[味わいのまじわり]  考えて見れば女の部屋に入るなんて珍しいな。記憶の中から家賃の二文字を削り落としながら玄乃丈は部屋をさっと見渡した。思ったよりも広い。が、それにも関わらず綺麗だ。これで男の部屋だったら本当に何もないか、もしくは雑誌や着替えが山盛りになっていただろう。実際にあったのは、ちょこちょこと置かれている可愛らしい小物だった。  本人の性格を考えればふわふわしたものが多いかと思ったが、そんな事も無く、どちらかというと部屋にしっとりと馴染むものが多かった。  ふわっと空気が揺れた気がした。時計に向けていた視線を下ろすと、傍らにカヲリが立っていた。目があまり落ち着いていない。 「あれ、ええと、何か、珍しいですか?」  いや、と言いかけて、玄乃丈は少し笑った。ぽんと頭を撫でる……所を考えたが、手を挙げるのはこらえた。まあ、慌てるな。 「まあ、女の部屋は」 「あ、あんまり普通とかわらないです」  といいながら赤面するのは……いや、そういう事じゃないか。玄乃丈は誤魔化すように頷いた。  二人してソファに着く。すぐ前のテーブルには紅茶が用意されていた。頭を撫でた手をそちらに伸ばす。柔らかくて甘い。……久しく紅茶なんて飲んでなかったな。そういえば。 「どうですか……?」 「おいしい」  カヲリは嬉しそうに笑った。玄乃丈は黙ってもう一口紅茶を含んだ。 「今は、玄乃丈さんは、何をしてるんですか?」  聞かれてから、そういえば言ってなかったな、と思い出した。思い出した瞬間にはどこまで話すか考えている。事は慎重を要する。カップ麺のように一分くらい越えても言い屋のつもりでやってはいけない。例えが我ながらさもしい……。 「探偵だな」端的に答えてから、苦笑気味に付け加えた。「儲かっちゃいないが」 「今お仕事は何か請けてるんですか?」 「ああ」 「どんなお仕事ですか?」  やわらかな声質の中に、固い警戒が混じり込んだ。玄乃丈は、きつくなりすぎないように気をつけながら口を開く。 「守秘義務だ。答えられない」 「……あんまり危ない仕事は避けてください……とか、だめですか?」  そこで、やめてください、と来ないところに遠慮が滲んでいる。もう少しすぱんと者を言えた方が生きやすそうだなとは思うが、一方で優しさの裏返しでもある。ここはむしろ、ちゃんと言えた事を褒めるべきだろう。 「次の仕事は、注意するよ」  そのまま頭を撫でようとして、玄乃丈は苦笑した。あんまり子供扱いもよくないか? いやそのつもりはないんだが。むずかしいな、女に触れるのはいつも考える。いつまで経っても男には難しい課題だ。  が、そもそも迷ったのが甘かった。カヲリはこちらの手を見たあと、体を寄せてきた。 「さ、さわってください」 「なんのことだ?」  違う間違えた。ここで苦笑でもして撫でれば良かったか。 「な、なんでもないです……」  そう言うなら、その「か、勘違いでした……?」みたいに悩むのはやめておいた方がいい。顔まで赤くして。  からかうのは自然に出来た。手を伸ばして、額をつんと指で押す。 「……ええと」  かわいいな。玄乃丈は笑った。 「あ、じゃなくて、今のお仕事が危険なら…や、やめたり出来ないですか?」  あれ。そっちに話が戻るか。  ……カヲリに誤魔化しをいれるのは案外難しい。よく見ている。人の事は、言えないが。 「無理だな。俺はプロだ」 「……はい。でも、気をつけて、無理はしないで下さい」 「ああ、そうする」  言いながら、カヲリの顔をじっと見る。 「よかったです。約束ですよ?」 「………………………………」 「……あ、ええと」  戸惑いがちに、カヲリは微笑んだ。  まだ見ている。  カヲリは固まった。じわじわと頬の温度が上がっていく。 「ええとー……」 「うん?」  身を乗り出して、顔を寄せてみる。  カヲリは完全に固まった。目も微動だにせず視線が絡んだまま動かない。  ヘビに睨まれたカエルだな。玄乃丈は目をそらした。――おかげで、動揺した顔を見逃した。 「見すぎはよくないな。からかって悪かった」 「こ、こっち見て下さい」  ほう。 「…………」  ぎこちなく微笑むカヲリ。……いやいや、そうじゃないだろう。  玄乃丈は噴き出すのをこらえて目をそらした。……駄目だ。こらえきれずに、笑ってしまった。 「な、なんですか、もー。こっち、見てくださいっ」  にらめっこじゃないんだが。玄乃丈は笑いをこらえながらゆっくりとカヲリを見つめる。  さて、今度はどうするだろう。 「……ええと…………キスしてもいいですか?」  よくできました。ということで先手を打った。  カヲリの目が丸くなる。唇を離すと、すかさず口を開かれた。 「も、もう一回して下さい」  玄乃丈はゆっくりキスした。  終えてから、玄乃丈は帽子で顔を隠そうとして、そのまま頭を掻いた。 「照れるな」  夕方、カヲリは上機嫌でキッチンに立った。体はぽかぽかで調度動かしたい気分だったので、冷蔵庫から卵を幾つか取り出して溶いてみた。その間にフライパンを温めて、昨日の具だくさんのミートソースの余りをレンジで温める。 「台所だときびきび動くな」 「そ、そんな事無いです」  見られているから緊張しているだけです、とは言えない。流石に舌は予想外だったのですと心の中で呟く。 「オムレツか?」 「はい」 「いいね」  うわぁ。  こうなったらがんばろう。もう一つ、少し大きいフライパンを用意する。失敗できないので、一度暖めたフライパンは一度しか使わない。一度熱くなると二つ目を作るのが難しくなる。  卵を半分広げて生地を作る。ミートソースを落として、残り半分も。……よかった。上手に作れた。一応フライパンの表面に手を伸ばしたけど、やっぱり熱くなってるので、やめた方が良さそう。オムレツが冷めちゃうのももったいないし。  そのままもう一つのフライパンで、さっきより少し大きめのオムレツを作った。卵が足りなくなるかも、と少し不安になったけど、大丈夫だった。うまくいった。 「なるほどね」  お皿を一つ受け取りながら、玄乃丈は笑った。フォークを二つ持って行く。あとは、今朝のバゲットが半分余っていたので切り分ける。サラダは生野菜を切ったもの。小皿にドレッシング、塩を乗せたものをそれぞれ持っていく。 「あ」  ……うっかりしてました。朝食みたいな並びに。 「朝食みたいだな」 「ですね……あの、足りませんか……?」 「いや、充分だろ」  言って、玄乃丈は食べ始める。ううう。ドキドキしながら見守っていると、視線が合った。 「食べたがいいんじゃないか?」 「は、はいっ。……いただきます」 「いただきます」  オムレツに早速手を伸ばす。ミートソースがちゃんと中まで熱くてほっとした。  ああでも。キスの味がとけていくのは、ちょっと寂しいかも。  ……顔が熱くなっていく。玄乃丈は少しだけ笑った顔のまま、じっとカヲリを見つめている。  だから玄乃丈さんみないでください……み、見てください。慌てるカヲリは、またからかわれる事になる。