/*/  心地よい暖風の流れる部屋の中に、流れるように軽快な音が響いていた。  ペンの音だ。  机の上に、綺麗に整頓されて積み上げられてできた書類の山の向こうで、一寸の迷いもなく、まるで指揮棒を振るうかのように精密な律動を奏でながら、ペンの走る音が刻まれる。  山の向こうにいるのは英吏だ。彼は機械か何かのように瞬きもせず、眼鏡の奥で鋭い目尻を光らせながら、濁流のように降り注いでくる事務仕事を、ペンひとつで往なしていく。  しかし、そんな静かな闘争を繰り広げている彼の姿は、どこか間の抜けるものがあるのは確かだ。軍服かISSの制服でも着ていればきりりとしまるのだろうが、今日の彼の服装は縄模様の入ったモスグリーンのセーターだ。  まるで暖炉を前に暖を取りながら恋人でも待っているかのような雰囲気は、書類の山が乱立するISSのこの部屋にはお世辞にも合うとは言えない。  それでも、その仕事の早さはだけを見るのならば、やはり神か悪魔か。見るもの全てに、服装の不釣合いさに苦言を呈させぬような無言のプレッシャーがそこには存在している。  ――いや、訂正しよう。 「うわ、似合わねえ」  挨拶もなく入ってきた健司が、第一声から大前提を覆した。  纏っていたコートを乱暴に脱ぎながら、しげしげと英吏の姿を、上から下まで舐めるように観察する。 「似合わねえ」  したうえで、彼は同じ言葉をもう一度繰り返した。英吏の座る椅子のすぐ脇に、わかりやすい不良のように腰を下ろすと、黙々と仕事を続ける英吏を、ニヤニヤという表情で見上げる。 「余計な世話だ」  英吏はその様子を一瞥すらせずに答える。答えながら、書類を一枚片付けて、次の物を引っ張り出した。  事務仕事をしているという情報をあえて他のISS構成員に流し、それを盾に今日はこの野良犬のような男とは会わずに済ませるつもりでいたのだが、こういうときの鼻というのはよく利くらしい。  英吏は心の中で舌打ちする。が、出会ってしまったのなら仕方ない。開き直りも大事だろう。 「……それ、暑くないのか?」 「無論、熱いが」  即答だった。英吏はフフンと鼻を鳴らしながら、してやったりという表情で書類をまた一枚片付け、新しい物に手を伸ばす。  瞬間、何かが切れるような音がして健司が彼に掴み掛かった。以前よりはやや肉厚の薄くなった頬を引っ張りながら、椅子から押し倒さんばかりに力を込める。英吏も負けじと、ペンを持っていないほうの手で健司の顔面にアイアンクローを決めた。 「死、ね」 「ふぉまえふぁひぃね」  取っ組み合う2人。暖かい空気を送風していた暖房の音だけが静かに響く中、ばきりと、鈍い音が響いた。  2つに分かれて床に落ちるペン。その遥か上には、大粒の黒い塊が飛散している。 『あ』  2人の男は、同時に素っ頓狂な声をあげてその行方を見送るしかなかった。 /*/ 「ねーねー」  木漏れ日の中に少女――シリアルの声が、木に背中を預けて本を読みふけっている英吏に向けてかけられた。  季節の割には過ごしやすい陽気のおかげで、吹き抜けていく身を裂くような肌寒い風は、今日ならばさわやかささえ感じられる。 「どうした」  英吏は本を閉じながら、アイスを頬張るシリアルに視線を向けた。  どこか淫靡なその姿も英吏は気にしない。それよりも、彼女の足元に垂れたアイスの溶液が尻尾に直撃し、毛を逆立たせている背もたれ代わりに使われていたクイーンのほうが気になるぐらいだ。 「ふぉれ、やっふぁりふぃにふぁるふょ?」 「俺がやるから構わない」  アイスを口の奥まで突っ込み、英吏の着ているセーターの裾――黒い斑点のついたモスグリーンの生地を引っ張りながら言うシリアルに、英吏は苦笑しながら答える。言っている言葉はわからないが、恐らくはこの黒インクの染みが気になるといったところだろうか。  英吏はその手を優しく払い、困ったような苦笑を向けた。やるといっても、あまりこういうことは得意ではない。  漂白剤でもいれて洗濯機に突っ込めば―― 「そう言って洗濯機に入れるつもりでしょ」 「む……」  図星だった。  返す言葉もなく英吏は視線を彼女から逸らし、足元でのんびりとしているクイーンへ向ける。しかし、クイーンさえもぷいと明後日の方向へ顔を背けた。薄情者め。 「こういうのはちゃんと洗い方があるんだから。私に任せなさい」  アイスを食べ切り、棒を咥えながら、シリアルは無い胸を叩いて見せた。任せろと言われても、あまり説得力があったものではない。  やや迷いながら、英吏は結局妥協することにした。どちらにせよ、彼が迂闊に扱えば壊してしまう可能性が高いことには変わりない。ならば、その可能性を潰しておく必要があるだろう。 「いや、手順だけ教えてくれ。俺がやろう。……大切なものだからな」 「うわあ、熱い熱い」  言いながら、英吏は慈しむような目でセーターに視線を落とす。ふわふわと、肌触りのよい縄模様の生地が暖かい。貰ってからしばらくたつが、その毛糸一本一本には、まだ彼女のぬくもりが残っているような気さえしていた。  その姿に、シリアルは舌を出しながら、火傷でもしたように手のひらをヒラヒラと揺らした。 /*/