燃えるような瞳、という比喩がある。  もちろん目に炎が宿るわけはなく、さりとて瞳の色が赤く変わったりするわけでもないのだが、目の光とでもいうべきモノの力強さを詩的に表す言葉である。  少女の瞳は輝いている。  ドライな輝きではない。うっすらと潤みを帯びたそれは、彼女の感情の昂ぶりを示しているようにも思えた。  あえて表現するならば、学生が試験問題を目にした瞬間に見せる、解けるだろうかという自信のなさからくる逡巡と、自分の力を試せるというワクワクを混在させた表情にも見える。  あるいはそれは、思春期特有の恋焦がれる眼差しとも取れた。  不安定で不確定なエネルギーを秘めたベクトル。恋をしている本人ですら、自らが相手の何に対して心を寄せているのか無自覚なままでいる。危ういバランスで成り立っている、大人になるといつの間にか失ってしまう――どこか懐かしさを呼び起こすもの。  それは無防備な姿であり、取り繕っていない素のままの彼女の姿。  それゆえに情報として強烈で、印象としては鮮烈だった。冷静沈着を言い聞かせているのが伝わってくる彼女の身の振り方。対して、歳相応のあどけなさを感じさせる今この瞬間。  ギャップは人の心を鷲掴みにする。  気付かなければどうということはない。気付けなければ心動かされない。感情は外部刺激の入力によって動かされる。入力を感じなければ感情は揺さぶられない。  だが、ひとたび気付いてしまえばどうしようもない。気付いたなら抗えない。外部刺激に反応を示すのは自然なことだ、感情が揺さぶられるのは二次的なものにすぎない。  ファーストインプレッションにおいて、心を撃ちぬかれる者は意外と多い。  自覚できるか無自覚であるかは人それぞれという、ただそれだけのことだ。  ヒトは他人をカタチで認識する。  ヒトが持つパーソナリティを、形状ではないが単純な二元論ではない何かに置き換えて把握する。  認識するということは認めるということだ。  無意識であれ、認めるということだ。  青年は恋をした。  自分の年の半分にも満たないその少女の眼差しに。 「行きましょうか」 「はい、いきましょう。八重咲さんについて知りたいですしね」  自分自身すらもその感情に気付かぬまま、彼は少女の手を取った。  少女はまっすぐな眼差しで、彼に手を差し出した。  彼と少女との出会いは、ある種の運命だったのかもしれない。 * * *  その日、戯言屋は好物の炒飯を前にテカテカと期待を募らせていた。  彼の前には中華料理店でよく見る六角形だか八角形だかを象ったような皿が置かれ、その上にはこんもりと半球状の黄金炒飯が湯気を立てて鎮座ましましている。炒飯は極めてベーシックな玉子炒飯であり、米のひと粒ひと粒にまで逃さず卵をコーティングされた中に散りばめられたネギのコントラストが美しい。  戯言屋はゴクリ、と喉を鳴らすとレンゲを右手に、白飯の入った茶碗を左手に持ち、チャーハンをおかずにご飯を食べるという離れ業を実行し始めた。  口に入れてまず広がるのはネギ油の香味。  次いで、パラパラとよくほぐれるが水分を失っておらずしっとりとした食感の米粒と、その本来の甘さを引き立てる塩味だけのシンプルな味付け、そこに卵のコクと口当たりの柔らかさが加わり全体にまろやかさと一体感を形成し、仕上げにわずかに加えられた醤油の香ばしさが鼻腔を抜けていく。  うまい。なんとうまいことよ。  戯言屋は心の中で泣いていた。ブラボーブラボー、彼の心は割れんばかりの賞賛の嵐で満たされている。  この男は通であった。むしろフリークと言ってもいい。  うなぎ屋の煙で飯を食う落語のように、戯言屋は己の口内に残る余韻を白飯でさらに楽しむ。そればかりか既に完成されたというべき領域へ果敢にも踏み込み、炒飯と白飯がベストマッチする奇跡とも言うべきラインを探ろうとさえしている。  見事な光景だ。  炒飯の山と白飯の山が見る間に減っていく。もはや戯言屋は飯を食う機械だ、機械に感情は必要ない。よって味の感想も漏らさない。一心不乱に、無言のまま食べ進める。よほどうまいに違いない。それは一定規則で音を奏でるレンゲの動きを見ればわかる。  蹂躙は短時間のうちに行われ、圧倒的な速度で完了された。  もはや皿には一粒の米も、ネギの一片すらも残されておらぬ。かつてそこに黄金色の半球が鎮座していたこと、また隣でつるりとした白磁の肌をのぞかせている茶碗が、絹のような真白の山を抱えていたことなど窺い知ることはできない。  完食とは、かように清々しいものである。  腹が膨れれば気持ちに余裕が出る。  さて、と気合を入れるためか一言呟き、戯言屋は用意してきたファイルに目を落とした。  表紙代わりに挟まれているのは写真だ。こちらに向かって数人の男女がお揃いの服装でにこやかにピースを寄越している。げげえいまどきペアルック、というわけではなく、どこかの学校の制服なのだろう。年齢にバラつきがあるのが気になるが、全日制ではなく定時制なのかもしれない。  戯言屋は写真の彼あるいは彼女らをよく知っていたが、あまり気に止める様子はなかった。彼がなぜこのようなリアクションを見せたのかは未だに謎であるが、ひとつの可能性として彼あるいは彼女らは銀髪であるという点を指摘しておきたい。  戯言屋にはかつてまだ犬猫がいがみ合っていた時期において、己の信念に殉ずるため犬の国を出た男を猫に属する自らの国に引き入れた過去がある。その彼は熱い男であり、どこかくたびれた印象を受ける戯言屋とはタイプが異なるように思えるのだが、当人ら曰くウマが合ったとのことらしい。  黒髪乙女を愛し隊。  区別と差別は違うんです、個人の好みと趣向は誰にも縛られることはないのです、2位じゃダメなんですか。と言ったかどうかまでは定かでないが、彼と戯言屋が意気投合したのはどうやら黒髪乙女が好きだからということらしい。  だからというわけではないが、写真を見つめる戯言屋の視線は自然と黒髪に引き寄せられている。  猫と言うにはいささかオーバーキャットな猫ではなく、人に見られることに慣れている様子から育ちの良さを感じさせる金髪縦ロール少女ではなく、眼鏡をかけた茶髪おさげの少女ではなく、黒すぎて青く見える気がする髪色の中性的な青年でもない。    戯言屋の視線は、表情が固くついでに目付きも悪いような、ちょっと不機嫌そうに見えるような気がしなくもない少女と、春の木漏れ日の中で柔らかく微笑んでいるような印象を受ける少女の間を行ったり来たりしている。    前者は芝村舞という少女。戯言屋は彼女のことを大きな声では言えないが人並み以上に知っているつもりであり、言わばアイドルの熱心な追っかけファンのような、一歩間違えばストーカーのような存在と定義されかねないほどの個人情報を掴んでいる、と、彼自身は思っている。かもしれない。  そんな芝村舞にちらちらちらちらと視線を送りつつ、戯言屋はもうひとりの少女を頭の上から足の先までじろじろじろじろと舐めるように見ていた。まるで警察の鑑識のように、わずかな情報でも見逃すまいとするかのような執念深い目付きだった。  もしや本物か。本物なのか。戯言屋は本物の黒髪フリークであり、あまつさえ少女マニアだったりするのであろうか!  だとすれば想像するに寒気のあまり毛先がちりちりとする光景である。スクープどころの騒ぎではない、きゃーおまわりさんここに巷で大人気のフィーブル藩国摂政戯言屋がいますよ! 「わからぬ……」  何がわからぬというのか戯言屋、鼻息荒くハアハアとカメラには映し難い痴態極まるその表情を浮かべる作業に戻るんだ、と、社会的セクシャルマイノリティのお兄さんお姉さん方が勝手に応援を始めたもよう。  いいぞもっとやれ! びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア!  外野の盛り上がりを知ってか知らずか、戯言屋は深刻ではないが悩みが深そうな長いため息を吐き、ファイルの中身をカウンターテーブルに広げた。  脇には彼が先ほど食べた、炒飯と白飯セットのあとかたが置かれている。決して広くはない店内に置かれているのは決して広くはないカウンターテーブルで、つまりファイルの中身というのはその程度の量ということだ。  明日、戯言屋はこの少女と会う手はずになっていた。彼は用心深い性分であるため、手ぶらの丸腰で初対面の相手と会おうなどという気はさらさらない。さりとて武装するというわけではなく、彼は予習という形式で相手のことについて知っておこうと思っていた。  しかし、肝心の情報は皆無に等しい。  この状況でやれることといえば、素数を数えるか今まで食べたパンの枚数を数えるか、脳内にある数学課題フォルダを閲覧して悦に浸るか資料を眺めるしかない。  戯言屋はひとまず思考を打ち切り、勘定を済ませて店を出ることにした。あとはプライベートがより保証されるスペースで考えよう、そうだ知らないことを逆手にとってインタビューにしてみるのがいいかもしれない。  特に光源が移動したわけでもないのにメガネが光る。口元に笑みを浮かべつつ、懐から取り出したるベーシックな黒財布から紙幣を支払う戯言屋。多分に面白い光景だったが、残念ながら目撃者は無口なことで有名なこの店のマスターしかいなかった。  ごちそうさま、また来ます。  シャランランと鳴ったドア備え付けの鈴の音と共に、戯言屋は街角の喫茶店をあとにした。 * * *  そんなこんなで生活ゲーム当日。  とうの昔に終えたはずの学校生活に懐かしさを感じながらも、諸般の事情がありちょっぴり浮き足立っている戯言屋。お約束通り頭が少々ぐるぐるしているが、幸いにもクラスメイトに不審がられることなく昼休みまでたどり着いた。  昼休みになってすることといえばひとつである。一刻も早く黒髪少女こと八重咲桜子とのめぐりあいを果たし、人が人と出会って第一印象を形成する2分30秒の間にいかに自分が無害で安全安心な人間であるかを売り込むのだ。  戯言屋は教室を見渡した。  八重咲桜子の姿は見えない。 「八重咲桜子さんって、どこにいるか分かりますか?」 「知らないー」  聞き込みも空振りに終わる。意表をつく展開にあれー、と言葉を漏らす戯言屋。 「綺麗な黒い髪の、小学生くらいの可愛い女の子なんだけど。どう?」 「ひょっとしたら、小学校じゃない?」  小学生くらいの子なら小学校じゃない?  クラスメイトの至極まっとうな指摘に、なるほどと膝を打つ戯言屋。パンがなければケーキを食べればよかった。過去の教訓は人類に賢さを授けてくれる。  礼もそこそこに足取り軽く小学校へと向かった戯言屋。  年甲斐もなくスキップなんかしちゃったりして、足がもつれて派手に転んじゃったりなんかして、メガネが空を飛び、ころころころりんと小さな穴に入り込み、穴の中からなにやら愉快な歌声が――  そんな日本のトラディショナルなアクシデントは一切なかったが、事前に考えていたプラン通り、間違っても不審者にならないように学校関係者へ先に話を通すことにする。  戯言屋、石橋は叩いておくタイプだ。  たとえ叩きすぎて石橋が落ちてしまったとしても、渡らなくてよかった危なかったと諦めればよいだけのことである。  人を待つだけの時間は長く感じる。そわそわしながらも、表情や仕草には出さずに我慢しなければならない。よく考えなくても小学校で生徒を呼び出してそわそわする大人というのは生き別れの兄でもなければ社会の敵だ。  最近は通報が趣味という一部の紳士の天敵とも言える女児がいるとも聞き、油断は禁物である。  間違いでも勘違いでも合言葉はわんわんおー、という事態はごめん被りたい。  手持ち無沙汰で校庭に視線を投げると、元気があり余っていそうな少年たちがサッカーに興じていた。 「ひとり抜きふたり抜きー、からのっ」  ボールを自在に操っているのは集団の中でもひときわ目立つ少年。体格的には他の少年たちと比べて眼を引くところはないが、素人目にも身体能力の高さは圧倒的で、ボディバランスやボールコンタクトの技術も申し分ないように思える。 「マルセイユルーレット、からのっ」  かつて天才と呼ばれ一時代を築いた名選手の代名詞を完全に再現してみせる。プレーの技術、動きのキレ共に、もはや小学生の域ではないように思えるが、周りにいるのも中心にいるのも確かに小学生だ。  3人目を抜き去ると、足首を柔らかく使いボールを跳ね上げる。少年の体が強靭な針金を思わせるようにしなり、ボールを追従するように空中へ。 「シューーッ!」  しなり、たわんだ状態から解放された筋肉が躍動する。足だけではなく全身の各所を余すところなく用いたムーヴ。  ふわりと宙に浮いたボールは刹那の無重力体験の後、重力加速度による落下軌道からの進路変更を余儀なくされる。今この瞬間、ボールは1発の弾丸として撃ち出された。  全く反応できないキーパー。揺れるネット。惚れ惚れするようなボレーシュート。 「すっげー」 「さっすがー」  周囲の賞賛と羨望の眼差しを受け、控えめにポーズを取る少年。照れくさそうだが嬉しさが優っているような、そんな表情。 「すごいですね」 「ええ、すごいですね」  うんうん頷く戯言屋。  ここは拍手のひとつでも贈るべきか、と考えたところではて、と。 「こんにちは。お元気ですか?」  黒髪の少女が立っている。小学生にしては背が高く、スラリと伸びた手足はまるでモデルのよう。 「あ、八重咲さん。すみません。いきなり呼びつけてしまって。はじめまして、戯言屋という者です」  笑顔は敵対の意思がないことを示す手段としてはとても優秀であるという。戯言屋が笑顔を作ると、少女――八重咲桜子も相好を崩した。 「藩王さまからはうかがってますわ。はじめまして」  初対面、しかも年長者を相手にしても物怖じしない態度を示す桜子。 「そうでしたか。実はですね、少し八重咲さんにお願いがありまして。少し時間のほう、大丈夫ですか?」  初対面であるとはいえ、ちょっと姿勢が低すぎないかと思わなくもない戯言屋。 「はい。給食は今しがた終わりましたから、そこのベンチにでも」  桜子はポケットからハンカチを取り出すとベンチの上に広げ、その上に腰をおろした。戯言屋はその様子を少し不思議そうな表情で見届けると、遠すぎず近すぎずの位置に腰をおろす。 「すいません、気にしすぎかもしれないですけど制服って慣れてなくて」 「ああいえ、なるほど」 「それで、なんでしょう?」  こほん、と小さく咳払いをすると戯言屋は桜子の目を見つめ、 「実はですね。今度、うちの藩国で八重咲さんの特集をやろうと思いまして」  あなたの特集をやろうと思いまして。  想定を軽く飛び越えた提案に、桜子は満足なリアクションを取れず小首を傾げるに留まった。今からあなたのことをストーキングします、という宣言とも取れるだけに言葉を失うのも無理からぬ話ではある。 「ああ、つまり、八重咲さんがどんな人なのか、いろいろ教えて欲しいということですよ。インタビューとか、よろしいでしょうか?」  沈黙は、あるいは雄弁に気まずさを伝えるものであるらしい。旗色が悪いと見たのか、戯言屋はやや早口に弁解を試みる。 「はい。それでしたら。あ、でもキャラクターとプレイヤーは別ですよ?」  どうやら犯罪の匂いはしなさそうだが、戯言屋の真意は計りかねる。桜子は念のために安全ラインを引いておくことにする。 「ははは、それはもう。で、まず質問なんですが……八重咲さんって、正義の味方ですか?」  セイギノミカタ。  戯言屋は桜子に、誰の、ではなくただ正義の味方であるかどうかを問うている。 「うーん。私、女の子ですから」  桜子は、自分が為してきたことを顧みた。自分が正義であったことはもしかするとあったかもしれないが、正義に味方をしていたかというと微妙だ。  正義は目に見えない。そこにあるものでもなければ触れられるものでもない。 「好きな人が、正義じゃなかったら、それはもう、悪の味方になります」  桜子は目に見えないものを信用するほど信心深くはなく、目に見えないものを見えないからと言って蔑ろにするほど信仰深くはない。何のために何を為すかということよりも、誰のために何を為すかを考えるタイプだ。 「なるほどなるほど……で、今はどちらでもない、ですか?」  戯言屋の問に対し、桜子は肯定する代わりに、少し照れた。  ラブとライクは違うのだ、ということがわかるようになるにはもう少し成長を待たねばなるまい。彼女が好きな人間は共にいて心地がいいと思う人間であり、それが正義の項で彼女が触れた誰の、につながるものだ。  桜子にとって、何かを為すことそのものが正義ではなく、誰のために何を為すかが重要なのだ。仮に誰のためにの誰が正義の人であったとするのならば、彼女は正義の味方にもなるだろう。 「七海ちゃんは、気紛れだし」  手を取り合う相手が気まぐれである場合、立ち位置はニュートラルだ。いずれは文字通りニュートラルに固定されるが、その域へ至っていない限り、振れ幅が大きいのがニュートラルの特徴といえる。 「ふむふむ。うーん、じゃあ難しいかな……。実はですね。正義の味方さんなら、少しばかりお願いをしようと思ってたんですよ」  頭をポリポリと掻いて、戯言屋は目を伏せる。  ちょっとずるい。続きが気になる小出し感。 「何を、ですか」 「まあ、いきなりな話で本当にあれなんですけどね。えーと……」  戯言屋が語ったのは、かいつまんでしまえば人助けという話だった。パーフェクトワールドへ人助けに行ったはいいが二次遭難が発生し、両者の救出のため桜子に手を貸して欲しいという内容。 「まあ。神聖同盟みたいなことを言うのね」  小さく笑う桜子。  桜子が幾度となく相手にしてきたセプテントリオンならば、帰りの手段を考えずに帰還前提の突撃をするなどということは考えられない。セプテントリオンが行う突撃は最初から切り捨てる前提で行われるもので、余計な手間をかけない分スマートだ。  困難が予想されるミッションならば相応の準備が必要だ、身の程を知らずに飛び込むだけならば思考力のない木偶でもできる。身の程を知らずに飛び込み、自らが要救助者になるということは人の手を煩わせ、心配をかける。そういう意味では木偶以下だ、もし木偶ならば切り捨てれば済むが人間ではそうはいかない。  そうはいかないことを平然と行うのがセプテントリオンであり、木偶以下のことをしでかすのが神聖同盟だ。彼らのやり方では1で済む手間が2にも3にもなり、非効率的この上ない。  非効率的であるが故に、数式では導き出せない不確定さがある。数式ならば式が成立した時点で――仕掛けを終えた時点で、結果は見なくてもわかる。結果が決まっているがゆえの数式だ、毎回結果が変わるようでは式として成り立っていない。  不確定要素は難易度を跳ね上げる。  そして、難易度が高ければ高いほど挑戦したくなるのがゲーマーの性だ。勝算すら見通さず突撃するような非効率的手法を用いる勢力があるとするならば、それに味方する分には退屈はしない。  退屈しないという点で、ゲーマーがやることは決まっている。 「座標はわかりますか?」 「座標、ですか?  少し分からないですね。泉のゲートというのがあったらしいのですが、無くなってしまったらしいですし」 「難しいですね……」  座標直打ちという最もスマートで味気ない手法による最短距離は辿れない。  救助というからには時間との勝負であるはずで、最も原始的かつ確実なトライアンドエラーによる手法も使えない。 「魔法で作られたゲートらしいです。泉の中に落ちているコインで開いていた、というようなことは聞いたんですが」 「ゲートがあるということは一定距離内だとは思いますけど、それだけでは・・・」 「ああ、そうそう。帰ってくるのに400年かかるとか、聞いたような?」 「400光年先か……ベクトルが分からないのが困りましたね」  桜子は世界同士の距離を考える。400年ならば単純に400光年。 「なんか、世界が一周するまで戻れない、とかも聞きましたね」 「楕円軌道の世界……離れつつあるとして、最接近距離はもっと短い・・・」  ひとくちに400年と言っても、事情により様々だ。物理的距離が理由で400年の場合、400光年の距離があるということになる。世界はそれぞれ違った軌道の螺旋を描いており、加えてそれぞれの世界の速度は異なる。ゲートが生じる地点を最接近距離として、そこから離れていくモデルを思い浮かべる。  だが、400光年という距離は螺旋を描く世界にとって不自然だ。それだけの距離が仮にあるとするならば、一方はもはや螺旋軌道の外にあると考えたほうが自然である。 「それ、どういう理由で400年掛かるか、わかりますか? 大事なことなんです」  単純に距離が理由で400年は考えにくい。正解へと至る可能性が少ない以上、持論にこだわらず思考を他の可能性に割くべきだ。  桜子の願いに応え、当該事案のレポートを呼び出して情報を抜き出していく戯言屋。  全容が掴めていない段階で使える情報と使えない情報を個人の主観でより分ける行為は致命的なミスリードを招く恐れがあるが、時間リソースに制限が掛かっている以上、ある程度条件を絞った抽出になるのは仕方がない。 「時間がかかる理由が、例えばゲートがとじているせいだとか、であれば、実は凄く近い可能性もあります」 「ああ、その泉のゲートなら今は閉じてます」 「いいえ。移動する前に400年かかるといっていたから、今閉じるは関係ない……」  ゲートの開閉により400年の時間がかかる場合。  あくまで可能性のひとつに過ぎなかったが、桜子は気持ちが昂ぶるのを感じた。捉えたという手応えがある。  それとは別に、理性以外のものが何をかを囁いている感覚。 「情報が足りてませんね。今ここで、判断するのは危険です」  悪魔は縋るものを見つけた瞬間に現れる。  ヒトが切羽詰まった時ほど、彼らは現れ耳元でそっと甘言を囁くのだ。悪魔の誘いは敗北へとつながるものだ、勝利したいのなら彼らの声に耳を貸してはならない。 「情報が公開されているなら、情報を公開することが出来るだけの反射があったということです。誰かが情報を受け取ったということです」  桜子は悪魔の誘いに乗らぬよう、理詰めという名の剣をとる。敗北主義の悪魔を調伏するための、強い意思を象った剣。 「ああ、そういえば宰相府が動いてる、というような情報もありましたね。そういえば」 「情報を受け取ったのは誰かしら、本人達以外で、泉にいて、何かした人たちがいるはずです。調べて、くれませんか?」  レポートを読み返す戯言屋。  現場に立ち会っていたのは6人。もしかすると確認漏れがあるかもしれないが、それは今重要なことではない。 「その人たちは、何かしましたか?」 「函の中の戦士ゲームで、泉のコインを操作しましたと思います。で、封印し直した、かな」  コインとゲートは連動していたようだ。魔法を使った回路になっていて、コインは連結と切断のスイッチの役割を果たしていたのだろう。 「封印しなおしたら、ゲートはとじて、閉じ込められます」  桜子は考える。  繋がりが切れればそのゲートを使った移動はできない。どことも繋がりがなければどこへも行けない。 「あっちに二人が移動してから、封印した、は関係ないか……」 「それか」  戯言屋の呟きに対し、桜子はハッとした表情を見せた。 「それですわ。一度封印をといて、また封印した。その間に二人は通り抜ける。距離は短い。でも楕円軌道で離れていくんだ」  己の内に潜む敗北主義の悪魔をねじ伏せた瞬間。  桜子のやや紅潮した頬には艶やかな黒い髪が数条かかり、さらりと揺れ、視線は揺るぎなく一点を見据え、そして射抜いた。 * * * 「七海ちゃんとポイポイダーを集めてください。夜明けの船も」  少女は艦長帽を手に取るとくるりと弄び、慣れた仕草でかぶる。  これより先は小学生が踏み入る領域ではない。ここにいるのは小学生ではなく、戦場に立つ女王のように豪胆で、大人というには幼すぎるだけの女傑だ。  かくして、少女と青年の物語は胎動を始めた。  誰も知らない。経験したことのない。これは唯一、ふたりの間で紡がれる物語だ。