/*/  ししおどしの音が響……かない。響いても困る。  地上40階という、まさに天上の世界とでもいうべき高さで老若男女が、気が聞かない世界だとか愚痴り始めた。  彼らの視線の先は全て共通している。目と鼻と先にある喫茶店に座る、1組の男女だ。片方は隣人というよりは、比較的年齢層の高いこのビルの内では娘というに近い少女。男のほうは誰だか知らない。  しかし、まるで授業参観だ。見る人が見れば、公開処刑ともいうだろうが、そういうものにこそ、ギャラリーは沸くものであって。つくづく罪深いというか業が深いというか、わかりやすい生き物である、人間というものは。 「おねーちゃんきょうはあそんでくれないの? あのおにーちゃんだれー?」 「おい、気づかれるぞ。誰かこの子連れてけ」 「なんでもない通りすがりの人の振りしろ」  子どもの母親だろうか。2人を中心に出来た、人間ドーナッツでもつくっているのかというような密度の円形の人だかりの中で声を上げた子どもが、女性に手を引かれて円から離れていく。  今更気づかれるも何も、もう遅いということには誰も突っ込まない。8割ほどの人間がサングラスを装備し、5割ほどの人間は新聞紙で顔を隠すようにしていた。  もはや、喫茶店の外は殺気や嫉妬、欺瞞の空気で息苦しいを通り越し、重苦しい空気が漂っている。  そんな空気の中、 「あ、自分が持ちますの空気だな」 「馬鹿め。初対面……だと思う相手にそれは重いだけだよッ!」 「初対面じゃなかったらどうすんだ」 「……」 「オイ、どうすんだ」  こんな、なんとも間の抜けた会話がいたるところで行われている。そんな点々とした小声の会話は、中心に座っている男女にはざわめきに聞こえていることには気づいていない。  そのざわめきを受けて少女が苦笑いすると、人だかりの中でいろいろなものが、堰を切ったように一瞬だけ、音も無く噴出した。 「おい、あの子が困った顔したぞ」 「よし」 「落ち着くんだ同志。無表情で鉄バットを出すな。ところでその窪みと染みはいったい何を殴ったんだ」  少女らの周り、四方八方から舌打ちの音が聞こえる。  単発の音が輪唱となり、重唱となり、まるでそういうBGMでもあるかのように響く。その耳障りな音の中で、少女らの会話を一言も漏らすまいと、誰もが耳を済ませた。 『鋸山Bさん……とお呼びしていいですか?』 「ダメだ!」 「お前じゃねえよ! でもダメだ!」 「いいから静かにしろって!」 『はい』 「ギャーッ!」  2人の会話にいちいち茶々を入れるように叫ぶ観衆、主に男達を背景にしながら、2人の会話は進んでいく。この後に及んでなお、まだバレていないと思える辺り男達の適当さ……もとい一つのことしか見えない一途さは凄まじい。 『どもです。鋸山Bさんはどうですか? やっぱり、生活は大変じゃないですか?』 『……いえ。みんなと、同じです』 「ええ子や」 「文句の一つでも言ってくれていいっていうのに……」  自分達の今の生活、森国でありながら森を捨て、樹木よりも高い鉄の塊の中で暮らしている有様で、けして裕福ともいえず、むしろ辛く面倒な毎日を過ごさせているというのに、気にするのは少女自身ではなく、他人。ここに集まっている観衆のことを考えているその姿勢に、思わず彼らは涙腺の緩むのを感じた。  何があったのかは聞いていないが、きっと彼女自身も辛いには違いないはずなのだ。その証拠に、まだ彼らは彼女の笑った姿を見たことは無い。  彼らは下唇を噛みながら、自分達のふがいなさというか、無力感というかを一緒に噛み締める。  そんな、どこかしんみりとした空気が輪の中に循環しても、 「おい、あの子がまた困った顔をしたぞ」 「よし」 「落ち着けといっているだろう同志。御願いだからおもむろに釘打ち機を取り出すのをやめてくれ。リアル過ぎて生々しい」  少女の苦笑を見た瞬間の、この豹変ようさは何とかならないものだろうか。男達がそれぞれ、自分達の作業道具やその辺に落ちていた角材を手に取り、目を血走らせ、じりじりと輪を縮めていく。 『ああ……そうですね。やってみます。ありがとう」  その視線の先、男性の笑みに応えるように、初めて見る微笑を浮かべた少女の姿に、観衆が一つになって歓声を上げた。 /*/