/*/  昼だと言うのに薄暗い路地を、砂の粒子を乗せたざらつく風が吹き抜けていく。  繁華街とでもいうべき、人が多く、生活の声と明かりに溢れた表通りとは打って変わり、そこは薄気味悪いほどに静けさが包み込んだ裏通りだ。コンクリート剥き出しのビルは乾燥帯だというのに冷たい印象を見るものに与え、捨てられた何週間も前の新聞紙が、路地裏に寂しい音色を奏でていた。  そんな場所を、まるで知り尽くしたように月子は、斑な人影だけに気を使いながら走る。障害物になるようなものは、こういう道だからこそ脇にしっかりと片付けられているものだ。乱雑に、だが。 「こっちよ、ワサビーム」  裏口から出てきた彼に、月子は肩越しに声をかけてから一足先に角を曲がる。  我ながら慣れた物だ。迷路のように入り組んでいる道の行く先も、月子には手に取るようにわかっていた。  頭の中に構築される地図の上に道を線引きながら、ゴールである彼の家に桃色のペンで花丸と、その隣に犬の絵までつけてみる。  どんな子だろうか。ついたらとりあえず抱きしめて、肉球に触ってみて、撫で回して、鼻の頭にキスしてみて……とにかく楽しみで仕方が無かった。  その後ろを、苦笑しながら彼は走って追ってきている。  もともと疲れて見える彫りの深い表情は、月子に振り回されていつもよりも若干余計に疲れて見える反面、幸せそうにも見えるから不思議であった。  子犬に口付けしたら彼は嫉妬するのだろうか。それもちょっと楽しみだ。月子は思いながら、すれ違う野良猫に満点の笑みとウインクを飛ばし、路地裏を疾走する。尻尾を立てて威嚇されるのだが、そんなものを気にしているほど、彼女の頭の中には余裕というものは無かった。  ポチ、クロ、シロ、マロン、ラッシュ、ココア、チョコ……ああ、なんて名前がいいだろう。  毛の色は何色なんだろう? 雑種なのかな? 犬種は?  そもそも男の子なのか、女の子なのか。  そんなことで彼女の頭は一杯だ。 「ちょ、ま……!」 「早く来ないと置いて行っちゃうよ?」  息も絶え絶えに漏らされた彼の言葉に、月子は階段をスキップするように登りきり、黒髪で宙に円を描きながら、美しくターンしてから身を屈め、彼を見下ろす。 「それは酷いな」  見上げる彼が、苦笑しながら階段に一歩眼を踏み出す。 「しーらない。ほんとに置いてっちゃうから」  月子はそれに猫のような悪戯っぽい笑みを向けると、さっさと階段の脇にある扉をくぐる。  おじゃましまーすと黙って頭を下げる月子を迎えるように、色とりどりの小鳥が集まって囀り始めた。彼女は唇の前に人差し指を立ててそれに謝りつつ、顔も知らないどちら様かの中庭を失礼して横切る。  こっそりと他の扉から再び路地裏に抜けようとしたところでふと振り返って、思わず微笑を浮かべる。丁度彼が遊び盛りの小鳥達に突かれているところだった。  ばつの悪そうに追いかけてくる彼を少し待ち、月子は再び扉をくぐって薄汚れた路地へ降り立つ。  まるでアレだ。そう、恋人同士が砂浜や花畑でやるような追いかけっこだ。  そう思い、自分の体温が微かに上がるのを感じながら月子は苦笑する。砂浜でも花畑でもなく、まさか路地裏や他人の庭でそれをやることになるとは思わなかった。自分達らしい、といえばらしいのかもしれないが。  後ろを走る彼の姿を見ながら、月子は思う。このまま隠れてしまったら彼はどうするだろうか。探して、見つけてくれるかな。  しかし、流れていく視界の済みに一瞬映った、くしゃくしゃにされた戦死広報が、彼女をそんな桜色の思考から現実に、いや、終わりの無い不安へと引き摺りこんだ。  今のこの世界に、”次”というものは必ず存在するわけではない。  不条理な暴力と、理不尽な制裁。病気という名前の、抗うことの出来ない超自然の猛威。そして、確実に終わりへと向かって落ちている世界の螺旋。  一瞬でも見失ったものと、また再び会える可能性なんて誰にも保障はできないのだ。  月子は立ち止まり、振り払うように髪を靡かせながら体中に新しい酸素を取り入れつつ、酷使した自分の身体をクールダウンする。気がつけば既に彼の家の前まで来ていた。 「大丈夫そう」 「そ、そっか。よかった」  遅れてきた彼が、膝に手を当ててぜーぜーと息をしながらそう言う。  ちゃんと追いついてくれたことを嬉しく感じるのは、自分の心が弱くなっているということだろうか。思いながら、月子は目の前にある彼の家を、その向こうにある太陽を見上げた。  当然のように答えはなく、先の見えない明日という形の無い不安の中に沈んだ彼女へ、救いの手を伸ばしはしない。  戦争、病魔、暗殺、私刑、犯罪。世界に蔓延る恐怖は、月子をどんどん不安の淵へと誘う。  その誘いを断ち切ったのは、皮肉にも彼女にとっての不安要素である彼の声だった。 「なんか不謹慎だけど、一緒に走るの楽しかった」  彼は途切れ途切れにそう言い、くしゃくしゃの笑顔を作りながら月子を”今”へと引き上げる。  ……そうだ。私だって楽しかった。「大丈夫?」と、背中に問いかける彼の声に小さく頷きながら、彼女は思う。  幸せだからこそ、不安は生まれる。彼女は素早く笑顔を作って彼に振り返り、白い手を差し出した。  今この時を放さないように、離さないように。 /*/