/*熱い紅茶*/  そっと、カップを戻す。  陶器同士のぶつかるかちりという音。琥珀の水面はわずかに波打ち、やがて重力に引き延ばされて穏やかになった。液面からふわりと膨らむ白い湯気が、紅茶の温度を教えていた。  舌がひりひりする。思ったよりも熱くて、エステルは咳き込みそうになるのを必死でこらえていた。つん、と澄ました顔。喉がひきつりそうになるのをこらえつつ視線を持ち上げる。すると、シグレは平然と紅茶を飲んで、あまつさえ空のカップにポットから新しい物を注いでいるではないか。  ちょっと、なんというか、むっとした。  エステルは努めて平気なふりをしつつ、もう一杯紅茶を飲んだ。やっぱり熱い。舌が溶けてしまいそうだ。  冬の園。やや時間が遅くなったからか、満員だったはずのカフェはずいぶん空いていた。だから窓辺の席に二人が座る頃には、そのぶんメニューも寂しいことになっていたが、紅茶だけはそうではなかった。二人に挟まれた白いテーブルには、花の香りのする紅茶のポットと、店長がサービスと言ってつけてくれた手製の焼き菓子が並んでいる。籐で編んだ丸い入れ物には、こんがりと焼き色のついた様々な形のクッキーが並んでいた。  エステルは紅茶を諦めてクッキーを手に取った。親指と人差し指でつまんだそれをしげしげと見つめた後、口に含め。  噛めばさくさくと形が崩れて、甘い味が夏の陽射しのように広がった。エステルは目を丸くする。 「おいしいですね」 「そうですね。あとでもらっていけないか聞いてみます」  言いながら、シグレはやや落ち着かない感じで眼をきょろきょろさせている。エステルはちらりとそちらを見て、やれやれと内心でため息をついた。  良く意味がわからないまま指輪を渡されそうになったのはついさっきのことだ。罠の香りを感じて説明を求めたが、シグレはしどろもどろになるばかりでいっかな説明がうまくいかず、結局、がくんと肩を落とした彼を見かねてここにきた、というのがこれまでの経緯である。  説明すればいいのに、とエステルは思う。結婚とは何なのだろう。帰ったら辞書をひこうか。それとも、ちょうどさっき見かけたことだし、知恵者に聞く? ――嘘を教えられそうな気がする。  自分で調べよう。こちらには不思議な習慣がたくさんありすぎる。 「えっと、エステル?」 「はい?」  思考の宇宙遊泳をしていたエステルは、シグレに呼びかけられて戻ってきた。 「怒ってます?」 「別に」  どこかおどおどしたているシグレを見て、エステルはなんとなくむっとなってカップを取った。そしてうっかり勢いよく紅茶を口に含んでしまい、熱っ、と言ってむせる。 「え、大丈夫?」  身を乗り出すシグレ。エステルは涙目になりながらシグレに目を向けた。必然的に、睨んだ形になってしまう。 「大丈夫です。ちょっと熱いだけで」 「あー。なるほど」  言いながらシグレは、ちょっと考えてエステルのカップを取った。  何をするんだろう、と見ていると、シグレは口元にカップを近づけた。 「あ、」  危ない、と言いかけた時、シグレはカップを止めた。口の前で。  そのまま何度か息を吹きかけ、カップの表面を触り、確かめてから少し飲んだ。 「熱っ」  が、案の定。彼はほとんど紅茶を飲めなかった。 「なんでこんなに熱いんだ?」  シグレは不思議そうにいいながらカップを置いた。 「だから言ったでしょう」 「そうですね……。あれー? あ、こっちを飲みます?」  自分のカップを渡すシグレ。エステルは受け取りつつ、琥珀色の水面を睨んだ。 「これは大丈夫なんですか?」 「えっと、たぶん」 「…………」  エステルはしばし悩んでから、紅茶を飲んだ。  あら? 「こっちは飲めます」 「これだけもの凄く熱いですよね」 「うむ。気に入ったかね?」  二人はびっくして右を向いた。はち切れそうなエプロンを着た知恵者がいる。 「そのカップには魔法を施してある。中に入れた物は絶対に冷めん」 「このっ!」  クッキーを投げつけるエステル。知恵者はキャッチ。 「そなた達の関係とうまくかけたと思ったのだが」 「なんですかそれは」 「らぶらぶではないか、そんなに真っ赤になって。ふははは」  反射的に立ち上がるエステル。もう一度クッキーを投げる。笑いながら消える知恵者。笑い声が残る中、エステルは自分の顔をやたら熱く感じた。  どういう嫌がらせだ、まったくっ。  シグレは何となく立ち上がりエステルの隣に立った。 「えーっと。変わった人ですね」 「嫌なやつと言うんです。まったく」 「えーと、……舌は大丈夫?」 「大丈夫です」  とにかく反射的に答えるエステル。シグレの方を見た。  シグレがじっとこちらを見ている。少し笑った。 「よかった」 「…………」  エステルは目を逸らした。顔が赤くなっている気がする。こんな事を言われたら赤くなってしまうのも仕方ないではないか。それに。  そう。それに。こっちばかり赤くなるのはずるい気がする。  だんだん自分でも変な方に考え始めているとは思っていたが、エステルはシグレの、どことなくのんびりした表情を見ているにつれて本気でどうにかしてやりたいと思ってきた。  どうしてくれよう……。  そうだ。 「本当は痛いです」 「え?」  驚いた顔のシグレ。エステルは、相手が罠にはまったことに満足した。 「確かめてみますか?」  シグレがなんと返していいかわからないうちに、エステルは顔を近づけた。キスをする。  舌が一瞬触れる。  ……だんだんと顔を隠していくシグレ。エステルはふふん、と思いつつ、だんだん無性に恥ずかしくなってきて、誤魔化すように口を開いた。 「顔が赤いですよ」  そう言って、テーブルの方に顔を向ける。  席のすぐ横、窓硝子に写ったエステルの顔は、熱すぎる紅茶でも飲んだみたいに耳まで真っ赤になっていた。