ!? ほ、本当ですか!? や、やだ。わたくしってばとんだ早とちりを」
容易く言い包められ、色付いた両頬に手を添えて俯いてしまう未央。
「ふぇぇ。たかちゃん、ごめんなさい」
ののみがションボリとした顔で瀬戸口に謝罪する。瀬戸口を疑ってしまったことで自己嫌悪に陥っている。
「ま、あんまり気にするなよ。紛らわしい事を言った俺が悪いんだしな」
言いながら、瀬戸口は未央とののみの肩を優しく抱き締めた。
「だから、お詫びとして今日は一日、二人のいう事を何でも聞いてやるよ。仕事でも訓練でも、もちろんそれ以外の事でもな」
「はい? それ以外でも、ですか?」
「ああ、それ以外でも、だぞ。例えば」
瀬戸口は未央の耳元に口を近付けると「今晩は寝かさないで下さい、ってお願いでも、な」と囁いた。
「も、もう! ふ、不潔です!」
瀬戸口の身体を押し離し、真っ赤な顔をして未央が睨む。もっとも、瞳に浮かんでいた満更でもない色は隠しようもなかったが。
「ねえねえ、たかちゃん。だったら、ののみのくんれんにつきあってほしいんだけど……いい?」
「おう、もちろんだぞ」
「そ、それでは、その後はわたくしのお仕事に」
「オッケーオッケー。いくらでも付き合ってやるからな」
瀬戸口は二人の要求に笑って応えると、未央の腰に腕を回し、ののみの手を優しく握った。
「さて、そんじゃ行くとしますか、お嬢さん方」
「はい!」
「うん! いこっ、たかちゃん♪」
返ってきた元気な答えに瀬戸口は頬を緩める。
「ああ、行こう。――じゃあな、滝川。また明日だ」
瀬戸口は、半ば呆然としている滝川に顔を向けてそう挨拶すると、愛しい二人の少女を連れて屋上を後にした。
誰もいなくなった屋上に一人ポツンと残された滝川。
本人は何もしていないにも関わらずゲッソリと疲れきった顔をしていた。
「なんつーか、彼女を持つっていうのも結構大変なんだな」
ため息と共に言葉が零れ落ちる。
「でも、それでも……」
滝川は拳をグッと握ると大空に向かって吼えた。
「うおおおぉぉっ! 俺も盗聴器を付けてくれる彼女が欲しいぞぉぉぉぉぉぉっ!!」
滝川、魂の大絶叫。
何かが激しく間違っている気もするが……それは気の所為ということで。
< おわり >