[居酒屋の天気]  ヤガミは機嫌が良かった。女性に呼び出されたからだった。  泣いてさえいなければ仕事関係だろうとプライベートだろうと大抵の男性は機嫌が良くなるが、ヤガミもその例に漏れず、この日は上機嫌だった。  が、手紙に書かれた集合場所に目を通して、おやぁと首が傾いた。なんで「居酒屋?」思わず口に出てしまった。  居酒屋。いやまあ悪いとは言わないが。言わないが、何だろう。不思議なチョイスだなと首を傾げる。頭の中で疑問符が羽を広げて躍っている。あいつ、酒飲みだったっけ。それともそういう気分なのか。ああそれとも前に居酒屋という話をしたがそれか。なんならもっといい場所を探しても……まあいいか。呼び出されているのはこっちだ。  ああ、そう。呼び出されたのはこっちだ。ヤガミは満足そうに笑った。それだけでなんだかこの世の全てが許せる気になれた。ふふふはははは。ずいぶんちっぽけな懐だという冷静な突っ込みは軽やかなステップで回避する。  そして居酒屋前。焼き鳥とタレの匂いがぷんと漂う店の中、カウンター席に二人は座った。 「どうでもいいが、なんだこのシチュエーションは」ヤガミが言った。 「ええー? 飲みに行こうって、約束してたでしょ。それで、居酒屋なのよ」花陵が笑う。  あー。ヤガミは苦笑。「そりゃそうだが……」照れくささと一緒に頬を指で引っ掻いた。目が彷徨う。素直に言うかどうか少し考えて、まあいいかと流した。 「お気に召さない? どこかに移ろうか? 私は、公園で缶ビールでもいいけど」 「いや、まさか。こっちの方がおなじみで懐かしい」  というか気を遣いすぎだ。それとも俺が使わなさすぎなのか? 頭の中で考えが二周する間にヤガミは微笑みを浮かべていた。まあ、こっちも気を遣えばいい。 「貴方が嫌でなければ」 「あ。笑ってくれた。」 「いつも笑ってるが」素で尋ねるヤガミ。 「うん。ありがとう。ヤガミが笑ってるのみて落ち着いた」 「なるほど……」  ヤガミはおしぼりで眼鏡を拭いた後、かけ直した。  居酒屋と酒のつまみになるに、愚痴はそれほど特別じゃない。  さて。それでは。 「相当重傷そうだな。なにか嫌なことでも?」  踏み込んでみるか。  酒が体を温める。つまみは腹を膨らませて心を軽くし、軽くなった口から、不満は洗い流される。人によっては、それは後ろ向きと称される者かもしれなかったが、前向きな解決ばかりが正しい道とは限らない。  それに。まあ、こういうのもまた楽しさの一つさではあった。  ジョッキには泡のかすだけが残った。濃い色をした枝豆のさやがずいぶんな大きさの山になっていた。エイヒレのあった器はすでに空っぽで、食べ放題のマグロが運ばれてきた青い器が数枚重なっている。  ヤガミが揚げたてのキャベツコロッケを囓る。歯を通すとざくざくと心地いい音がした。残念な事に大きさがありすぎるのが難点で、普段はその食べ応えにエベレスト登頂を望む登山者のような気分になるのだが、今日に限ってはそれほどでもなかった。 「それ、案外大きいぞ」 「大丈夫ですよー。お腹空いてますし」  いやお前マグロずいぶん食ってなかったか? ヤガミは口を開こうとしたが、まだ中に入っていたコロッケが出そうになって慌てて口を閉ざした。にこにこ笑いながらコロッケ囓る花陵を見て、今だから元気なのか否か、一瞬考える。コロッケが口の中から無くなったので、ちびちび食べているそばがきをつまんだ。 「うん。たぶん、そう。自分で悪い事だってわかってるのだから、やらなきゃいいのに。きっと、何年かたってから、後悔するのだろうけど。」 「まあ、数年後覚えているだけの脳はないと思うが。そうしておこうか」  言葉尻をとらえて適当に皮肉る。ふわふわした心はいつもより言葉を軽くした。ついでに、態度も。相手の背中をたたいた。容器に。 「俺が人を助けても、誰かは俺に文句を言う。そんなもんだ」 「うん。この間は、空元気だす余裕があったのだけど、もう我慢できなくって。愚痴聞かせたくはなかったのだけど、ね。」 「いいじゃないか。愚痴」ヤガミは遠い目。頬が緩む。「俺もよく言ってたな」 「そんなもんかー。なのね…ヤガミは、強いね」 「強くはないな。本当に強いのは知恵者みたいなのだ。俺はさしずめ、そうだな。まあ、せいぜい普通のサラリーマンだな」  せいぜい、と言いながら妙に胸を張っている。花陵はそれを見ないで遠い目。 「そうなんだー。でも、私より強いよ。私は正直に言うと、弱ってるのを見られたくなかったもの」ごくりとビールを飲む。「手紙も出そうと何度も思ったけど、会いたい。とごめんね。が、交互に出てきてだせなかった」 「……ラブレターみたいだな」 「そうなのかも。自分で、気付かなかった…けど。そうか。そうだね。うん」  頷いている花陵を盗み見て、ヤガミは照れ笑いした。酒の席は口も心も軽くする。きょうのビールの苦みは格別だ。人生が煮詰まっているよう。いやまあ飲む度にそう思うんだが。 「馬鹿だね。私」  が、まだ相方は暗い気持ちを引きずっている様子。  僻みっぽいのは良くない。酒の席ではなおさらだ。  酒は人を心を軽くするものであるべきだった。酒飲みの席は明るくなれる場所であるべきだ。サラリーマンの退社後は、緩んだ口と軽い心で好き勝手言い合える時なのだ。  胸の内の発散と、陽気さを求める心の在り方が、居酒屋の天気を明るくする。  ゆえに、 「まあ、ビールでも飲むか」  ヤガミは馬鹿っぽいが完璧な答えを言った。 「俺は大馬鹿だ。きにするな」  そしてビールを注文する。飲んで笑って陽気になって、機嫌良く帰って眠りにつく。  そうして明日は、歩き出す。またといいながら、いつも通りに。