『寝込みの日』



「うわ。結構あるなぁ」

 体温計に表示された数値を見て、俺は思わず深く嘆息してしまった。

「そうなの? 何度?」

 尋ねてくる鏡花に、「ほれ」と体温計を差し出す。

「どれどれ。……8度2分。あらら、本当に結構あるわね」

 軽く眉を顰める鏡花。

「んー、こりゃ完全に風邪ね」

「だな。世界中のどこに出しても恥ずかしくない立派な風邪だ」

「そうねぇ。尤も、風邪をひいてる時点で既に充分恥ずかしいけど」

 ごもっともで御座います、はい。

「しょうがないわね。今日は一日おとなしく寝てなさい」

「……悪いな、せっかくの日曜日なのに。買い物に付き合う約束だってしてたのにさ」

 ため息混じりに鏡花へ謝罪をする。
 まったく、情けないやら申し訳ないやら。

「こーら。そんな顔しないの。つまんないこと気にしてないで、今は身体を休めることだけ考えてなさい。今日の埋め合わせは元気になったらしてもらうから。ねっ」

 柔らかな笑みを浮かべて鏡花が俺を諭してくる。ツンと鼻を突付きながら。
 こそばゆくて、照れくさくて……指から届けられた鏡花の飾り気の無い優しさが、なんだか妙に心地良かった。

「それはそうと……亮、お昼はどうする? なにを食べたい?」

「昼?」

 問われ、俺は視線を時計へと向けた。示されている時刻は午前11時25分。
 なるほど。確かにそろそろ昼飯を気にする時間だ。

「どう? なにか食べたい物ある?」

 鏡花が再度尋ねてくる。

「……特にこれといって。それ以前に食欲が無いし。正直、何も食べたくない。つーか、今の俺に飯を作る気力は無い」

「ダメよ。今は身体中がだるくて食欲どころじゃないでしょうけど……。でも、少しでいいから無理してでも食べなきゃ。じゃないと薬も飲めないでしょ」

 人差し指を立てて、穏やかな声で俺に言い聞かせる鏡花。

「……って、ちょっと待ちなさいよ」

 ――が、不意に声色を落とすと俺をジロッと睨みつけてきた。

「なによ、『今の俺に飯を作る気力は無い』ってのは? あんたの頭の中には、あたしがご飯を作るという至極真っ当な発想は無いワケ!?」

「はぁ? 鏡花が……メシを……作るぅ?」

「な、なによぉ?」

 半眼で一語一句区切って言う俺に、鏡花が不満そうな顔をして問い返してくる。

「俺、さすがに今の体調でレトルトの丼物なんか喰いたくないぞ」

「……し、失礼ねぇ。誰が病人にレトルト物なんか出すもんですか。あたしだって少しは料理ぐらい……」

「ちなみにカレーは却下な。あと、端っこが焦げてる目玉焼きとかも」

「う、うぐぐっ」

 先手を打たれ、鏡花が言葉を詰まらせた。
 どうでもいいが、たった二品目を封じられたくらいで絶句しないで欲しい。
 てか、こいつ、熱を出して寝込んでる人間にカレーとかを食わせるつもりだったのだろうか。

「そ、そんなことあるわけないでしょ。バカにしないでよね」

 俺の思考を読んで、鏡花がそう反論してきた。

「あ、あたしだって……お粥ぐらい……頑張れば……」

「作れるのか? そもそも、どうやって作るのか知ってるか?」

「と、当然じゃない。それは……その……あ、あれよ、あれ」

 思いっ切り視線を泳がせる鏡花。

「ご飯にお湯をかけて、梅干を添えれば」

「それはお粥じゃなくてお茶漬けだ」

「……そ、そうとも言うわね。所によっては」

「そうとしか言わねぇ。全国的に」

「そ、そうだったかしら? ちょーっと間違えちゃったみたい。ごめんあそばせ。オホホホホ」

「……おまえなぁ」

 俺は鏡花の事を好きだと胸を張って言える。
 彼女の事は世界で一番大切だと断言できる。

 でも。

 トホホ。俺、付き合う相手を間違えたかなぁ?

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、マジに悩んでしまった羽村亮クンでありましたとさ。



○   ○   ○



「それじゃあね。お大事に」と、いつもの柔らかな声でそう言うと、いずみさんは帰っていった。

「やれやれ。結局はいずみさんに頼っちまったなぁ」

「……うん」

「治ったら、改めてお礼をしないとな」

「……そうね」

 俺たちからヘルプを要請された際、いずみさんは「困ったときはお互い様だよ」と笑って快諾してくれたが、迷惑を掛けてしまったことには変わりがない。
 病気が治ったら、ちゃんとお礼をする事を心に決めた。
 俺と鏡花の行きつけのラーメン屋の新メニューである激辛キムチラーメン辺りを御馳走しつつ。

「ねえ、亮」

「ん?」

「ごめんね」

 謝りながら、鏡花は床にペタッと腰を下ろした。

「は? ごめんね? なにが?」

 唐突に、しかも鏡花らしからぬ沈み気味の声で謝罪され、俺は困惑の表情を浮かべてしまう。

「ほら、あたしってば何の役にも立てなかったじゃない? だから……だから、ごめんね、なのよ。彼氏にお粥の一つも作ってあげられなくて……挙句、親友の手を煩わせて……」

 鏡花は自嘲の笑みを浮かべ、深く息を吐き零した。

「ホント、自己嫌悪よ。情けないったらないわ」

「おいおい、何を言ってるんだよ」

 俺は項垂れている鏡花へと手を伸ばし、彼女の頬にそっと触れる。

「何の役にも立ってない? 鏡花が? 絶対にそんなことはないぞ。断言してやる」

「ウソ」

 俺の言葉を一刀両断すると、鏡花は『納得いかない』という目を向けてきた。無意識にだろうか、頬に触れている俺の手に自分の手を重ね合わせて。

「ウソなもんか。鏡花は、朝からずっと俺の傍にいて看病してくれたじゃないか。人間ってさ、病気になると弱気になるもんだろ? 俺だって例外じゃない。鏡花が常に近くにいてくれたおかげで凄く安心できたし心強かったんだ。もしかしたら、一人だったら寂しくって泣いてたかもしれないぞ」

 冗談めかして言うと、鏡花の顔にほんの微かにだが自嘲ではない自然な笑みが――多分に苦笑も含まれていたかもしれないが――戻った。

「そうなの? なら、あたしも多少は役に立ってるのかな」

「多少は、じゃない。大いに、だ」

 鏡花の発言を即座に訂正する。

「病気の時には誰かに傍にいて欲しいもんだ。だけど、誰でもいいってワケじゃない。いくら一人では弱気になるとは言え、新開さんとか星川に看病されるのはご免被りたい。二人には悪いけど、余計な気苦労が増えそうで却って病気が悪化しそうだからな」

「……それは……言えてるかも」

 自分が看病される所でも想像したのだろうか、少々の間を置いた後、なんとも表現し難い微妙な表情をして鏡花が肯定した。

「やっぱさ、そういう時に近くにいて欲しいのは一番好きな娘だよな。世界で一番好きで一番大切な娘。つまり、俺の場合は……」

 鏡花の顔をジッと見つめる。
 そして、鏡花も俺を。

「なっ?」

「……うん」

 照れくさそうに鏡花が微笑する。

「だからさ、役に立ってないとか卑下するのはやめてくれよ。おまえはさ、すっごく俺の事を助けてくれてるんだぞ」

「うん」

「尤も、お粥――と言うか、料理に関してだけは反省を求めたい気分でいっぱいだったりするけど」

「うぐっ」

 どうやらダメージを負ったらしい。鏡花は思いっきり顔を顰め、ついでに声を詰まらせる。

「もう少しは頑張ろうな。いやもうホントに頼みます」

「わ、分かったわよ」

 俺のため息混じりの懇願に、鏡花もため息と共に返した。

「頑張ればいいんでしょ、頑張れば。こうなったら極めてやろうじゃないの。この鏡花サマに不可能はないんだから。絶対にギャフンと言わせてあげるわ。あなたに、とっても美味しい一撃必殺のお粥を食べさせてあげるんだから」

「一撃必殺って……なんかいろんな意味ですっごく不安だぞ」

「だいじょうぶだいじょうぶ。……どうせ食べるのは亮だし」

「おい、ちょっと待て。どういう意味だ、それは?」

「冗談よ、冗談。……たぶんね」

「……あのなぁ。だいたいおまえは……」

 俺と鏡花の舌戦が途切れる事なく続く。

「なによぉ。それを言うなら亮だって……」

 途切れさせるつもりもない舌戦が続く。

 とある日曜の午後。
 風邪をひいて熱を出して。
 凄くだるくて、苦しくて、辛くて。
 それなのに、楽しくて、和やかで。
 何処にも行けないのに、何も出来ないのに。
 稀になら、こんな日があってもいいかな、なんて思ってしまう。

 それはきっと彼女のおかげ。

 未だに鏡花の頬に触れたままの俺の手と、そっと重ねられている彼女の手。

 お互いに伝え合う温もりを心に纏う。

 大切な人との、今日はそんな日。





( 余談 )


「なあ、鏡花。上達したのは分かったから、もう勘弁してくれないか?」

「なに言ってるのよ。頑張れと言ったのは亮でしょ? 自分の発言には責任を持ちなさいよ」

「俺は料理全般を頑張れと言ったのであって、お粥だけを頑張れと言ったワケでは……」

「問答無用! いずみの所で特訓した成果、徹底的に堪能してもらうんだから!」

「うがぁぁぁ! 何が悲しくて健康になった後で朝昼晩とお粥を食わねばならんのだぁぁぁっ!」

「自業自得ね」

「俺か!? 俺が悪いのか!? そうなのか!?」

「喚いてないでおとなしく食べなさいよ。まだまだ『たくさん』あるんだから」

「うがぁぁぁぁぁ!」









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