ぼおぉーー… 遠くに行き交う輸送船の汽笛が潮風に運ばれて港まで届いている。 ヨットハーバーとして使われている桟橋で眼鏡をかけた男が一人、潮風に包まれている。 その後ろで、西国であるこの羅幻王国ではあまり見かけない真っ白な肌をした女が男を見つめている。 なにかいいことでもあったのか、眼鏡の男…嶋丈晴は楽しげに桟橋を踏みならしている。 「こ…こんにちわ」 「こんにちはー」 文字にすると何気ない挨拶ではあるが、支那実にとっては結構どきどきしながらの一言だったりする。 「海風が気持ちいいですね」 なにを話すかぐるぐるしながら、とりあえず今の状況を話題にすることで落ち着きを取り戻す。 「風、いいですよね。僕はだいすきなんです」 「私も好きです。気持ちいいですよね」 お互いの笑顔を見て、お互いに微笑み合う二人。 まったく。見ているこっちがにやけたくなるようなシチュエーションである。 「考え事するにはぴったりです」 「考え事ですか?」 支那実は、彼が何を考えるのかを考えてみる。 「ええ。研究とか」 考え付く前に、先に答えが出てしまった。 「あ、そうですよね。いろいろと考えをまとめるのに、落ち着いて考えられる場所が必要ですよね」 「人生に悩んだことはないですねえ」 なにか悩みごとでもあるのではないかと彼女は考えている、と思ったのだろうか。 「いやー。おもしろくないところですみません」 「そんなことありません、嶋さんの好きな場所やいろいろなことを知るのは私も嬉しいです」 「ありがとう」 すっと出た一言だが、それはとても優しい響きのする「ありがとう」だった。 支那実が本心からそう言っていることが伝わったのだろう。 「今日は、なんの御用ですか?」 「あ、お話しできたらいいなぁと思ってきました」 「じゃあ、お話ししましょうかー」 文字で見ると何とも言えない感じであるが、頭で図を想像してみるとなにか微笑ましいものがある会話である。 「今日は嶋さんのお好きな場所に行ってみたいと思っていたので、こうしてご一緒できて嬉しいです」 「ああ。そうだったんですか。すみません。なんとはなしにえらんでしまいました」 「いえ、なんとはなしに選ぶ場所の方が、リラックスできて気に入ってる場所だと思うので、気にしないでください 」 そうと知っていればもっと別に紹介したい場所でもあったのだろうか。 嶋は恐縮していたが、支那実の言葉で思い直したようだった。 「空が高い。ここは冬なんですね」 「空、高いですね。冬ですけど、気候は暖かいと思いますよ」 西国で砂漠に囲まれた羅幻王国は、冬でも暖かい。 それを示すかのように、目の前に広がる海は冬の海とは思えない透き通った青だった。 「ええ。沖縄と同じくらいですね」 嶋は視線を海から支那実に移して話し始めた。 「行ったことないので、一度行ってみたいと思ってるんです。このくらいの気候っていいですよね」 「まあ、でも、あそこの人はこの気温でも寒い寒いと言って、ストーブつけますよ」 「えー、この気温でですか?」 それはいくらなんでもー、な感じで笑っている支那実だった。 が、嶋はいたって真面目にうなずいた。 どうやら本当のことだったようで、その様子を見た支那実は心底驚いた。 そしてその驚いた支那実を見て、嶋は微笑んだ。 「市場でも見に行きましょうか」 近くにある市場からはこの港まで賑やかさが伝わっていた。 「はい、ご一緒しますー」 二人が歩くたびに桟橋が楽しげな和音を奏でていた。 /*/ 市場の賑やかさが港まで届いているだけあって、とても活気のある感じがした。 立ち並ぶ店とそこに出入りする人々のガヤガヤとした喧騒が、そこに誰がいても気にならない絶妙な雰囲気を作り出していた。 店頭に並ぶものは、さすが通商の国だけあって種類が豊富である。 たくさんの商品の中から嶋が最初に興味を持ったのは、天井からつりさげられた黒っぽいものだった。 それは螺旋のように渦まいていた。 「これなんでしょうね」 つり下げられた黒い物を見つつ、支那実が尋ねた。 「ウミヘビですね。食べますか?」 「う…ウミヘビですかっ、食べたことないです…。嶋さんは食べたことあるんですか?」 「スープにして食べますね」 支那実は改めて黒い螺旋のようなものを見つめた。 そしてウミヘビと目が合った…気がした。 どうやら本当に蛇だったようだ。 「スープですか…すみません、蛇とか苦手で…」 「そうですよね」 嶋の折角の好意を断ってしまったと、しゅんとしょ気ている支那実だったが、当の嶋は全く気にしていないようだ。 すでに瓶に入った黄色い粉について、店の人に聞き始めていた。 「それはウコンだよ」 店の人の言葉にピンと来た様子だ。 「ターメリックかー」 その様子に嶋が特に先ほどのことを気にしていないと分かって、支那実は少し安心した。 「ウコン。体にいいと聞きますね〜」 「体にいいんですか?」 今回は質問をする側とされる側が逆になっていた。 「肝臓の働きを助けるとか聞きますね」 「じゃあ、僕はカレーよく食べるんで健康になりそうですね」 「カレー、お好きですか? 私も好きですー」 店頭の粉末ウコンがいい仕事をした。 話題が定まり会話がはずみ始めた。 「実は料理へたなんですがー。あれは何とか作れるので。作り置きも出来ますし」 「そうなんですか? カレーはキャベツを入れると甘みが増して美味しいですよ」 支那実の豆知識に嶋はびっくりした。 「へえー。それはいれたことありませんでした」 「大きくざっくり切っていれてもよし、みじん切りにして煮とろけさせてもよし、です」 そうだ、とあることを思いつく支那実。 「よければ今度作りましょうか?」 「デバックしてみたいです」 「でばっく、ですか?」 何のことだろう?と一瞬考え込む。 「あー。えーと食べることです。すみません。スラングです」 ああ、そういうことか、と納得。 なおこの場合の「デバック」は「味見してみたい」くらいの意味だろう。 「じゃ、今度作りますね。私もあまりものを知らなくて、すみません」 支那実は少し恥じ入った感じで謝っていた。 「いえいえ。ものなんか知らない方がいいですよ。まぁ、知らないと仕事できないんですが」 「嶋さんとお会いすると、いろいろ知ることができてそれも嬉しいんですよね。知らないことを知るのはとても楽しいです」 今度は屈託なく微笑む支那実。 「そうですねえ。僕も知ることは好きなんですよねえ」 溜息が混じっていて、少し含みがある言い方だった。 「ただ知れば知るほど、アイデアがなかなか浮かばなくてね」 設計者・発明者としての苦労が、今、嶋に溜息をつかせていた。 「そういうものですよね。固定概念もあるでしょうし知るほどに限界もあるでしょうし…」 「生まれたての子供は、いつもすごい発明者なんです」 そう言って笑う嶋は、愛しいものでも思い浮かんだような、やさしい笑顔だった。 「赤ちゃんには固定概念、ないですものね」 「芸がない意見ですみません」 「そんなことないですよー。嶋さんの考え方を知るのもとても嬉しいです」 なにか急に気恥ずかしさが出てきたようだ。 二人はお互いに照れくさそうにごまかしの笑顔を浮かべていた。 「麺とかないんですかねえ」 「麺類のお店ですか?」 突然の話題替えであったが、どちらも照れていた以上あっさりと話題は移ってしまった。 見てる方としてはもうちょっとこのままの展開も見てみたかった気もする。 「僕は世界中の麺を見てみたいんですよ」 「世界中の麺ですか…どのくらいの種類があるんでしょうね」 「どうでしょうねえ」 まだ少しさっきの気恥かしさを引きずっている感じではあったが、会話は進んでいた。 「羅幻さんだとラーメン屋さんあるらしいと聞いた気が…」 「まぁ、デバックしてみましょう」 「ええ、是非デバックに行きましょう」 嬉しそうな笑顔が二つ、ラーメン屋さんに向かって歩いて行った。 /*/