/*甘い海*/  浜辺には波と人の声が打ち寄せている。夏の陽射しは遠く、暑く、砂浜と海を白く照らしている。肌にはじんわりと汗が吹き出し、服が肌にまとわりつく。木陰に入ると、亀のようにのんびりとしたそよ風がそっと体をなでていった。  青空を見上げていた爽一郎は、のんびりと視線を下ろした。  隣を歩いている女性。麗華はおとなしめの微笑を浮かべていた。  万事、表情やそぶりがおとなしめなのが彼女の特徴だ。しかしそれはそれで、実は、油断ができない。態度がおとなしい事からといって希望している事までおとなしいかというと、もちろん、そうではない。無言の要求に気づかないでいると、やがて、野心に燃えた王様のように突然決起する事があるのだ。そうなったら、こちらはもう、苦笑混じりに征服されるしかない。  そこまで想像して、爽一郎は苦笑した。決起も征服も彼女のイメージではない。というのも、やっぱり、普段のおとなしい印象が強いからだろうか。  視線を下ろす。左手を見れば、強く握られていた。肩の距離が近い。  話題はたわいないものから現在の施錠に関するものまで、様々な方向に飛んだ。爽一郎は彼なりに真面目に答えていたが、口調はあくまで穏やかだ。夏の園は暑く、心までアイスクリームのように溶けている気分だ。  もっとも、その熱の原因は陽射しにはないのだが。 「えと……あの、それでね」  話をきって、麗華が言った。彼女の顔を伺う。全てを言い切る前から、彼女の顔はほんのりと赤く染まり始めていた。 「いろいろ心配ではあるけれど、今日はプラチナ使ってきてるからできればもう少し甘い話がいいかなぁ……」  なんて、と照れ笑いをする。言い終えた頃には、彼女の顔の赤さは、口調のおとなしさを裏切るくらいになっていた。爽一郎は笑った。 「いいね」  こうして歩いているのだから、やはり、爽一郎としても甘い話題の方が嬉しい。 「たまには私の名前呼んで、甘い台詞の一つも聞きたいかも」  しかも、そんな事まで言われてしまうと、爽一郎も少し照れてしまう。 「愛してる。は普段から言ってるぞ」  言い返す声は、我ながら、少し楽しそうだと思った。  さて、もう一つの希望か……。 「麗華というのは、なんだか照れるな」  言い慣れない呼び方をして、爽一郎は頬を掻いた。照れている麗華を見て、もう少し照れなく言えるようにと、心の中で二回、三回と繰り返してみる。麗華、麗華、……。  やはり、恥ずかしい。しかし恥ずかしさはどことなく気分を高揚させた。嬉しい、というのとは違うけれど、どこか、楽しい気分だった。  爽一郎の心の中で、むくりと、童心が頭を持ち上げた。 「爽一郎さん?」  表情に出たのか、麗華が不思議そうな顔で見上げてくる。爽一郎は笑ったまま口を開いた。 「手を横に?」 「え? うん? これでいい?」  両手を持ち上げた麗華。爽一郎は手を伸ばして、彼女を抱え上げた。抱き上げて回ろうとして、踏鞴を踏む。意外とバランスを取るのが難しかった。勢いをつければ、とも思ったが、彼女のお腹の中にいる子供のことを考えると、そこまで強く回せなかった。 「きゃ。え? え?」  驚いている麗華。爽一郎は、自分が笑っていることに気づかなかった。何度か回ろうとして、ようやく動きを止めた。映画見たくはいかないなと思っていると、麗華がすかさず首にしがみついてくる。 「嬉しいものだな」 「うんっ」  ぱっと笑って、彼女はキスしてきた。唇の感触は、うまく回れなかった記憶を軽く吹っ飛ばして、ついでに恥ずかしさもどこかに連れて行かれてしまった。 「麗華」  もう一度名前を呼んでみる。さっきより照れなく言えた。 「爽一郎さん……」  彼女は何かをねだる顔。目を瞑った。  一瞬考えた後、爽一郎は自分からキスをする。  正解だった。麗華は嬉しそうに笑った。 「えとね……あのね……えーっと……何か忘れてない?」  いや、違った。彼女は苦笑いをかみ殺しているような口調だった。 「忘れていたのなら悪いが、心当たりがない」 「なんか足りなくないですか?」  なんの話だろう……。  爽一郎は数秒考え込んだが、何も思いつかなかった。 「良く分らんな」 「もう。バカ。指。指」  麗華は顔を寄せてきて、ちょっと怒ったように言った。  耳に柔らかな感触。噛まれた。  ……が、頭の中は恥ずかしさよりも混乱で一杯だった。耳を噛まれているなぁ、と、何となく想像ができても、それがどういう状況なのかどうしても頭が理解できない。というか、何が足りないのか、必死で考え込んでいて、それどころではなかった。一体何だ。 「指が?」 「もー」  がっくり。麗華は肩を落としてちょっと顔を離した。 「私このままだとシングルマザーなんですがー」 「おいおい。俺がいるだろ」  何を言い出すんだ。いやまて、落ち着け。なんの話だ? 自分は何か勘違いしているんじゃないか? ますます混乱する爽一郎。 「私、まだ独身ですよー?」 「は? ――まあまて。いいか。お前の名前は?」 「矢上麗華。だけど式も入籍もしてないよう」 「入籍はしてるぞ」 「え? え?」 「ちゃんと改名した日のうちに手続きしている」  間は、たっぷり十秒開いた。 「ええ――――――!」  この瞬間、彼女の頭から指輪をねだると言うことがすっかり吹き飛んでしまった。が、勿論爽一郎が気づくはずもない。 「な……な……ですかそれは初耳ですが……」 「俺がそう言うこと手抜かりするわけないだろう」  なんだか、知らないところで罠を張ってしまったらしい。まあ、でも、なんとなく、楽しい。気分は悪くない。爽一郎はいい感じに笑った。 「早く言ってよう。……ず――――っと悩んでたんだからー」  しかし、罠にはめられた方がそれで納得するはずがない。  彼女はぎゅむりと抱きついてくると、肩に噛みついてきた。かじられながら爽一郎は彼女の頭に手を延ばす。豊かな髪をゆっくりと梳いてやる。 「もう、もう。信じられない……っ」  まだ首筋に顔を埋めたまま彼女は言う。そんな彼女の様子に、爽一郎はちょと悪戯心が刺激された。 「こうしてるのと、散歩を続けるのと、どっちがいい?」  耳元でささやきかける。  えっと、……と、彼女は答えに悩む。 「もう少し、こうしていたいな」 「わかった」  爽一郎は小さく頷くと、彼女の首筋に顔を埋めた。 「ひゃ」  キスをする。 「もう少しこうしていよう、麗華」  そうささやいて顔を離してたら、彼女は耳まで真っ赤になっていた。