/*/  栗色の薄いカーテンの隙間から、秋風が葉を散らせた小枝を揺らすざわめきと、その枝先で囀る小鳥の唄を運んでくる。それに混ざって、木漏れ日が、清潔感のある純白に包まれた病室の中へと差し込んだ。  触れることが出来そうなまでに細かく、薄い光が彼の胸元に顔を埋めた彼女の紅葉色の髪を優しく照らす。  まるで命の炎のようだ。英吏は思いながらその柔らかい髪に指を流し、絡ませながら撫でる。まあ、言い得て妙な部分こそあるが。 「大丈夫……ありがとう」  英吏の心へと投げかけたように、言葉は僅かに胸を揺らす。  ここに自分が生きていて、そこに彼女が居るということを示す僅かな痛みが、今は心地よい。英吏はその見えない彼女の顔に向かって微笑みかけた。バロが起きていれば大笑いされていることだろう。英吏がこんな、皮肉を込めない笑みを向けられる相手はそうそう居ない。 「……英吏さんの方が大変なのに」  彼女は顔をあげると、自分に向かって微笑みかけている英吏に答えるように微笑み返した。  英吏はふと気づく。差し込む光が、彼女の背中で反射して一対の翼のように煌いていることに。その姿はまるで天使……いや、ギリシャ神話に登場する女神、ニケとここは言うべきであろう。  それから自分の生存を強く感じながら、英吏はそっと近づいてくる勝利の女神の口付けを受けた。 「大変ではないな。これでしばらく休みだ。くやしいが」  唇から離れていく甘く、柔らかな感触に名残惜しさを感じながら、英吏は心から苦笑して思いの丈を吐き出す。自然と噛み締められた奥歯のせいか、腹部に鈍い痛みが広がって僅かに背中を丸め、小さく悶絶した。 「英吏さんは働きすぎなんですちょっとは、休んでもらわないと……」  普段は見れないであろうそんな様子に、彼女は微笑みながら英吏の両肩を掴み、静かに身体をベッドに横にさせる。 「でも、ほんとは怪我じゃなくちゃんと休んでもらいたいな。……心配だから、いつも」  染みひとつ無い白の毛布をその身体にかけてやり、その傍らに椅子を引き摺って出しながら彼女が言う。 「……いや、普段仕事をしているだけだ。生きるためだな」  抵抗もせず、為すがままにされながら英吏が言う。そうだ、生きていくためには稼がなければならない。ならないが、彼にっては仕事が、いや、その仕事から生まれる苦痛や笑いこそが”生きている”という証でもあった。  そんなことを思っている、のだが 「そか……うん、ごめんね」  困ったようにしょんぼりと視線を下げる彼女を見ていると、それを思うことも憚れる気がした。 「だがまあ、10日は休めそうだな」  付け加えるようにそう言うと、英吏は寝たままの姿勢で精一杯に優しく微笑みながら、自分よりも少し上にある彼女の頭を腕で抱き寄せ、唇を合わせた。気にするな、すまない、と言えば済むようなものだが、英吏にとってその言葉にたどり着くことは常人の倍難しい。これが彼の思いつく最善の謝罪だった。  永遠のような一瞬の時間。  不意に鳴いた風の声を合図にして、ゆっくりと離れていく2人の間に透明な橋が架かる。彼女は唇に手を当て、どこか嬉しそうに椅子に腰を下ろした。 「じゃあ、10日間私が看病するね。べったりだよ、覚悟してねー」 「……できるのか?」  服の袖をまくりながら言う彼女に、英吏は問い返す。その目の下には薄っすらと隈のあとが残っており、見慣れた表情にはどこか疲れの色が見えていた。……十日間も他人の面倒を見ていられるような状態には見えない。  しかし彼女は、首を左右に振り、一房に纏められた髪を揺らしながらその問いかけに答える。 「うん、なんとか。せっかくだから……」  寝ている英吏の唇に、今度は彼女から唇が近づいた。  今度は軽く、触れるばかりのキスが交わされる。 「お嫁さんになる予行演習します」  離れると、彼女は悪戯気な笑みを浮かべて小さく舌を出してみせた。  くすぐったそうに英吏は口元を歪め、もぞもぞと動きにくい身体を捩って悶絶する。 「嫌?」 「嫌いではない」  捻り出すようにして英吏が答えると、彼女は椅子から立ち上がってベッドのすぐ傍に中腰になり、優しく包むように英吏の胸を抱きしめた。  まるで猫か何かのようだ。丁度目の前に来る優しい香りのする彼女の髪を、英吏はマーキングでもするようにくしゃくしゃと撫で回した。  くしゃくしゃにされながら、彼女は幸せそうな笑顔で上目遣いに英吏の顔を見上げる。 「でも、傷は早く治るといいな、10日じゃなくて……」  言葉の途中を切るように、英吏は「そうだな」と口を開くと、お返しとばかりに悪戯っぽい笑みを浮かべながら本心を口にした。 「早く嫁にしたい」 「あ、う、うん…………。ありがとう」  余りにも脈絡無く、不意を撃たれたその一撃に、思わず彼女は赤くなって再び英吏の胸へと顔を埋めて隠れた。 /*/ 「ふふふ、早くもらってね」  一寸ばかり間をおいて、笑みを孕んだ彼女の声が病室に小さく響く。  さて、困ったな。  病室の端で長くなっている黒い塊は薄目を開けてその様子を見ながら思った。  彼は最初からそこに居たりするのだが、これまでの生涯をかけて磨き上げた業の全てを駆使し、この病室の空気と一体化している。ちょっと悲しかったりするが、気にしてはいけない。  呟きでもしたら、一瞬でこの空気を台無しにしてしまいそうで怖すぎる。かといって出て行ってやるに出て行ってやれない雰囲気なのだが……。 「英吏さん、大好きよ。愛してる」  まあ、いいか。  再び響いた彼女の言の葉に、黒い塊はばれない様に微笑み、静かに壁際へと身体を回転させた。  たまにはこういうことに使う業があったっていい、そうだろう? /*/