『まっただなか』



「遅いわねぇ」

 商店街の片隅に設置してある小さなベンチ。
 それに腰掛けた香里が、腕時計に視線を送りつつポツリと呟いた。

「約束の時間から、もう一時間も過ぎてるじゃない。まったく、なにやってるのかしら?」

 微かに唇を尖らせて、退屈そうに「ふぅ」とため息を零す。
 すると、まさにその瞬間、

「っ!?」

 唐突に香里の視界が遮られた。明らかに男の物と分かる手によって。

「だーれだ?」

 背後から掛けられる声。妙に甲高い、あからさまに作られた声。
 それを耳にした香里の心が、急速に驚きから呆れへと変化していく。

「日本一のおばかさん、相沢祐一さんかしら?」

「おおっ。大正解だぞ、香里。声を変えてたのによく分かったな。やっぱり愛ゆえか?」

 目を塞いでいた手を放すと、祐一は心底楽しげな笑みを浮かべながら香里の隣に腰を下ろした。
 『日本一のおばかさん』の部分はアッサリとスルーして。

「そりゃ、分かるわよ。だって、こんな変な事するの、男ではあなたしかいないもの」

「男では? 女だったら他にもいるのか?」

 祐一の問いに香里は指折り数えながら返す。

「栞とか名雪とか、たまに秋子さんとかも」

「なんとっ!? じゃあ、さっきの俺の行為は、使い古された面白味の欠片も無いものだったのか!? なんてこったい!」

 頭を抱えて祐一が悶えた。この世の終わりとでも言わんばかりの悲壮な表情で。

「しまった。だったら、目じゃなくて胸でも鷲掴みしておくんだった。これなら、他に誰もやってないだろうからな。後ろから忍び寄って、香里の豊かな胸を力の限り揉みしだいたり……なんて事はしませんから、振り上げている拳を下げて頂けるとありがたい所存で御座いますですよ、はい」

「ったく」

 平身低頭して訴える祐一の姿に深く嘆息しながら、香里は固く握り締めていた拳から力を抜いた。

「遅刻、それも一時間の大遅刻をしておいて随分な態度ね。もしかして、反省の色、全然無しだったりする?」

「そ、そんなことはないぞ。悪かったと思ってる」

 半目の香里に、祐一が冷や汗を流しつつ応える。

「いったい何をしてたの? これだけ遅れたのだから、相応の理由はあるんでしょうね?」

 冷ややかな声で香里が尋ねた。

「もちろんだぞ。聞くも涙、語るも涙の理由だ。でも、話してもいいのか? 長くなるぞ」

「構わないわ」

 香里が小さく頷く。

「そうか。ならば話そう。実は、此処に来る時とある面々と遭遇してな。バニラアイスとイチゴサンデーとタイヤキと肉まんと牛丼とその他諸々を……」

「もういいわ。よく分かったから」

 こめかみを指で押さえて、香里が祐一の話を遮った。

「えっ? もういいのか!? これから四百字詰め原稿用紙で一千枚にも及ぶ大スペクタクルが展開されるのだが」

「結構よ」

 本気で残念がる祐一に、香里がキッパリとお断りを入れる。まさに一刀両断。

「早い話、待ち合わせの相手を放って他の女とイチャイチャしていたワケでしょ」

「イチャイチャと言うか……単に、たかられていただけなんだけど……」

 言い訳じみた口調で祐一が返した。しかし、香里は聞く耳を持たない。

「これはお仕置きね。うん、決定」

「お、お仕置きって。――マジ?」

 祐一の問いに香里がコクンと首肯。目が「大マジ」と声高に叫んでいた。

「で、では……ワタクシには一体どの様な罰が下されるのでありましょうか、香里様」

「そうねぇ。今日のこれからの時間、あたしのワガママは全部聞くこと、ね。いい?」

 微かに楽しげな笑みを浮かべて香里が刑を宣告する。

「りょ、了解であります。どうかお手柔らかに」

「それから」

「……って、まだあるのかよ!?」

 一つだけで終わると思っていた祐一、思わず驚愕の叫び。
 その声をサラッと聞き流し、香里は言葉を続けた。

「これからの時間、あたし以外の女の事を考えないこと。あたしの事だけを考えること」

 仄かに頬を染めて、心持ち視線を泳がせて。拗ねと恥じらいの入り混じった複雑な表情で。

「い、いいわね?」

 対して祐一。
 言われた瞬間は意表を衝かれた顔をしていたが、すぐに柔らかな微笑みへと変貌させた。

「そっちも了解」

「うん、よろしい」

 希望通りの返答に満面の笑みを浮かべると、香里は勢いよくベンチから立ち上がる。そして、促すように祐一へと手を伸ばした。

「それじゃ、行きましょ。今日は一日、思いっきり楽しんじゃうんだから。ほら、早く早く」

 急かす香里に祐一が苦笑する。

「分かった分かった」

 祐一もベンチから立ち上がると、香里へと腕を差し出した。

「じゃ、行くとしますか。我がお姫様」

 香里は祐一の腕に自分の腕を絡め、

「ええ、あなた♪」

 優しい穏やかな笑顔で応えた。
 幸福感に満ちた、輝かんばかりの微笑で。

 相沢香里、現在新婚二ヶ月目。
 ただいま蜜月真っ只中であった。



 但し、

「ううっ。祐一と香里、仲良しさんだよー」

「人前でいちゃつくなんて、人として不出来だと思います」

「納得いかなーい。祐一の本当のお嫁さんは真琴なのにぃ」

「ボクも祐一くんにお姫様とか言われてみたいよ」

「このままでは、祐一さんが完全に道を踏み外してしまいますねー。早急になんとか修正しなければ」

「……はちみつくまさん。祐一に、要パッチファイル」

「祐一さんの愛を独り占めするなんて、そんなお姉ちゃん、だいっ嫌いですぅ!」

 いろいろ前途多難っぽいが。