カップを持つ手が震えている。  カタカタカタカタ、と音を立てるカップの湖面にはいくつもの波が生まれてはうねり、跳ね返り、ぶつかって消え、また生まれては消える。まるで揺れ動く心のようだ、と詩的な表現をしたつもりでドヤ顔しても、たぶん誰も褒めてくれないしそれ以前に誰も気づかない。  その程度には状況はシリアス。 (だいじょうぶかな) (ファイトです) (……)  ハラハラ・ドキドキ・平静と、言葉のとおり正しく三者三様の反応を見せる3人を前にして、意を決したように目を瞑ると、波立つカップの縁に口を付けた。  伝わってくる緊張のほどは、呼吸を忘れているのではとすら思わせる。  たどたどしいと形容するにふさわしい手つきで恐る恐るカップを傾け、  初めて口をつけるものであるかのようにゆっくりと口に含み、  ゴクリ、と嚥下し、 「天使の飲み物のようです!」  ぱあああ、と表情を晴らすカワイイ生き物がここにいる。 /*/  この世界の常識その1。  まずもって、ヤガミと名のつく存在はひねくれている。  もっとも無名世界的には名のつくというと語弊を生じるので、ヤガミという音が含まれる、としておきたい。たまにヤーガ・ソウとかいろいろ亜種もいるが、もうなんだか別個で管理するのも面倒なのでひとまとめでヤガミでいいと思う。と、補足するこちらもなんだかひねくれた気分になってくる。  ――という、こちらの都合と気分はともかくとして、アイドレスのプレイヤーである満天星国のホーリーと津軽が会うことになったヤガミもやっぱりひねくれていて、二人が親睦を深めたいと言っているのにも関わらずじゃあなと途中退席を決め込んでしまう始末。  ヤガミさん、たちばをおもいだして。海賊であるいぜんにあなたはヤガミです。あなたはおそらく、この世界で最も女性と書いてプレイヤーと読む、を泣かせているメガネメンです。あ、だからまた泣かせたのか。なーかせたー!  小学生みたいなからかいは置いておいて、津軽とホーリーは無事ヤガミを説き伏せることに成功し、茶でもシバく事になった次第。  ところで、この場にはもう一人、ハラハラしつつも成り行きを見守っていた人物がいる。背が高いのは目立つからちょっと困る、と乙女の悩みを抱えているのは斎藤奈津子。背の高い女子が少しでも背を低く見せようと努力した結果としてありがちな猫背ではなく、背筋がピンと伸びているのが彼女のチャームポイント。  現在彼氏募集中。いや実際、募集してるかどうかまでは保証できないが。  ところでところで、ホーリーと津軽が呼んだヤガミも彼女募集中。  と、書こうとしたら女募集中と訂正されたので女募集中ということにしておくことにする。一文字取れただけでなんかヤな感じがするのは、彼がヤガミだからだろう。誓っていうが、うまいこと言ったつもりはない。  さて。  茶をシバく、とはいうものの大抵のケースで供されるのはコーヒーだったりする。  茶はお茶の茶でなく喫茶の茶ですよ、と茶目っ気たっぷりに語れば「それ茶って言いたいだけの人じゃないですか」とつっこまれることうけあい。  つまらないトリビアは置いておいて、4人が親睦を深める様子を見てみよう。  優しい表情を浮かべたヤガミがいる。ついさっきまでひねくれてたとは思えない。自然な仕草でコーヒーを口にする。不思議なことに湯気を受けてもメガネが曇らない。心情によって不自然な光の反射を起こし目が隠れる、という機能は今のところ確認できていない。  何かと気を配っているホーリーがいる。この人物、なかなか機転が利きそうだ。自分のコーヒーに口をつけつつ、他者の様子につぶさに反応している。ちょっとばかり落ち着きがない、とも言えるかもしれない。その反射神経はおそらく関西という土壌が育んだものだろう。  ほっこりと落ち着いている津軽がいる。ヤガミを説き伏せたのは彼女だ。一時はどうなることかと見ているこちらをやきもきさせたが、こうして共にコーヒーを飲んでいる状況は実に喜ばしいことと言えよう。今はなんだか「ほっ。」という文字が浮かびそうな空気をかもしている。  ヤガミを見、ホーリーを見、津軽を見、なんだかもじもじしている斎藤奈津子がいる。彼女の前に置かれたコーヒーは、カップから湯気を立ち上らせているものの、減っている様子は見受けられない。  ふう。  ひとつ息を吐くと、斎藤は落ち着きなくさまよっていた視線を、ぽつとカップに降り注いだ。  カップに注がれているのはヤガミの善意である。ヤガミの善意は黒かった。コーヒーという名の黒い善意は、苦味と酸味を備えた飲み物であるという。  以前目にしたコーヒーはちっとも香らない代物だったので、目の前で香っている液体が本当にコーヒーなのだろうかという疑念が斎藤にはある。飲んでみればわかるのだろうが、以前に飲んでみたちっとも香らなかったコーヒーは、ひどく苦くて思わず吐き出してしまった記憶が消えずに残っている。 「斎藤さんもコーヒー派ですか?」  ありがたがって手を付けていないと思われたのだろうか。かけられた言葉に斎藤は、猫に出会ったネズミのようにビクッ、と姿勢を正した。ギギギ、と油の切れたブリキ人形みたいな動作で声の主、ホーリーに向き直る。 「あ、いえ。実は……お子様舌なんで、甘いほうが……」  斎藤は両手の指先を合わせるようにつんつんしながら、曖昧に笑みを返した。無意識に両足の膝をすり合わせる。  斎藤は背が高いからかよく年長者に間違われた。本人は細いだけで恥ずかしいと思っている手足も、見る人が見ればうらやましいモデル体型ということらしい。いえいえそんなことは、と恐縮する斎藤にはよく価値がわからないが。  自分で言うのもなんだが、ひどく自分は子どもっぽいと斎藤は思う。  その斎藤以外は皆コーヒーを飲んでいる。平然と。おいしいと言いながら。  みんなコーヒーの価値がわかるのだ。  つまりはオトナだ。  アダルティーだ。  あれ。  ティーってことはお茶の一種だろうか? 「カフェオレとかも?」 「かふぇおれ?」  って、なんだろう。津軽の問いにオウムに返して斎藤は考える。  男の人が使う、俺って言葉の仲間だろうか。  ――なあ、ここに置いといたかふぇ俺の靴下知らない?  うーん。 「お砂糖とか備え付けてないかな?」  頭上にはてなマークを浮かべて怪訝な顔をしている斎藤をよそに、ホーリーはさっと席を立つとキョロキョロ周囲を探し始めた。書類を前にしてボールペンがないことに気づいたときくらいの気軽さだ。お砂糖はスティックシュガーか角砂糖かな、っと。  砂糖! 「だ、だめです。そんな高級な物!」  砂糖はとてもありがたいものである。いや、正確にはありがたいものであるらしい。  らしいというのは、斎藤は久しく砂糖を拝んでいないからだ。だから想像である。甘いだけが取り柄の風味も何もないチョコレートもどきを巡り、男子たちが殴り合いをしているのをよく見かける。あのまずいチョコレートが殴り合って手に入れるだけの価値がある代物とはいまだに思えないのだが、けが人が出ると斎藤の出番だ。  けれど斎藤が包帯を手に現れると、みな一様に何か酸っぱいものでも食べたように口をすぼめてとても悲しそうな目をする。悲しい目といえば、斎藤が調理場で手伝おうと申し出ると、その日の当番がやや引きつった表情でとても悲しそうな目をする。みんな悩みでもあるのだろうか。悩みを解決する力になりたいと思っても、斎藤にはその方法がわからない。斎藤はそれが悲しい。 「乾燥剤みたいに砂糖を言うなあ」  思い出して悲しみにくれる斎藤をよそに、ヤガミは苦笑した。  ヤガミの世界では火星は水の星だ。夜明けの船も道程のほとんどを潜行して移動する。同業者や太陽系総軍とやりあえば、浸水することも日常になっている。排水はできても、厄介なのは残る湿気とそれに伴うカビだ。  したがって、どの船も乾燥剤はいくらあっても多すぎることはない。常に需要が供給を上回っているのだ。乾燥剤を輸送している船は海賊にとって格好の獲物である。 「砂糖は湿気を吸う。あながち遠くもないな」  ヤガミは備え付けてあった角砂糖を手に取ると、無造作に斎藤のカップに落とした。 「うわー」  斎藤が声にならない声を口から漏ら――普通に声になっていた。  ホーリーが首を傾げている。さっきまで砂糖はなかったように思ったんだけど、あれー。  ぽちゃんぽちゃんぽちゃん、と角砂糖が着水するたびに、斎藤は気が遠くなっていくような錯覚を覚えた。み、みっつも入ってしまった。あと一回聞こえていたら卒倒していたかもしれない。 「ここじゃ安いらしい」  ヤガミは皮肉そうに微笑むと、もうひとつ追加した。ぽちゃん、という音に今度こそ斎藤は卒倒しそうになった。 「だいじょうぶ? 飲めそう?」  津軽の声がなければ正直あぶなかった。  もはや斎藤はカップの中身を直視できない。注がれているのはヤガミの黒い善意に角砂糖4個。ありがたすぎて手を合わせたい衝動に駆られる。ナンマンダーナンマンダーと心で念じてみる。こんな私が贅沢してごめんなさい贅沢して甘いものが甘いものでお砂糖がいっぱいで贅沢な私。 「奈津子、いきます!」  コーヒーが苦手ということは記憶の隅に捨て置かれた。もはやこれはお砂糖いっぱいの黒い液体である。未知との遭遇といってもいい。まったくもって味の想像がつかない。  えいやっ、と斎藤はカップの中身をあおった。  間。  間。  間。  ヤガミが爆笑した。  みんな笑顔になった。 /*/  まんじゅうこわい、という落語がある。  好きなものを好きと言うのでは芸がないので、嫌いなフリして気を惹こうという実に典型的なツンデレの話である。まんじゅうに対する遠まわしな告白劇の果てに、べ、別に今だけは濃いお茶が嫌いだなんて思ってないんだからねっ、とヒロインが告白するオチがつく。 「ヤガミさんは、どんな食べ物がお好きなんですか?」  ヤガミのことに興味津々といった感じの津軽に対し、ヤガミは極めて真面目な表情で、 「女。かな」  とても真剣な目つきだった。  心情によってメガネが不自然な光の反射を起こし目が隠れる、という機能はここでも確認できない。代わりに津軽の顔がリンゴみたいに赤くなった。しつこいようだがうまいこと言ったつもりはない。  元はといえば砂糖を入れたコーヒーを飲んだ斎藤が、甘いものが好きな食べもので趣味になりそうだと言い、一方のヤガミは甘いものが大嫌いなので趣味を好きな食べものにしておいた。 「そんなおまんじゅうあるんですか?」  悪意のない興味をもって斎藤がヤガミの方にやや身を乗り出した。  その横でホーリーはなんとも言えない表情で中途半端に口を開けたまま固まっていた。  ヤガミも思わず言葉を失った。  津軽やホーリーの反応はとても予想通りだった。若干引き、あるいは妄想が育ってフリーズする。  だが斎藤の反応は予想できなかった。  よりによってまんじゅう。斜め上どころか上斜め後方だ。中国には桃まんじゅうというものがあるが、何をかたどったものであるかは明白で、女ながらに狙って言ったとすればかなりの大物に違いない。 「すまん。お前にすこしでも対抗しようとした俺が悪かった」  ヤガミの突然の謝罪に斎藤は目をぱちくりと見開き、まばたきした。 「た、対抗しようとしたんですか……」 「対抗しなくても……」  呆れた、と言わんばかりの女性陣に、まったくだ、とヤガミは苦笑いを返した。  いまいち状況が掴めぬまま、斎藤はひとり小さく小首をかしげた。 「趣味にならなくて残念です」  斎藤の呟きに、すかさずホーリーはしなくていいしなくていいよ、とフォローを入れる。  もう、ややこしいことになったじゃないですかと津軽が抗議を込めた目でヤガミを見やると、ヤガミのメガネが不自然な光の反射を起こし肝心の目元が見えなくなっていた。  そんな漫画やアニメみたいな演出がっ!? と内心つっこまずにいられなかった津軽は、同時にああ、と納得もする。  そういえばこのヤガミはアニメのヤガミだったっけ。  ぷっ、と津軽が笑うと、つられたようにみんなが笑った。      観測者による観測・了