/*/  時計が鳴る。  カチ、カチ、と。まるで自分の心を写したように、一瞬の狂いもなく精密に、面白みもなく、ただ冷淡と時を刻む。  崩れ落ちるようにベッドに倒れこんだシーズ・スターは、自分の頭の上にある木彫りの掛け時計を真下から見上げた。文字盤こそ上手く見えないが、時計の針はほぼ真上を指し示している。単身がわずかに右側へずれているのと、カーテンの向こうに、手招くように広がる夜闇を合わせれば、深夜の23時頃と考えるのが妥当だろう。  くだらない。  何をやっているんだ、とシーズは硬いベッドの上を寝転がる。そんなどうだっていいことに頭を使うぐらいなら、一秒でも早く、泥のように深い眠りへ落ち、身体を休ませたかった。  目を瞑り、深いまどろみの中に自分を墜としていく。  複雑怪奇に入り組んだ思考の糸が次々に紐解かれ、整理された思考の向こうから、無意識に選別された”とある記憶”が再生され始める。  そんな時だ。部屋のドアが控えめにノックされたのは。 /*/ 「肩とか揉もうか?」 「マッサージとか」 「もうちょっとだけお話とかしていい?」 「は、なんなら子守唄歌うよ」  矢継ぎ早にイクの甲高い声が投げかけられる。彼女の声質は女性以外ではありえないのだが、その純粋さはまるで少年だ。都市部相応ともいう、それぐらい無邪気な彼女の言葉に、シーズは阿吽の呼吸で返事を返していた。 「話にしようか。俺は歌は苦手だ」  苦笑しながらシーズは答える。どこか恥ずかしさがなかったかと聞かれれば嘘になる。加えて、もう深夜であるということもある。あまり声を出したくはなかった。 「んー、了解っ」  テキトウな机の引き出しをバタンと押し込みながら、イクが答える。  その中に入れられたものは細切りにされたナッツがふんだんに使われたケーキだ。ホイップの塗られたものならばそうそう乱暴に扱えなかったところだが、一見パンにも見えるその素朴な造詣故のフットワークの軽さだろう。彼女らしいといえば彼女らしい。 「どんなことがききたいんだ?情報か?」 「うーんー……………………。頭真っ白ー」  いつ会っても変わらず、飾り気のない彼女にシーズは子を見守る親か何かのような笑みを浮かべながら、「なるほど」とその続きの言葉を引き出す。 「そりゃ皆がめちゃくちゃ心配で、ライラプスとか香川君とか。  あ、とりあえず月子ちゃんは無事だってめちゃくちゃうれしかったんだけどー。  うあー、なんかふきんしんなことに、頭真っ白になった」  言いながら、彼女はくねくねと身を捩じらせ、頭を抱えながら家具の少ないが手狭な部屋をうろうろとする。  その様子を観察するように見守りながら、やはりシーズは笑っていた。  下手な相槌は必要ない。彼女の声は、聞いているだけで自分の身体にたまった疲労が、少しずつ取り除かれていく気がした 「というより、シーズが、こないだ会った時からどうしてたかなってことが、ちょっと聞きたいと思った……」  返事がないことに不安を覚えたのか、どこかぐるぐるとした目を部屋のあっちこっちへ向けた挙句、やっと落ち着いた様子で彼女はシーズに話題を振った。 「げ、げんきだった……?」  それが、これである。  「おなか壊したりしてなかった?」と続ける彼女に「まあまあだな」と答えながら、シーズは声を上げて笑いたいのを押し留めた。自分の体調もさることながら、彼女のこの問いかけもまあまあ、というところだった。 「壊れたのは腕くらいだ」  多少皮肉交じりに言いながら、シーズは片腕を捲くる。傷も縫い目もない、綺麗な引き締まった筋肉に包まれた腕が露になった。 「今、腕元気? 触っていい?」  腕元気ってなんだ。思えど口には出さず、微笑みながら彼女に頷く。もともとそのために袖を捲くったようなものだ。  指先から肩口までをぺたぺたと、真剣な表情で触り、何もないことを確かめると、安堵の息を吐いて上目遣いに彼を見上げた。本来ならば柄にもなくキュンと胸を高鳴らせるところなのだが、どういうわけか、彼女からはそういう感情が沸いてこない。 「うーんと、あとは、ここも元気でしたか?」 「被弾はしてないな」  どういうつもりか、彼女はシーズの厚い胸板を撫でながら問いかけてきた。  下ネタだろうか。いや、まずそれはない。シーズは頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら、自分の思考を一瞬だけ全力で稼動させて最適解を探し、答える。 「だいぶ戦ったんだね、でも今こうして無事でよかった……と、あとね」  答えるその顔で、勘違いされていることに気がついたのか、彼女はもう少しわかりやすく、頭の中で言葉を砕く。  傍から見れば子供と父親か、それに近い間柄にしか見えないのだが、精神的な部分ではむしろ逆と言うべきなのがこの2人の間柄だった。 「ええと……こ、こころはげんきでしたかっ」  言い返すのが恥ずかしかったのか、僅かに頬を赤く染め、口から唾を飛ばしながら一生懸命に彼女は声を張り上げた。  そういう意味か、とシーズも、納得のいったように心の中で頷く 「殺すのも殺されるのも慣れている。誹謗中傷も、嫌われるのも」  部屋を途切れ途切れに照らす白色電灯の明かりを受けて目を鈍く光らせながら、シーズは笑顔の仮面を顔に貼り付け、「問題ない」と、言葉のとおりに何事もなかったかのように言う。  しかし、下からその表情を見上げる彼女には、その表情は鉄仮面のように無機質で、声はまるで氷のように平たく、凹凸のない声に聞こえていた。  彼女が唸りながらとことことシーズの背中に回る。  唐突に、その背中に柔らかな感触と、控えめな重みが圧し掛かり、吐息が耳をくすぐるような距離で…… 「ぼくは、ええと、その――」  好きだ、よ。  そう、小さな口が微かに、しかし一生懸命に動き、言葉を紡いだ。 「そりゃ知ってる」  子供をあやすようにシーズは微笑みながら、肩口に埋められた頭を撫でてやる。隙間から覗く視線が、取り付く島を求めて助け舟も何もない殺風景な部屋の海を泳いだ。 「よくわからん」  シーズは笑いながら答えると、どっと押し寄せてきた疲労と眠気の波に身を任る。  ここまでの会話が、彼にとってはマッサージや子守唄よりも効果的なものだ。彼はそう、自重で自然と閉じた目蓋の作る暖かな暗闇の中でそう思い、少年のような寝息を立てながら眠りについた。  闇の向こうで、青い光が天に昇っていく。  その光に誓おう。最期の時までこの心地よい時間を守る、と。 /*/