少し、思い違いをしていたのかもしれない。  髪を下ろした彼女の姿は色気を感じさせるに十分だった。雫を散らしながら振り返る彼女の白く細いうなじに見惚れてしまう。  人はそれぞれ生きている。生きているからには前に進んで、悩んだ分だけ成長をする。  俺はただ、彼女のことを知ったつもりでいただけなのかもしれない。  /*/  初めて来る土地で自分が行きたい方向とは逆方向に進む人波に巻き込まれた場合、ヒトはとりあえず落ち着こうとする。 「手掛かりは、これだけだもんね。」  集団から弾き出されるようにして距離を取り、花陵は手元に視線を落とした。  ソウイチローが送ってきた絵はがき。  今のところ手がかりはこれしかない。絵はがきの風景を探して花陵は移動する。  ここ、紅葉国は国がひっくり返ったような騒ぎになっている。  なんでも赤い海とかいうのが迫ってきていて、それに近づくと死んでしまうらしい。  途中、何人もの逃げていく人々とすれ違った。  その誰もが花陵に向かって逃げろ、逃げろと言う。ソウイチローの情報を探す花陵に対し、生きてさえいればいつかは会えるから、今は逃げろと。  でも。  いつか会える、がいつなんて、誰にだってわからない。  自分は逢いにきたのだ、約束を果たすために。  あえて海の方へ進路を取る。ソウイチローがいることを願いながら。  海に近づくにつれて人が少なくなり、やがてまったくいなくなった。  目の前には赤い海が渦巻いている。  きっと海がとんでもなく怒ったらああなるんだろうな、と、どこか他人事で花陵は思う。想像の範囲を超えすぎた事象はリアリティに乏しく、実感を伴わない。 「わっ。」  何かに蹴躓いて転びそうになった。  慌ててバランスを立て直してなんとか踏みとどまる。海ばかり見ていて気がつかなかった。なんだもう、と、ついさっきまでの自分の不注意を棚に上げ少々恨みを込めた視線で見やると、 「ぎゃ。」  人の腕だった。  投げ出されたように伸ばされた腕の持ち主は、命までも投げ出してしまったのか事切れていた。見ただけでも体温が残っているとわかる新しい死体だった。なぜこの人が死ななければならなかったのか、ということを考えると胸が痛くなる。  花陵は手を合わせてなむなむ成仏してくださいと拝むと、人がいそうな方向――街の中心部へ走りだした。 「ソウイチロー、生きててね。」  自分に言い聞かせるように呟く。  死を身近に感じてしまった以上、強く信じていないとつらいものがある。  信じるということは強く願うこと。大丈夫、ソウイチローは生きている。必ず。  みんな避難してしまったのか、中心部へ向かっているというのにすれ違う人がまばらになってきた。  そればかりか、あちこちで倒れこんだまま動かない人の姿を見かける。それ以上のことは考えないように努めているが、足元に注意を払うようになった。また躓くのはイヤだ。  ソウイチローがいそうなところはどこだろうと考える。  安全なところにはいない気がする。いてほしいけど、ソウイチローはそういう場所にはいないのだ。なんとなく、わかる。 「大丈夫。あえる。あえる。」  言い聞かせるように呟く。  人の気配がない街というのは精神的にきつい。廃墟ならば仕方ないかな、と思える部分もあるが、いつもどおりの日常が崩れた街というのはただただ違和感を覚える。  ゴーストタウン。  ふと脳裏によぎった単語に、いや幽霊出たら困るし、と頭を振る。  頭を振ったついでに絵はがきに目を落とし、風景が一致していることに気がついた。  だが、周囲に人の気配は感じられない。 「ソウイチロー。いませんか? 会いにきました。誕生日ですものね。」  周囲に呼びかけるように言ってみる。  音のない街は声がよく通る。よく通りすぎて、誰にも聞かれることなく消えていく怖さを感じる。あるべき何らかのリアクションが返ってこない。 (1年前、約束した……。)  1年前の約束を自分は覚えている。  ソウイチローも覚えているはずで、覚えていてほしくて、だから覚えていたよということを伝えたかった。  ソウイチローならどうするだろうか。  きっと待ち合わせ場所に先乗りして周囲をうろうろ歩きまわって地理を把握して、綿密にプランを立ててから何食わぬ顔で待ち合わせ場所に戻り、俺も今来たとこだ、みたいなことを言い出すに違いない。  タバコを吸う人が待っているなら吸い殻が落ちてそうなものなのに、吸わない人が待っていると吸い殻が落ちてないからわかりにくい、と愚痴なんだか八つ当たりなんだかをしたところで、ふと、やけに人為的なスペースを見つけた。  人を待つ時、座って時間をつぶすのによさそうな石のモニュメントがある。モニュメントなので座るのは間違っているのだが、座ってくださいと言わんばかりの形状と高さなので仕方がない。  脱ぎ捨てられたジャンパーがすぐ近くに落ちていた。  見覚えがありすぎてくらくらする。世界に黄色のジャンパーの愛好家は多いかもしれないが、この南国にまで着てくる人間がそう多くいるとは思えない。  拾い上げてみると、かすかに持ち主の残滓が残っていた。  ほんの僅かであったが、間違いなく花陵が知る人物の――ソウイチローのぬくもり。  ぬくもりを辿って花陵は追跡を始める。  意識を集中させていないと見失いそうになる。頼るだとか手がかりにするだとか、そういう次元で扱うには贔屓目にも心もとない。  ドクンドクンと早鐘のように心臓が脈打ち、呼吸が整わない。  これらのコントロールは任意に行えるものではない。緊張を強いられ興奮状態に置かれる場合、変調をきたすのは自然なことだ。  だが、花陵はこうも思う。  脈が速いのは早く会いたいとドキドキしているからで、呼吸が整わないのは早く同じ空気を共有したいからなのだと。  膝から下の感覚が怪しい。本当に地面を蹴っているのか不安になってくる。  それでも前に進まなければならない。かすかに残ったぬくもりが失われる前に辿りつかなくてはならない。  身体は前に進んでいる。実感はないが、風景が流れていく。自分はかつて、こんなに早く走ったことがあっただろうか。むしろ、自分はこんなに早く走れたのか。  夢中になって走る花陵は、空気に潮の香りが混じっていることに気がつかない。  花陵はソウイチローの顔を思い浮かべている。  怒っている顔。あきれている顔。ちょっと拗ねている顔。  こういう時だというのに思い浮かぶのはそんなソウイチローの顔ばかりで泣きそうになる。  もっといい表情はないのだろうか。もっと思い出したいソウイチローの顔はあるはずなのに。  例えばそれは、  土地勘のない花陵は知らなかったが、この時彼女は港区角に差し掛かっていた。  勢いよく角を曲がって慣性の法則に翻弄され、バランスを崩し転びそうになりながらも無理矢理体勢を立て直した拍子に抱えた手からジャンパーがするりと逃げた。 「ソウイチローっ!」  花陵は思わず声に出していた。  あのジャンパーはソウイチローなのだ。いや、ソウイチローその人ではないがソウイチローなのだ。  ジャンパーを拾うために頭を振り視線を巡らせた花陵は、高速で移ろう景色の中に船と――ソウイチローを見た。  ソウイチローの驚いた顔が好きだった。  いつも冷静っぽくて計算っぽくて、でもどこか子供っぽいところが好きだった。指摘するとムキになるところが好きだった。  水。船。驚いた顔のソウイチロー。天井。ジャンパー。  ソウイチローは、花陵が思い浮かべたとおりの顔をしていたように思う。  ジャンパーを拾うべく体全体でブレーキをかけて反転しようとしていた動作を、全力で打ち消しにかかる。  思考に体がついてこない。無茶な要求に体が悲鳴を上げ、今度こそバランスを崩し地面が迫る。 「――っ、ソウイチロー……!」  声を出してどうにかなる状況ではないが、花陵はその名を呼んでいた。  口に出さずにはいられなかった。ほとんど無意識の叫びだった。  地面に手を着く。  たとえば犬は四足歩行をする。ヒトは二足歩行だが、元をたどればヒトの先祖はサルで、その先祖は四足歩行をしていたのかもしれない。あるいは花陵が着用している犬妖精のアイドレスがそれを可能にさせたのか。  花陵は手を着くとその手で地面を蹴り、体を前方へと加速させた。  バランスを保つことなら手でもできる。必要だったのは、前へと進む足だ。  花陵は加速しながら体勢を立て直すと、ソウイチロー目掛けて最短距離で突っ走った。  ソウイチローに会える。ソウイチローに会える。あの船に追いつきさえすれば――  迫る。迫る。近づく。 「ソウイチロー、ここ。ここ!」  あと少しで。ソウイチローに。 「――っ!」  だが、わずかに届かない。  船が――ソウイチローを乗せた船が遠ざかっていく。やっと見つけたソウイチローが離れていく。  水が迫る。  花陵はためらいなく水に飛び込んだ。  泳ぎが得意とか苦手とか、そういう思考は頭をよぎりすらしなかった。生きるか死ぬかに関わる事柄だけにとても大事なことであるようにも思うが、この時は捨て置かれていた。  ずっとソウイチローを探していたのだ。見つけた以上はもう、抑えが効かない。  服が水を吸って身体にまとわりついてくる。それらは水を含んで重さを増し、抵抗となり――手足に重りが付いたような感覚。  まるで、自分を海底へと引きずり込もうとする何者かがいるようだ。ひとりやふたりではない、数人がかりで花陵の手足の自由を奪っているかのよう。  脳裏に、ここへと到るまでに目撃した物言わぬ骸たちの姿が呼び起こされる。  望まずして死を付きつけられた者たち。  命あるものに嫉妬し、生を呪い、自らの不運を嘆く者たちが今まさに花陵を道連れにしようとしているというのか。  体から浮力が失われていく。  港湾部は船が出入りできるように水深が深くなっている。海底は暗く、視認することができない。あの暗い場所には海底ではなく、死者の国への入り口が開いているのではないだろうか。  花陵は自らを叱咤する。  死者の国にソウイチローはいない。いるのはあの船の上だ、あの船に追いつかなければ。  沈んではだめだ。死んではだめだ。生きなければ、生きてソウイチローに逢わなければならないのだ。  不意に、誰かに頑張れと背中を押された気がした。まだやれる、諦めるな、がんばれがんばれ。  声が聞こえるたびに手足の重りが軽くなる。  ――そう、あんたはまだ生きてるんだから。  どこからか聞こえてきた気がする声に反応するように顔を上げると、遠ざかっていく船の姿が見えた。息継ぎも問題なくできる。これならいける。やれる。  花陵は自分でもよくわからないまま夢中で泳いだ。  実感として船に近付いているのがわかる。 「こっちだ、手を伸ばせ!」  ソウイチローが船縁に身を乗り出して手を伸ばしている。  花陵はただ、ソウイチローを目指して懸命に手を伸ばす。  ソウイチローに手を掴まれた瞬間、安堵からか花陵は身体に力が入らなくなった。 「おい待て、安心するのはまだ……っ!」  沈みそうになる花陵をソウイチローはかろうじて捕まえた。  安堵の吐息が漏れる。  /*/ 「誕生日、おめでと。」  引き上げられた花陵が発した第一声に、ソウイチローはなんとも言えない表情になった。 「お前は……」  驚きとあきれと、ある種の諦めが混じったような複雑な表情でソウイチローは言葉を失う。  花陵は今、直視するのがためらわれる姿だった。  いつもアップにしている髪は下ろされている。北国人の花陵だが南国に来たからには薄着で、薄手の布地は水を吸って肌に貼りつくようで、だからというわけではないが下着が透けており――ソウイチローはそこで思考を打ち切った。想像してしまった自分がなんだかひどくガキっぽい気がする。 「……いや、すまない。ありがとう」 「変なソウイチロー。」  くすりと笑うと花陵は後方――港があった方角を振り返る。  岸が小さく見えるほど遠い。船は結構な速さで進んでいるということを、今更ながらに思い知る。  こんなに泳げるとは自分でも思っていなかった。  不思議な力に後押しされた気がするものの、今になって思えば気のせいだったような気もする。全力で走った勢いのまま海に飛び込んだせいで、身体の感覚が狂っただけなのかもしれない。  水に入って冷えたからなのか、今頃になって恐怖を感じているのか身体の震えが止まらない。奥歯のあたりがガタガタと小さな音を立てているようにも思う。 「あいたかった。」  唇を紫に染めながら、花陵はソウイチローの顔を見上げた。  ぐす、という嗚咽が交じる。 「あえてよかった。」  目を赤くして呟く花陵に対し、ソウイチローはどう声を掛けるべきか考え――  ぽふ、と花陵の頭にタオルを被せてやると、言葉の代わりに頭をやさしく撫で続けた。