[足音]  秒針の足音が、ひどくゆっくり響いている。  首筋をぴんと引っ張るような空気と、耐えかねたような吐息。針金のように不器用に立っている女性を見て、英吏は記憶をたどった。  そう。確か、連絡が来ていたはずだ。最近再び渡航許可が下りて、第七世界人がやってきている。今日も同僚が、手紙を受け取ってふわりと笑っていた。源であれば迷わず「おいなんだよそりゃ」と尋ねただろう。あいつは何事につけあけすけだ。それがいいところでもある。  しかし、と英吏は身じろぎする。こうやって背筋を伸ばした女性が、そわそわしているのを見ると、どうにも落ち着かない。椅子でも勧めようかと思ったが、ちらちらとドアの方に目が向けているのを見ると、好きにさせた方がいいのでは、という気もする。ベルカインが戻ってくるまであとどれくらいか。  その脳裏に浮かぶ姿は、今ここに居る人とはまったく異なった女性だったのなのだが、もうそれは、本人にも自覚のないことだった。  ややあって、ドアが音を立てた。  まだ早く歩くのは難しい。心に体が追いついていたのはもうどれくらい前なのか。そんな頃が本当にあったのか、疑わしくなるほど昔の気がする。しかしそれでも、こうして今も歩いていられるのだから、本当、生きていると何があるかわからない。  顎がわずかに持ち上がる。口元は不思議と緩んでいた。しばらく前に届いた知らせのせいかもしれない。そこにはずいぶん久しぶりの名前が刻まれていた。今日はそれが楽しみで、柄にもなく、頭を冷やしてきますと言って散歩に出てしまったくらいだ。英吏は好きにしろと言っていたが、送り出す時の顔には、上等なコーヒーが口に合わなかった時のような微苦笑が浮かんでいた。  さて……。そろそろ戻ろうか。  潮気の混じった空気を吸い込んで、ベルカインは歩いた。夏の園の空気は暖かく、張り付くような潮気に満ちている。海の香りというらしい。そろそろ自分にも染みついていそうだと、ベルカインは笑った。  しばらく歩いて行くと、道の向こうからハリケーヌが姿を見せた。ひどく中性的な顔立ちのハリケーヌは、近づいてくると、「もう来てるけれど?」と楽しげに声を向けてきた。 「ああ。もうそんな時間になってましたか……」 「女を待たせるのはよくないですね」 「すみません。すぐ、行きます」 「無理して急いでもよくないですね」  言葉にはからかいの色が滲んでいた。ベルカインは少し困って、はい、と言いながら歩調を早めた。  が、足が思ったように動かなくて、散歩と進まないうちにふらついてしまった。はいはい、と言いながらハリケーヌが近づいてきた。肩を貸してくれるので、お礼を言って頼らせてもらった。 「あとでちゃんと誤解といておきなさい」 「? はい」  なんの事だろう。頭の中で思考がくるくると輪を描く。ハリケーヌに聞いてみようかと思ったが、この人物は答えないだろうという気がする。  結局、ベルカインの中に解決の感触は無く、混乱の余韻だけが残された。  とりあえず、急ごう。その事だけは、はっきりしていた。  ハリケーヌにドアを開けてもらいながら、ベルカインはゆっくりと中に入った。 「ただいま。ありがとう。ハリケーヌ」 「いえいえ、どういたしまして」  室内ではすでに彼女が待っていた。ぱっとこちらを振り向いて、大きな瞳を向けてくる。ハリケーヌが離れていくのを視界の端で捉えつつ、ベルカインは口を開こうとした。  が、  その途端。がくっ、と彼女は肩を落とした。髪がばさっと前に垂れる。  ……あれ? 「――――、っ」  体の前に回したバスケットを掴む手は、白い。それに肩が震えていた。俯けた顔は髪に隠れて見えないけれど、様子がおかしいのは明らかだった。  体調が悪いのだろうか。それは、よくない。彼女には元気でいて欲しいのに。  しかしなんとなく違う気もする。何が違うのかは、よくわからないけれど。  ベルカインは困って視線を泳がせる。その先には英吏が居た。英吏はいつもの表情を変えぬまま、ベルカインと、彼女を見比べた。それからいささか微妙な顔をして口を開いた。 「ハリケーヌはベルカインの手足となってかいがいしく世話をしています。かつて貴方がそうしていたように」  何故ハリケーヌの話なのだろう。事情が掴めないまま、ベルカインは曖昧に笑う。まあ、英吏の言うことだから、何か気を利かせてくれたのは間違いない。  しかしあんまり効果は無かったようだ。 「……う、う、うわあん! やつれてるって言うから心配して来てみたらー!」  彼女はバスケットを英吏に押しつけると、ずかずかと大股で駆け寄ってきた。両目がきつくこっちを見上げてくる。目尻に涙が浮かんでいるのを見て、自分はそんなに体調が悪そうに見えるのかな、と考えた。  落ち着いて、と言おうと思ったけれど。こうして聞き比べると、自分の声はずいぶん細い。やっぱり元気なのはいい。見ている方の心も、暖かくなってくる。ベルカインは知らず、微笑みを浮かべていた。 「うわーん確かに私こっちには長くいられないし来るのにも旅費とか手続きとかあるけどー、うわーん!」  と、抱きつかれた。額を思い切り胸にぶつけて、背中に回された両腕がぎゅうぎゅうと体をくっつけてくる。  鼓動が加速した。息苦しさが胸と喉に迫ってくる。ベルカインは彼女の頭を見おろしながら、慌てた。顔が見えない。いや、抱きつかれているから、当たり前なんだけど。  やっぱり、やつれているように見えるのがいけなかったか。いつもいつも心配をかけていたし。多分、そうなんだろう。もっと元気に挨拶をしよう。 「おひさしぶりですっ」 「です、なんて付けられたら何だか他人に思われてるみたいでいやですー!」  いや自分は付けてるけどー! 額を押しつける力も、腕の力もどんどん強くなってくる。そのくせ膝に力が入らないのか、段々滑り落ちていきそうになるので、ベルカインは慌てて腕を回した。抱きしめ返す形になりながら、いやしかし、これは、えっと。 「大丈夫…?」流石に答えてもらえそうになかったので、頼みの綱の英吏を見る。「ですか?」 「俺を見るな」英吏、珍しく声が揺れた。「いや、失礼」  慌てて席を立つと、彼はベルカイン達の脇を抜けて外に出て行った。って、あれ?  ……取り残されてしまった。  迷子になった子供のように途方に暮れるベルカイン。天井を仰ぎたくなるのをこらえながら、ベルカインは悩み、結局、彼女の背中をさすることにした。苦しい時は、そうしてもらうのが一番楽になるというのを思い出したからだった。  彼女はしばらくぐすぐすと泣いていたが、やがて落ち着いてくると、面を上げた。目元がすっかり赤くなっている。 「えーとね、あのね、少なくとも私はベルカインのこと恋人だと思ってるわけ。その恋人がね、他の女性……だかちょっとわかんないけど、ぱっと見女性と仲良くしてると嫉妬するのー」  …………………………………………、え? 「……女性?」 「えっ」  ぽかん、と口を開く彼女。ベルカインも、その目を見たまま硬直してしまう。  言葉の意味を飲み込む間に、秒針がちくたくと十歩進んだ。  じわじわと、背中に嫌な汗がわいてくる。ああまさか。まさか。 「……ごめん。ぱっと見女性っぽく見えた訳だけど……もしかして男の人? さっきのハリケーヌさんって」 「……いや、失礼すぎて聞いたことはないけど……」  聞かないでいてよかった。心のそこからそう思いながらベルカインは溜息をついた。というか、そうか……。確かに。中性的な顔立ちだから。英吏は知っていたのだろうか。いや、まあ、うん。わざわざ墓穴を掘る事はない、な。うん。  ああしかし。なんとか一息つくと、ベルカインの中で今までのやりとりに一本の筋が見えてきた。ピースが音を立ててはまり始める。つまり、そう。彼女のこういう態度は。つまり、  ぱちん、と最後の一欠片がはまった。  ようやく意味がわかった。彼女はそれでこう。……そうか。そうだったのか。  そんな心配をしなくてもいいのに。 「……はー、はー……ええと、ごめんなさい」  彼女は一歩離れた。肩を上下させて、大きく息を吐く。表情は落ち着きを取り戻していて、さきほどまでの様子が嘘のようだった。彼女の中でもいろいろと納得がいったらしい。  ベルカインはほっとしながらも、空っぽになった自分の両腕に視線を下ろした。……ちょっと、もったいなかったかな。まだわずかに残っている暖かみを、ふわふわする感覚で味わいながら、そう思う。  しばらくそうしていると、彼女は不思議そうにこちらを見つめてきた。視線がぴたりと一致する。  彼女の頬が、じわじわと赤くなっていった。  彼女は瞳を真っ直ぐこちらに向けたまま、再び歩み寄ってきた。  きゅっと、身を寄せてくる。今度はさっきよりも優しく腕を回された。 「……えーと、この方がいいですか?」 「うん」  ベルカインは再び彼女の背中に腕を回した。今度は逆に、少しだけこっちから力を込める。  柔らかくて、暖かい。じわじわと伝わる体温は心まで溶けてしまいそうだ。光を抱きしめているみたいだなと、ベルカインは思った。 「……参ったなあ。いくつか話あったのに、割とどうでもよくなっちゃった」  彼女はふわふわした声でささやいた。ふと、匂いをかがれている気がして、少しだけ気恥ずかしくなった。  悪戯心がむくりと鎌首をもたげる。こっちも首元に顔を埋めてみようかなと、頭の隅で誘惑が身じろぎした。  ああ。それで、思い出した。 「髪の色、変わったね。魔法?」  彼女はわずかに身じろぎしつつ答えた。 「ううん。ええと、こっちの身体というか……取っ替えたの。今は僧侶だから、ちょっとした怪我なら治せ……るかなあ。能力低いから」 「なるほど。僕も交換できればいいんだけど……」  そうすれば健康になって、今よりも心配をかけずにすむし、もっと一緒にいろいろできるだろうに。空想はすぐに頭を満たした。歩くたびに考える事だったから、そうやって健康な自分を想像するのは、ほとんど呼吸のようなものだった。こんな風にあれもこれもととりとめのない自分は、まるで小さな子供のようだ。もしもという金貨を小さな手の平に握りしめて、あれもこれもと言いながら市場を駆け回っている。  ――そうやって、走り回ることができたなら。  ベルカインは微笑んだ。 「いや、それなら貴方にもハリケーヌにも出会えなかったか」  それは寂しい。この腕の感触は、かけがえの無いものだ。 「ごめんね? ……体力、大丈夫?」 「うん。ありがとう」  こちらを見上げる彼女は、ほっとしたように口元を緩めた。表情から気負いが溶けている事に気付いて、ベルカインもほっとした。 「それならよかった。ええとね、お見舞いにブランマンジェ持ってきたんだけど……あ、英吏さんに渡しちゃった」 「それはなに?」聞き慣れない単語に小首を傾げる。 「えっとね、こっちの世界のデザート。白くてやわらかくて甘いの。ベルカインやつれてるって聞いたから、食べやすいのがいいかなあって」 「ハリケーヌがよくしてくれるから」  そんなに心配しなくても大丈夫だよ、と言うつもりだったけど。彼女の浮かべた微苦笑を見て、なんとなく言葉を止めてしまう。何か誤魔化しているような、そんな気がする。けど、人を悪意で見てはいけないなと思い直した。  それに、彼女の作ってくれたお菓子は気になった。 「僕の分も、あるといいけれど」 「む、また買って来る!」 「そうだね。また…1年か2年のうちまでには」 「何で時間指定しますかー!」  それは、単に今回がそのくらい時間が空いたから……。ああでも、向こうにも事情は幾つもあるだろうし。あんまり無理を言ってもいけないかな。ああいや、そうじゃない、のか? ええと。  いいか。抱きしめられていたら、そんなのは細かい事だという気がしてきた。 「そうだね……では、いつか」 「うわーん旅費貯めて頑張ってまた来るからー!」  うん。楽しみに待ってる。  ――そう言うのは、流石に気恥ずかしかったので。ベルカインは心の中に言葉をしまう。  その代わり。時間が歩み続ける限り、ベルカインは彼女の背中を撫でていた。