[デート模様]  鼻歌が聞こえる。雑踏であれば聞き逃してしまいそうな小さな声で、カヲリは何かを口ずさんでいた。そっと重ねるように添えられた片手が、ほのかに暖かい。息は白くふわりと膨らんで、雲に溶けていく。  玄乃丈は片手を頬にあてた。少し撫でる。やや、顔が緩んでいる気がした。 「機嫌がいいな」  誤魔化すように言ってみる。カヲリは、こちらを見上げた。ふわふわと笑っている。 「はい」 「そんなに。あー。結婚したかったか?」  つい先ほど、結婚しようかと打ち明けたばかりである。あのときはさらりと言えたのに、何故今言うのがこんなに照れるのだろうか。内心でやれやれとこぼす。 「はい。ずっと傍にいたいんです」  が、そこでふわりと笑って頷かれるので、我慢はあえなく失敗した。こちらも、つられて笑ってしまう。 「そうか」 「はい」  わずかに、手を握る力が強くなる。気遣うような、けれどももっと自己主張したいというような、ほんの微かな力の差が、暖かさを伝えてくる。  夕暮れが空を眩しくする。街並みに戻ってくると、じゃっかんのざわつきが道を満たしている。通りを行き交う人々。帰路につく子供達。それとは別に、ようやく仕事の始まりだと、ドアの札を変えていく飲食店。 「なんか食べるか?」 「はい」  問いかけると、こくこくと頷いてきた。よしと、玄乃丈は頷いて、それからしまったという顔で立ち止まった。 「玄乃丈さん?」 「いや……まあ、そうだな。何が食べたい?」 「えっと、そうですね」カヲリはきょろきょろと辺りを見渡す。「お勧めの所って、ありますか?」 「あー。まあ、あるっちゃあるが」  首を傾げるカヲリ。玄乃丈はしまったなあという顔。  行きつけの店はある。行きつけというと飲み屋のような印象が浮かぶが、まさに飲み屋だ。玄乃丈のレパートリィにあるのは幾つかの飲み屋と、それと屋台である。が、どちらも、こういうデートコースで連れて行くにはどうだろう、という気もする。特に騒がしい方は苦手なんじゃないかと思った。  まあ。聞いて見るか。 「ラーメンとか、いける口か?」 「好きですよ」 「それなら、旨い屋台があってな。どうする?」 「行ってみましょう。楽しみです」  そう悪いチョイスではなかったらしい。玄乃丈は、じゃ、行くか、と言った。  屋台は通りから少し離れた、公園の中にある。何でも、裏マーケットで手に入れた車を自前で改造して作ってしまったらしい。白い大きなワゴンは側面がぱかっと開いて外側に突き出ている。そこに、安物の椅子が六脚一列に。今日はまだ人が来ていないらしく、屋台の親父は新聞を片手に肘を突いて暇そうにしていた。 「よお」  玄乃丈の声に、親父が目だけを持ち上げた。それから口の端を振るわせて微かに笑うと、隣にいる、カヲリを見た。 「別嬪さんを連れてるな。依頼人かい?」 「いんや。プライベートだ」 「初めまして」 「初めまして。……プライベートねえ。光栄なこった」  親父は新聞を畳むと、それ以上何も言わずに車から麺を取ってきた。ぐつぐつ音を立てている湯の中に、麺上げごと突っ込む。 「何を付ける?」 「え?」 「ここは、ラーメンは一日一種類だけなんだ。毎日変わるが」玄乃丈は席に着いた。椅子を引いて、カヲリに示す。「指定できるのは、トッピングだけ。今日は?」 「醤油だ。野菜は無名産。麺は世界忍者の小麦と卵。豚は、フィーブルから仕入れた」 「珍しいな。帝國産の物が多かったのに」 「FEGから仕入れてきた。たまたまあった優男が、妙に詳しくてな。その伝手で、安く仕入れた。味は保証する。まあ、何故かネギだけは自分で探さなきゃならなかったが……」 「へえ。卵一つ増やしてくれ」 「あいよ。おまえさんはどうする?」 「うーん」ちらと玄乃丈を見てくるカヲリ。 「全体的に少なめにして、代わりに旨いところを付けてくれ」 「あいよ」  食べ終わった時には、すっかり日が暮れていた。けれど寒さは無い。ラーメンは温かく、体の芯まで温めてくれた。あっさり目の味付けで、親父が自慢する通り味は抜群だった。この親父、趣味で屋台を回しているだけあって、味には(時に採算度外視して)もの凄くこだわる。 「ごちそうさん」 「ごちそうさまです。美味しかったあ」 「そりゃ良かった」親父は笑った。「しかしお前、デートならもっと行く所があるだろ」 「味については、一番だと思ってるんだな」 「また来ますね」 「おやおや」親父は肩をすくめる。「毎度あり」  二人が椅子から離れたところで、入れ違いに、数人の客が来た。親父との話し声を背中に、二人は暗い道を歩き出す。 「送ろう。どっちに行けばいい?」 「ありがとうございます。こっちに。……えっと、」  カヲリはまた手を延ばす。玄乃丈はそっと笑って手を取った。 「美味しかったですね」 「いやまあ。本当はもっと高い店に連れて行ければ良かったんだろうが」 「そんなこと無いですよ。緊張してしまいます」 「そうか?」 「それに、美味しかったですし」 「そうだな。あそこは気に入ってる」 「また行きましょう」 「ああ」  のんびり話ながら歩いて行く。帰り道は意外と早く、すぐに、家に着いた。玄関の前で、玄乃丈は立ち止まる。 「じゃあ、また」  そして、家の前で離れていこうとする。  ――が、くいと手が引っ張られた。 「ん?」 「その……」  カヲリは少し緊張した顔。 「あがっていきませんか?」 「え」 「もっと一緒にいたいなって……」  言ってる端から、顔が赤くなっていく。玄乃丈は迷った。迷った後に、少し慌てている事に気付いた。  さて。どうするか……。  答えを待つカヲリ。手は握られたまま。  やれやれ、を心の中に一つ残して。  玄乃丈は、口を開いた。