[日の照る道で]  目が覚める感覚がする。それはすっかりと冷えた肌が、じわじわと熱を帯びていく感覚に近い。カーテンの隙間から、夜に冷やされたしっとりとした空気に、陽射しの仄かな暖かみが混じり始める。そんな印象。  皮膚が柔らかく包まれるような感触。そっと、撫でられるような暖かみに、自然と顔が優しさを思い出していく。  そう、思い出していく、という感覚が一番近い。  眠りから覚めていく感覚、頭の中の靄が晴れていく印象。幾重にも照れ下がった薄い絹のカーテンをそっと左右に分けていき、おぼろげな景色の向こうへと向かっていく意識。  それが目覚めの感覚だった。  子供が親の部屋を尋ねるように、そろそろと瞼を開いたとき、ベルカインは縁側に座っていた。陽射しはとっくに空の上の方に登っていて、世界を余さず照らしている。まだ、光に不慣れな瞳が、景色にちかちかと緑色を閃かせる。  うとうとしていたんだ、と、ベルカインは思った。  驚きが、頭の中にふわりと翻る。  眠ることはあまりない。どちらかというと、眠るときと、目を瞑っているときに、違いがない。瞼の内側に思い描いた景色、その続きが、眠りの中で見る夢だ。そして夢から覚めては、また瞼の内側の景色を見つめる。  最近はしかし、瞼の内側に何かを思い描くことは少ない。目を瞑ったとき、ベルカインが思い描くのは暖かさだ。色も形もないけれど、確かに自分を包んでいるその感触が楽しい。  夜になれば、やや冷たい空気が皮膚をひりつかせる。そして徐々に熱を奪っていき、おやすみなさいと体を包む。  朝になれば、暖かみを溶かした空気が眠りの底からそっと体を引き上げてくれる。  目を瞑ったまま、その感触を味わうのが最近は好きだった。  ――うまく説明出来ないなと、ベルカインは思った。印象はなんとなくあるんだけど。  そんな事を考えていると、口が地を擦る音が聞こえてきた。テンポはいいけれど、少し小さな足音。緊張の香りのする音に、ベルカインは首を曲げた。  そちらから、一人の女がやってきた。こんにちはーという挨拶に、自然と、風が吹くように微笑みが浮かんだ。自らに溶け込んだ陽射しの暖かみが、そうさせたのかのように。  山吹とベルカインは道を歩いていた。ベルカインの歩調は遅い。その動きは時計を思い出す。幾重にも重ねた歯車によって、ゆっくりと刻むことを定められた長針。  時々、その足に力がこもらなくなる。それを見越して山吹はベルカインのすぐ側に立っていた。ベルカインが視線を下ろせば、白いカーディガンに覆われた肩が、すぐ側で揺れているのが写った。  今は、久しぶりの買い物だった。ペンダントのチェーンを買う、という。それを見繕う、外出だった。  山吹はちらちらとこちらを見ている。心遣いが嬉しく、ベルカインはそっと微笑む。……何故か、山吹が揺れた。再び前を向いたときには、ほんのりと耳に朱色が差していた。 「えと、お店は商店街の方にあるんです」  山吹はぽつぽつと話し始めた。ベルカインは「はい」と頷いて、それで、少し考えた。  チェーン、か。  時間はかかったけれど、貴金属店にたどり着いた。流石に商店街は人気が多く、店の前に立った二人の後ろを、何人も人が通り過ぎていく。賑やかな足音に、話し声。空気に溶け込んだ食べ物の香り、人の香り。  それらが、そっと背中を押すような感覚で、歩を進めた。  小さな店の中は、そこだけ時間を切り取ったようにしっとりとした空気に満たされていた。テーブルにひかれたクロスの上、左右の棚に、結構な感覚をあけて指輪やネックレスが展示されている。よく見てみれば、時計や、燭台といったものもあった。小さなものが多い。  個人が営んでいるのだろうか。山吹が奥の方に声を掛けると、店主がすぐに現れた。少しせわしない感じでとたとたとやってきた店主に、山吹が口を開く。 「すみません。ペンダントトップを付けるのにちょうど良い長さのチェーンを探しているんですが」 「あ、はい。色々ありますよ?」  店主はそう言うと、少しお待ち下さいと、左手の壁の方に歩いて行く。その下にある引き出しを開いて、大きなケースを引き出し、手近な、そこだけ何も置かれていないテーブルの上に置く。二人はそこに近づいていった。  店主の言う通り、いろいろなチェーンがあった。金も銀もあり、ベルカインには長すぎる物も、丁度いいくらいの物もあった。  ベルカインはその中の一つに一瞬だけ目を止めた。それから、視線を外して、山吹を見た。横顔の彼女は、店主の説明を聞いて、ふむふむと頷いたりしている。  なんとなく嬉しくて、体の内側を淡く暖められていくような機がした。 「あ、リクエストがありましたら言ってください。あなたに差し上げるものなんですから」  山吹はそう言ってこちらを見る。期待とか、楽しさとか、明るさに満ちた表情。  それに後押しされたような気がして、口を開いた。 「……金で」  少しだけ、咽に突っかかる。ベルカインはもう一度言い直した。 「金でお願いできますか」  山吹は笑って頷いた。  店を出た。首からかけた金のチェーンを、そっと手で押さえる。その先には、つなげられたペンダントが胸の上で揺れていた。 「ありがとうございます」 「どういたしまして。喜んでもらえたみたいでとても嬉しいです」  山吹は楽しそうに笑った。  二人で帰路を歩いて行く。ベルカインは、行きよりも調子がいい気がした。歩調は変わらない。しかし、少しだけいつもより視点が高い。道行く人々がどこからきて、どこに行くのかが、鮮明に見える。陽射しを浴びて、ひらめく表情も。  体にいつもより力がこもる。足が自然と、次の一歩を求めているような気がした。  山吹はこちらを見る。少し心配しているような、困ったような、けど楽しそうな。  そう。人は、こんな風にいろいろな気持ちが入り交じっているのだった。  日の照る道で人々が浮かべている表情。単純な気持ちがいくつも重なって浮かび上がるもの。  自分も、また、そう。  久しぶりの緊張が、体に熱を加えている。  いつ、言い出したものか。  どうやって、口にしようか。  心臓がいつもより少しだけ早い。それを落ち着けようと息を吸う。  傍らを一緒に歩く山吹の横顔を見る……つもりが、彼女はこちらを見ていた。不思議そうに、小首を傾げている。 「何でしょう、ベルカイン」  ――――ああ。  そう言えば、いいのか。 「山吹は、金色に使う名前、ですよね?」 「あ、はい。そうです……よくご存じですね」  きょとんとした山吹が、そのまま数歩歩く。ベルカインはチェーンにもう一度触れると、手を離して歩いた。 「………………、っ」  じわじわと、山吹の横顔に朱色が溶け込んでいく。それにあわせて、見開かれる目。ちらちらとこちらを見ている。 「あ……ありがとう、ございます……」  段々と声が小さくなる。視線も、ずれていく。顔も俯いていく。今は、彼女の方が支えが必要なくらい揺れていた。 「今日、金をはじめて好きになった」 「え?」山吹がこちらを向く。 「ダメですか?」その瞳を、じっと見つめる。  山吹はぶんぶん首を横に振った。 「いえ、まったく」  ベルカインは笑った。  楽しかった。……いや、違う。これは、 「嬉しい」  こうだ。  ベルカインは、もう少し涼しくてもいいなあと、ふとあまり関係ない事を思った。そうしていると、隣から 「……ええと、でも金も、きっとあなたに好きになってもらえて嬉しいと思いますっ」  山吹はまだこちらをじっと見たまま、そう言ってきた。  ベルカインは笑った。今度は、なんだろう。少し背中がむずがゆいような、そんな感覚。  楽しくて、嬉しくて。今なら前に進めそうで。  ゆっくりと、前に歩いて行く。山吹は半歩下がって、その姿を見守るように歩いていく。  二つの足音が、ゆっくりと響く。暖かな陽射しにつつまれた、道を。