『ねぼけ』



 心地好い眠りに就いているあたしに、ユサユサと軽い振動を与えてくる無粋な手。
 それによって、あたしの意識は強制的に覚醒させられてしまう。……全体の2割ほどだが。

「……んー? 亮? もうちょっと……寝かせてよぉ」

 目も開けずに、あたしは言葉を返した。
 しかし、振動は止まらない。相も変わらずユサユサと揺さぶり続けてくる。

「……もう少し……寝かせてってば。……まだ、眠いの」

 言いつつ、身体に添えられている手を払った。ほぼ無意識に。
 けれど、手は再度あたしの安眠を妨害してきた。
 いい加減しつこい。

「もう、なんなのよぉ。あたし、亮の所為で……クタクタ、なの。ダメだって、言ったのに……亮ってば……いつまでも、放して……くれないんだもん。まだ……疲れ、取れてないの。……お願いだから、あと少し……眠らせて、よ」

 あなたが全部悪いのよ、あなたがいけないんだから、と責任を亮に擦り付け――事実、彼が悪いのだが――文句混じりに懇願。
 すると、観念したのか、あたしの身体を揺すっていた手が離れていった。
 自分の要求が通った事に安堵と満足感を覚えるあたし。小さな欠伸を一つ漏らすと、すぐさま再び夢の世界に完全に意識を落そうとした。
 ――が、その瞬間、

「っ!? いったぁぁぁっ!」

 頭に衝撃が走った。パコーンという妙に軽やかな音を響かせて。

「な、なにするのよ、亮!」

 流石に眠気も吹き飛び、あたしは勢いよく上体を起こす。

「起こすにしても、もうちょっとマシな起こし方しなさいよ……って……あ、あら?」

 ガバッと跳ね起きたあたしの目に飛び込んできたのは、見慣れた亮の部屋ではなかった。
 否、此処も見慣れていることはいるのだが……。

「おはよう、七荻さん。ごめんなさいね、お疲れのところ起こしちゃって」

 目の前には英語担当の――美しい容姿と明るい性格をした、生徒から信望の厚い――若い女性教師。グルリと周りを見渡すと、そこにはほぼ毎日顔を見ているクラスメイトの面々が。
 早い話が教室。付け加えるならば授業中。
 つまり、あたしは英語の授業が行われている中、思いっきり爆睡してしまったワケで……。

「あ……えっと……す、すみません」

 バツの悪い顔をしつつ、あたしは素直に頭を下げた。

「まあ、起きてくれればそれでいいのよ。今後は気を付けてね」

 若干こめかみの辺りを引き攣らせたニコニコ笑いを浮かべて先生が言う。丸めて筒状にされた教科書で手をポンポンと叩きながら。

「はい。すみませんでした」

 あたしはもう一度頭を下げる。神妙な顔で。

「それにしても、あの噂って本当だったのね。先生、驚いちゃった♪」

「へ? 噂? なんのことです?」

 妙に弾んだ楽しげな声で、唐突にワケの分からない事を言い出す先生に――そして、周りで口々に『やっぱりねぇ』『そうだと思ってたんだ』等々と囁き合っている級友達に――あたしは怪訝な顔で応えた。
 先生や周囲の面々の心から『からかい』『面白がる』といった感情が露骨に伝わってくるのが気になるが、それでも問うてしまった。
 本当は聞かない方がいいのかもしれない。嫌な予感もするし。けど、あたしは気になった事は放っておけない性格なのである。

「七荻さん、羽村くんと同棲してるんでしょ」

「ふぇっ!? な、な、何を言って……。あ、あたしと亮は……そんな……ど、どど、同棲だなんて……」

 先生が悪戯っぽい笑顔を浮かべてサラッと口にした言葉に、あたしは柄にも無く激しく動揺してしまう。
 『そんな噂が流れていたのか』と、驚愕の余り思わず目を大きく見開いてしまったあたしに、先生はクスクスと軽やかな笑みを送ってきた。

「必死に言い繕おうとしてるところ悪いけど、もうバレバレよ。さっきみたいな場合、誰かの名前を呼ぶなら普通はお母さん辺りでしょ? でも、七荻さんが呼んだのは羽村くん。しかも、すっごくナチュラルに。さも当然と言わんばかりに。これだけでも、二人の関係は窺い知れるわ」

「うぐっ」

 言葉に詰まる。正論過ぎて反論すら出来ない。
 加えて、クラスメイトから届けられる口笛や「ヒューヒュー」といった煽り声が追い討ちとなって、あたしの感情をこれでもかと掻き乱してくれた。
 今のあたしに為しえるのは、赤くなった顔を晒してただ立ち尽くす事のみ。

「あーあ。若いっていいわねぇ。私も七荻さんみたいに熱烈な恋をしてみたいわぁ」

 わざとらしくため息を吐いて、先生がそうからかってくる。
 そして、便乗するように級友達からも同様の声と心が飛んできた。

「……そ、そうですか」

 一方的に完璧に玩具にされているのが悔しく、目の前の先生を衝動的に蹴り飛ばしたくなる。チロをけしかけたくなる。けれど、『居眠りしたあたしに非があるのだから』と自分に言い聞かせ、暴れ出したくなる気持ちをなんとか抑え付ける。

「しっかし、随分とハードな性生活を送ってるみたいね。七荻さん、随分と羽村くんに愛されちゃってるみたいだし」

 煮えたぎるあたしの内心に気付く事無く――気付いた上で、敢えて言ってる可能性も否定できないが――先生の口からあけすけなセリフが放たれた。
 途端、女生徒たちから「キャー♪」と悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。男子生徒たちが囃し立てる。
 再び暴走したい衝動に駆られるが、今回もどうにかこうにか辛抱。
 口より先に手が出るタイプのあたしとしては、近年稀に見る忍耐力だった。

「――ま、私は固い事を言うつもりは無いわ。ただ……」

「ただ?」

「避妊だけはちゃんとしなさいね。今は、私の胸の内だけに留めておけるけど、もし子供が出来ちゃったりしたら上に報告しなくちゃいけなくなるから。そうなったら高校生の同棲なんて許されるわけないし、最悪の場合は退学処分になっちゃうからね」

「は、はい」

 あたしは神妙な顔で頷いた。先生の言う事は全くその通りであったから。
 ――取り敢えず、『避妊』という語に反応して盛り上がりを見せている周囲の面々は気にしないでおく。

「ところで、七荻さん?」

「なんですか?」

 真面目な顔で問うてくる先生に、あたしも表情を固くして応じた。

「羽村くんって上手? 優しくしてくれる?」

 いきなり声色を『ハート』が付きそうな位の軽薄な物に変えて先生が尋ねる。激しい落差に、あたしがついついずっこけてしまった事は誰にも責められまい。

「ねえねえ、どうなのよぉ♪」

 興味津々といった風情で訊いてくる先生を前にあたしは思った。
 二人の同棲が知られてしまったのが、お茶目でアバウトで無駄なまでにノリの良いこの先生だった事は、果たしてあたしにとって幸運だったのか不運だったのか――と。

(きっと、両方ね)

 キャイキャイと姦しく騒ぐクラスメイトの声をバックに、深々とため息を零してしまうあたしであった。



 授業が終わると同時に、群がってくる友人達を何とか振り切って教室を脱出。
 亮のクラスへと急行すると、問答無用で天誅を喰らわせた。しかもグーで。一切の容赦なく。
 ――ちょっとだけスッとした。



 数時間後、この行為を激しく後悔する事になったりするのだが……それはまた別の話である。