[月見酒の思い出]  ほてった体に風があたる。  潮気を含んだ、海の香り。耳を澄ませば、草葉の擦れる音と共に波音までも迫ってくる。  見れば、柵の向こうには黒々とした森。そして、月明かりの化粧を帯びた海が見える。深みを帯びた夜は、静かであるのに騒々しい。  夜明けまではまだ遠い時間。バロはベンチに座って、杯を持っている。  傍らには徳利。反対側には、双海環が座っている。  飲み始めて、まだ三十分ほど。月と互いとの出会いを肴に、静かに夜が更けていく。  バロが顔を向ければ、双海の顔はすでに赤い。闇夜にも明らかなほどだ。銀色の髪の下の頬は熟れたリンゴのようだった。  少し緊張していた顔は、酒のせいか時間のせいか、今はずいぶん落ち着いている。  バロは杯をあけた。双海はしばらくぼんやりしていたが、ふと、視線を落とすと、杯がからな事に気付いた。バロが軽く手を揺らす。双海はにこにこ笑いながら、自分の持ってきた徳利を傾けた。 「もうそろそろ空ですね」 「うん? もうそんなか」  バロはわざとらしく驚いてみせる。双海は、そうですよーといいながら、よいしょ、と腕を伸ばす。  腕を持ち上げるバロ。その膝に手をついて、双海はべたんと倒れた。 「おお、どうした」 「あはは」  双海はバロの持ってきた徳利を持って、体を戻す。それからこてんと寄りかかってきた。 「まだまだあるんですからね」 「俺が持ってきた物ではないか」 「ですね」  うん? 何か変な気がするバロだったが、まあいいかと、今持っている杯を煽った。  すかさず徳利を傾けようとする双海。その手をそっと押さえて、バロは徳利をベンチに置いた。 「しかし、働かせてばかりというのも気が引けるな」 「私はこれが好きなんですよ」  そうか、と頷きつつ、バロは口を閉ざした。目を瞑る。  少ししてから、目を開いた。 「昔、こういう夜になると釣りに出るやつがいたな」 「釣り?」 「ああ。月を釣るんだと張り切っていた。そいつは、細い竹に頑丈な革紐をくくりつけた釣り竿を持ってな。月の出る晩は必ずそうやって出て行った」 「月は釣れたんですか?」 「さて。ついぞ釣れたという話は聞かなかったが。毎晩出て行く時は、楽しそうに、今夜こそ釣ってくると言っていたよ」  そう言って、バロは月を見上げる。  ある日は河で、ある日は海で。ある日は、大きな水たまりに向かっていた。  そいつとはずいぶん前の戦いで死に別れたが、今頃は、さて、どうしていることやら。 「………………」 「………………」  きょとん、とした顔の双海。バロは苦笑した。照れ笑いを誤魔化すように、杯を手にする。 「いや。月を見ていたら、少し思い出してな」 「インパクトがありますね」 「そうだな……」  ついでもらった杯を口に運ぶバロ。小さく頷く。  すっかり冷えてきた頃、バロは立ち上がった。双海は頬の火照りがまだ残っていたので、どれ、一つ礼をする事にした。 「さて、と」 「え。わっ」  抱えられて、一瞬、体をばたつかせる双海。それから、別の理由で顔が赤くなっていく。それに気付かないバロ。 「重くないですか……?」  やや心配そうな声に、バロは小さく笑いをこぼした。 「そういう事は無いな」 「そう、ですか。えっと……」 「何、酒の礼だ。月を見るといい」 「……はい」  頷き返される頃には、パロもまた、月を見上げている。  白い、月。  これを見た時に、いつかまた、この夜のことも。 「さて、行くか」  バロはそう言うって歩き出した。