「髪触るの好きなの?」とか。そういうはなし。 /*/  優斗クン、と名前を呼ばれてドキリと心臓が跳ねた。  でもそれじゃあまりに情けないのでなんとか平静に振る舞いつつ、 「こんにちは。お久しぶりです」  という言葉を紡ぐのに、少し神経を使った。  僕――銀内優斗は、言葉にするには難しいなんだかいろいろなものと戦っている。  たとえばこの状況。ここ鍋の国はなぜだか今日は曇天で、見上げた空から視線を落とせば見覚えがありすぎる青いマフラーを巻いた女性がやっほーといわんばかりに手を振っていて、その女性は銀内ユウという名前で、僕の大切な人で彼女で、  その彼女は少しの間窺うようにこちらを見て、  すすすっ、と。  あれ人付き合いの適正な距離とかはどうしたんですか、なんて冗談を言う暇もなく触れ合う距離に寄ってくる。  腕にほにょんと柔らかいものが当たって、何がとはいわないが押し付けられて形が変わる感触と体温が伝わってきて、なんだか深く考えてはいけないような気分にさせられ、 「ひんやりしてなくてすみません」  つい脈絡のないことを口にしてしまう。  案の定言葉の意味は伝わらず、彼女は些細な誤解をして思考の迷宮にはまりそうになっており、  僕はごまかすように笑顔を作る。  つられて彼女も笑顔で返す。  にこにこ。えへへ。  困ったときはこれで意思疎通する間柄というのは、喜ぶべきか悲しむべきなのか。ちょっと子どもっぽいというか、もう少し大人な関係になってもいいかな、  ……なんて思ってみたり。  そんな心境を知ってか知らずか、彼女がまず聞いてきたことは操縦訓練の進捗状況についてだった。  元々、航空機にあまり興味はなかっただろうと思う。だから僕に話を合わせるために色々調べたんだろう。ところどころ話が噛み合わないところも微笑ましくて、なにより彼女は僕のことを自分のことのように喜んでくれる。  以前、空でも相棒になれるようにしたいね、と言ったのは彼女で、はいと答えたのは僕で、つまりはこれが二人の夢というか。  そんなカンジで互いの近況を報告し合いつつ。  ふと。  和らいだ空気の中で、さっきまでとは違った彼女の眼差しに気づく。  表情は不思議そうな感じなのだけど目は真剣というか、きっと演技なんだろうなアンバランスさがちょっと面白いやと思ったけど口にすると本当に嫌われそうなのでやめておいて、 「どうしたんですか」  を口にする前に先を越された。  彼女が切り出したのは前に逢ったときに彼女のことをロンじゃなくてユウって呼んでみたことについてで、彼女はそれが相当に気になっていたらしく――  だから咄嗟に、 「あ、いえ。あれはいいんですよ。呼び方かえようかなとおもったけど、やめました」  自分でもごまかし方が下手だとは思う。  いいはずがない。でも呼び方を変えてみた理由は全然大したことじゃなくて、ほんの思いつきというかついその場のノリというかつまり、  それだけに彼女のリアクションの大きさが予想外だった。  引っ込みがつかなくなって、自分が彼女を試したような後味の悪さが胸に残っただけ。  嫌われたくない。  だから、あんまり追求してほしくない。  ……。  …………。  彼女が僕の表情を伺っていたような気がする。  ほむ、と一拍おいて彼女は違う話題を切り出し――  妙な緊張から解放されほっとして油断したのもつかの間、  ――PLACEって知ってる?  気を抜く暇がなかった。  感情が乱れそうになるのを抑え、あくまで平静を装う。 「まあ、第七世界人がそうよんでるものは」  彼女は彼女なりに色々と考えていて、僕は僕なりに色々考えている。  人間それぞれ違って当然なので、すれ違いが起きたりもする。互いが互いを思えば思うほど心配事は尽きなくて、ましてや会えない時間が不安を増大させる。これはそういう問題で、 「今は戦力外ですよ。腕がちゃんと動かないんだから」  危ないことしないでね、と言われている気がしたのでそう答えておく。  彼女はびっくりしたように目を丸く見開いて、 「今は生身の手なんです。ほら。暖かい」  なんだか今にも「もしもし消防ですかいえ救急です大変なんです今すぐ来て下さい優斗クンの手が手がー」とか通報されそうだったので、  というのはもちろん嘘で、彼女があれ銀の腕なのに動かないってどういうことまさか失くしちゃった? なんて顔をしてたので何気なしにカミングアウトしてみた。  僕はひどい人間だと思う。  彼女の表情の変わりようったらなかった。鳩が豆鉄砲を食ったような、えっていう呆気に取られたのとあれれってちょっと混乱してるのと、なんだかちょっと自己嫌悪しちゃっているようなのと、  あとは、 「ええ。僕は幸い、クローン適応できてたみたいで」  ちょっと拗ねたような表情と、あなたの気持ちが聞きたいなっていう、痛いくらい真剣な表情。  彼女はきっと僕が誰かに言われてこうしたと思っていないし、僕は彼女のため以外にこうするつもりはなかったので、自分の意志だといえばイエスになる。  イエスになるのだけれど、でも本当は、 (一緒に飛ぶという二人の夢を叶えるためです)  それを口にするのが照れくさくなって僕は口に出せずにいて、  彼女は彼女でなぜだか笑顔になり、  にこにこ。えへへ。  結局言いたかったことは伝わっていないように感じたけど、それでもいいや、と彼女の笑顔を見て思う。  だから彼女が再びPLACEの話を持ち出してきても僕は心を乱さずにいられて、むしろ一生懸命な彼女をとてもかわいく思うほどの心持ちで。  なんとなく手持ち無沙汰になって触れた彼女の髪はふわりとしていて、  彼女は照れたように僕の目を見つめてきて、 「僕は別に・・・役立つとかで話したくないです」  自分でもうまく伝えられないな、と思う。  こういう時によくまわる舌が欲しくなる。あえて誰とは言わないけれど、友人だと思っていたい人のうちのひとりくらいの弁が立てばいいのに。  一緒にいられるっていう安心が欲しい、という彼女の言葉がちくりと胸に刺さる。PLACEの取得がその安心に一役買うのなら、大きく反対する理由もないかな、とは思う。  彼女は僕と一緒にいたいから家を買おうと思って貯金しているらしく、そりゃまた地味でしっかりした趣味ですねと近況を報告し合った時に言ったのは自分で、 「・・・んー。じゃあ、いいですよ」  しまったこれじゃ渋々みたいじゃないですか。  誰に言い訳するでもなく心の中で呟き、みるみる不安が広がっていく彼女の顔を視界に捉えながら言葉を探し、 「いえ、そっくりさんなんで、なんか変な気分かも」  これはかなり説得力があったらしい。  彼女はそっかぁ、うーんと神妙な顔つきで考えこんでしまった。 「まあ、それくらいですけどね」  そんなに深く考えこまないでくださいよ、とでも続ければよかったのだろうか。  うん、まあもうちょっと考えてみると言って彼女は視線を落としてふぅ、と一息つき、  次に顔を上げた時にはモードチェンジしていて、  女の子の表情を解説できるほど場数を踏んだつもりは決してないのだけれど、いくら鈍い僕でもこういう変化はわかるというか。  気付いたら彼女は僕の胸に飛び込んでくるような感じになっていて、ああいや決して映画みたいに大胆な感じではなく身長の加減でですね、  またもやどこかの誰かに言い訳するのもそこそこに抱きとめる。  こういう素直な感情表現ができるところが彼女のいいところだと思う。  心底うらやましい。真似する勇気はまだ僕にはないけれど。  すぐ近くに彼女の体温を感じる。心の中まで暖かくなっていくような気分。  意識してしまうともっと欲しくなる。抱き寄せるように触れた彼女の髪はやはりふわりとしていて、撫でるたびに彼女の匂いが広がっていく。  彼女はクスクス笑いながら優斗クンって髪触るの好きだよね、なんて壊滅的な感想を漏らし、 「いやほら、なんかほかの触ったらいやらしそうじゃないですか」  僕も負けじと笑顔で軽口を返しつつ。  聞こえてしまった野外だしナントカ、という彼女の意地の悪い冗談は軽くスルーしておくことにする。 「いつかはすみません」  思わず漏れてしまった僕の言葉に彼女はえっ、という呟きを漏らしたかと思うとハッとしたように顔を上げ、  僕はそんな彼女の唇を塞ぐように軽くキスをした。  彼女はずるいと思ったのか一瞬不満そうな表情をしたけどすぐにそれもどこかへいって、 僕は僕で彼女より身長が高いという数少ない長所を有効活用して勝った気分になる。 「さて」 「今日は、どんなようなんですか?」  ひとまず高度差で主導権を握った僕は余裕たっぷりに彼女に質問を投げかける。今ならどんな質問にも笑って答えられるという確信めいたものがあった。  彼女はそんな僕の余裕をいとも簡単に「どんな……って会いに来た、抱きつきに来た……そんなところ?」という一言で粉砕して、  こういう時に背が高いのは不利だ。こう、まじまじと下から見上げるように表情の変化を観察されるし、なにより上には逃げ場がない。アドバンテージはディスアドバンテージへとひっくり返り、僕をよろけさせるに十分な効力を持つ。  なのにどうしたの、って。いやそういうところがこの人のすごいところだと思うんだけど、言ってて恥ずかしくないですかほんと、って、 「いえ。単純によほど重要なことかなあと」  鏡がなくてよかった。今自分の顔を見たら情けなさで死にたくなったかもしれない。  彼女はしてやったりとおとぎ話に出てくる善い魔法使いのような笑みを浮かべ、いいですか今からあなたに魔法をかけますと言わんばかりに一拍置き、  ――単純に会える機会があって会いに来ただけだよ?  本当に魔法をかけられた。  いやでもそうすると僕がそのおとぎ話の主人公になってしまうわけで、そうすると彼女はあぶれて魔法使いのポジションに落ち着いてしまうことになり、 「今度からそう思うことにします」  それは寂しいので彼女にも魔法をかけることにする。  魔法の行使には正しい手順を踏むことが肝要だ。すっかり油断しきって「うん、思ってください」なんてふやけた笑顔を見せている彼女の体を抱きしめる。求めに応えるように回された腕から互いの存在を確かめるような意思を感じつつ、  なんか久しぶりだ、と体を預けてくる彼女の無防備さに感謝をし、 「ロンさん、こう言うときはかわいいなあ」  なけなしの勇気を振り絞って魔法をかけてみる。  ほら、僕にだって使えた。見る間に彼女の顔は赤くなり、わかり易すぎるくらいに取り乱している。  今度は僕が見て楽しむ番だ。  彼女はしどろもどろに僕がいつも思っていたようなことを呟くと、へなへなと力なく寄りかかってきた。  彼女の顔からぼふっ、っと湯気が出る音が聞こえたような。気のせいだろうか。  よく頑張りました、と言いたい衝動をこらえて彼女を抱き寄せ、髪に触れる。彼女の息遣い、上下する胸の鼓動、やけどしそうなほどの体温、それらのすべてが愛しく思える。  だから、 「好きです」  これを切り出すタイミングはイチかバチかの賭けだった。  まだ魔法がかかっているうちに、勇気が残っているうちに言おうと思っていた。彼女の言葉が途切れた一瞬に滑り込ませた、僕の素直な感情表現。  顔を上げた彼女はさっきよりも赤い顔で、しどろもどろを通り越して挙動不審になりながらも唇はうん、好きだよという言葉を紡ぎ、  僕と彼女以外の全てがひどくスローモーションに感じられる。  彼女の瞳はきれいな橙色。雨が降ったように濡れていて、唇は言葉の代わりに吐息を漏らしながら行き先を探るようにかすかに震えており、  懸命につま先立ちする彼女はとてもかわいかった。  彼女は僕の胸に顔を埋めていると落ち着くらしい。  いつの間にか髪の毛を触っていても何も言われなくなっていた。  あれ。これはこれでちょっと寂しいかも……?  とりあえず。  今日のことはこの先ずっと忘れることはないだろう。これだけは忘れたくないと思う。  さて。  次はどんな顔して会えばいいんだろうな。