『舞姫』



 ただ立っているだけで汗ばむような陽気に覆われた、卯月下旬のとある日曜日。
 浩之と来栖川姉妹、セリオとマルチのメイドロボ姉妹は、連れ立って先日オープンしたばかりの屋内アイススケートリンクへと遊びに来ていた。

「どう? 結構凄いでしょ?」

「ああ、確かに凄いな」

 綾香の自慢げな問い掛けに、浩之は素直に頷いて応える。
 来栖川のアミューズメント部門が直営するスケート場。常に氷が張られ、全シーズンの利用が可能であった。
 また、あらゆるニーズに応ずる売店や、予期せぬトラブルに対処する為の医務局等の各種施設も完備されており、『さすがは来栖川直営』と唸らせるだけの規模を持っている。
 綾香が得意気にするのも頷けようというものだった。

「広いし、綺麗だし。何より、いつでも滑れるってのがいいよな」

「でしょでしょ♪」

 楽しげに言う浩之に、綾香は自分が褒められた様な顔をして満足そうに返す。ちょっとした達成感を言葉に乗せて。
 此処に来ようと言い出したのは綾香である。
 そして、綾香が休日の遊び場にこの場所を選んだのには三つの理由があった。
 一つ目は、綾香のお気に入りの施設であるスケート場を浩之に披露する事。自分と同様に気に入ってもらう事。
 これはもう為しえたと言える。綾香の思惑通り、浩之も此処に好印象を抱いてくれた。
 二つ目は、大好きな姉の芹香、親友とも呼べる存在のセリオ、可愛い妹分のマルチ。滅多にこういう遊びをしない――する機会の与えられなかった――彼女らに、新鮮さを味わいながら楽しんでもらう事。
 こちらも概ね上手くいっている。慣れない氷上でフラフラしつつも、三名とも顔には笑顔を浮かべていた。
 ――となれば、後は残る一つ。

「ねえ、浩之」

「ん?」

 呼びかけられ、それまで感心した表情で周囲を眺めていた浩之が綾香に目を向ける。
 その浩之に、綾香はパチッとウインクを送ると、流れるような動きでスケートを操り始めた。
 三つ目の理由。浩之に格好いいところを見せる事。自分に注視させる事。見惚れさせる事。
 場内に響き渡るノリの良い音楽をバックに、綾香は柔らかく微笑みながら軽快に滑る。
 小気味よくターンを決める度に、綾香の長く美しい髪がフワッと滑らかに踊った。共に、短めのスカートもヒラヒラと――無論、『見せないテク』を身に付けている綾香であるから、中を曝してしまう様な失態は犯さずに――舞わせる。
 今、この瞬間、スケートリンクの主役はまさに綾香だった。
 他の利用客、そして施設の運営スタッフ達ですら、綾香の優美な、それでいて躍動感溢れる滑りに魅せられ感嘆の吐息を落としている。
 注がれる視線を心地良く受け止めつつ滑る綾香。彼女の舞は佳境へと入っていた。
 ここ数日、ネットや本で仕入れ、密やかに練習していたフィギュアスケートのテクニック。それを惜しげもなく披露していく。
 そしてクライマックス。曲の盛り上がりに合わせ、綾香は大きく飛び上がった。空中で体を回転させる。一回、二回、三回と。その瞬間、完全に観客と化した周囲から歓声とどよめきが漏れた。
 着地も綺麗に決め、そのまま流れを切る事無く綾香は軽やかに舞い続ける。人々を魅了し続ける。
 やがて、音楽が山場を越え、終幕へと入る。それに合わせて綾香の滑りも収束していき……
 曲が終了すると共に、綾香もピタッと一切の動きを止めた。
 漂う余韻。静寂。暫しの間。
 ――次いで、割れんばかりの拍手と喝采。
 周囲の者へと手を振って歓声に応えながら、綾香は心地良い満足感を味わう。
 三つ目の理由。それの達成を確信し、心の中でグッとガッツポーズ。
 ところが、

「ねえねえ、浩之♪ あたしの滑り、どうだった……って……おい」

 そんな思いは一瞬で吹き飛んでしまった。彼女の眼前で繰り広げられている光景を目の当たりにして。


「は、はわわっ! 滑りますぅ! 滑っちゃいますよぉ!」

「そりゃそうだ。スケートなんだから、滑らなきゃ詐欺だろ」

 フラフラ……どころか前後にグラングランしているマルチを見て、浩之が『やれやれ』と苦笑を浮かべる。

「ですけど、ですけどぉ。わっ!? はわわわっ!?」

「ったく、しょーがねーなぁ。ほら、俺の腕に掴まってろよ。そうすりゃ大丈夫だろ」

 半ば泣き出しそうな顔になるマルチに、浩之はそっと己の腕を差し出した。

「あうぅ。す、すみませーん」

 ヒシッとマルチがしがみ付く。刹那、安堵の吐息を一つ。

「ホント、しょうがない奴だなぁ。……ん? どうしたの、先輩?」

 マルチの様を見て、つられる様に笑みを零していた浩之。その浩之に芹香が訴え掛ける視線を送ってきた。

「…………」

「え? わたしも掴まっていいですか? もしかして、先輩もマルチみたいに転んじゃいそうになるの?」

 浩之の問いに、芹香は小さくコクンと頷く。

「…………」

「ダメですか? いいや、そんなことないよ。はい、先輩。どうぞ」

 浩之が腕を差し出すと、芹香は微かに頬を染めて、それに自分の腕を絡ませた。
 マルチと芹香に両の腕を捕られる浩之。文字通り『両手に華』である。
 しかし、両手だけで終わるはずもなく。

「浩之さん。わたしも掴まっていていいですか?」

 そう言うと、セリオは返事も待たずに浩之の背中からギュッと抱き付いた。

「おわっ!? せ、セリオ? なんでお前まで? セリオならスケートなんて軽いだろ? データだって落とせるんだし」

 浩之が驚いた口調でセリオに問う。

「どうやら、データの送受信に於いてトラブルが発生した模様でして……。その為、上手くダウンロードが出来ないのです」

「マジで?」

「……はい」

「そっか。じゃ、仕方ないな。いいぞ、掴まってても」

 セリオが答えるまでに若干の間があったことは些か気になるが――というか、あからさまに嘘っぽいが――浩之はセリオの好きにさせる事にした。

「ありがとうございます」

 嬉しそうに応じると、セリオは浩之の背中に自分の身を強く押し付けた。もちろん、柔らかな双丘も。

「う……あー……ま、まあ、よきにはからえ」

 浩之の顔が少々だらしなく緩む。
 両の腕と背中から柔らかな感触が伝わり、地域限定漢の浪漫的この世の春を謳歌する浩之であった。


「ううっ。こっちの事、全く見てないし」

 芹香たちといちゃつく浩之の様子に、綾香はガックリと肩を落としてしまう。
 考えてみれば、こうなる事は当然だった。セリオはともかく、運動を苦手としている芹香とマルチが一緒なのだから。世話好きな面を持つ浩之が、この危なっかしい二人を放っておくはずがない。
 綾香は自分の見通しの甘さを呪った。
 周囲から送られる賞賛など耳に入らない。
 一躍この場のヒロインとなった綾香ではあるが、彼女自身は脇役の気分だった。否、同じ舞台に上がってすらいないのだからもっと悪いだろう。今の綾香は完全に部外者となっているのだから。
 浩之を取り合おうなんて気は無かった。ちょっと良い所を見せたかっただけ。もちろん、彼女らを出し抜こうなどとも考えていなかった。決して芹香たちと勝負をしようと思っていたわけではない。勝ちも負けもない。
 なのに、それでも綾香の心には、なんとも形容しがたい敗北感が広がっていた。
 加えて寂寥感も。

「……なんか、完璧に蚊帳の外だし。っていうか、あたし、思いっきり忘れ去られてる?」

 あまりにも和やかである為に、妙に入り込みづらい雰囲気を醸し出している浩之たち。
 それを、ただ指を咥えて羨ましげに眺める事しか出来ない綾香であった。

「……くすん」

 未だに響き渡る歓声が……空しい。




 ――で。
 後日、芹香の部屋にて。

「あのさ、姉さん。お願いがあるんだけど」

「?」

「運動神経を鈍く出来る薬って作れないかな?」

「…………」

「あたしも、スケートとかで浩之に『あーん、怖ーい。ひろゆきぃ、しっかり掴まえていてぇ』とか言ってベタベタ甘えてみたいの♪」

「…………」

「あ、あれ? どうしたの、姉さん?」

「…………」

「そ、そんなあからさまに目を逸らさないでよ! だめだこりゃって顔をしないで! 深いため息吐かないで! 足早に立ち去ろうとしないでーーっ!」