/*一口目の味わい*/  少し笑わせてやろうと……、そう思って準備をしていた。  お金は充分にある。道程は、体に負担にならないように気をつけて。荷物も現地調達で、財布の他に、用意する物は何もない。  あとは、手をつないで歩くだけ。  広いリビングの真ん中に立って財布を確かめていた爽一郎は、 「よし。行くか」  といって振り返った。 「……えっと。……聞いてもいい?」  その後ろ、一歩踏み出すより少し近いくらいのところで、長い髪の女性が立っている。  彼女は小首を傾げ、目を丸くしていた。胸の前で片手を軽く握り、少し心配しているような様子である。  どこか。ガラス細工じみた儚い印象がある彼女は、矢上総一郎の奥さんである。……余談だが、何故か最近まで、結婚している事を自覚していなかったという話があり、 「もー。私このままだとシングルマザーなんですがー」 「おいおい。俺がいるだろ」 「私、まだ独身ですよー?」 「は? ――まあまて。いいか。お前の名前は?」 「矢上麗華。だけど式も入籍もしてないよう」 「入籍はしてるぞ」 「え? え?」 「ちゃんと改名した日のうちに手続きしている」 「ええ――――――!」  などという会話を繰り広げていたりする。  ……すれ違わないというのは本当に難しいものだと、爽一郎は彼女との長いつきあいで学んだ。……が、その人生に役立ちそうな教訓は今日の主題ではない。  爽一郎は麗華を見て、あっさりと用件を告げた。 「旅行に行こう」 「え?」  目が、くるんと時計回り。頭の上にぽんっ、という音を立ててクエスションが浮かんだのを爽一郎は見た。 「あれ。言って無かったか?」 「き、聞いてません」 「―――あー。まあ気にするな。ちょっとした旅行だ」 「え? で、でも、いつの間に?」 「この間、太郎が大きくなってないってしょげてただろう」 「だって……」  肩を落とす麗華。いかん、と思ってすかさず爽一郎は口を開く。 「だから、リフレッシュだ。まあ。綺麗な景色でも見て。機嫌良くなれ」 「機嫌ですか……。えっと、私なら大丈夫ですよ?」  言いながら手を取ってくる麗華。微笑む爽一郎。安心させるように、そっと頭をなでる。 「一緒に旅行をしたいんだ。駄目か?」 「……うん。嬉しい」  そっと笑う麗華。爽一郎は内心で苦笑しつつ、いつの間にかしなだれている麗華の背中をそっとなでた。 「……いかん。このままだと出発できないな」 「あ。そうだね。どこに行くの?」 「それは」  爽一郎は、そっと麗華の口に指を当てる。しー、の合図。 「これからのお楽しみ、だ」 /*/  やってきたのは、夏の園だった。  強い日差し。眩しいくらいの青空の下、うっすらと汗を掻きながら歩いて行く。爽一郎はこっちの店で買った麦わら帽子をかぶっている。薄茶色のガラスのサングラスは同じ店で、「これ似合うかも……」と麗華が薦めてみた物だ。  今は宿に向かって歩いているところ。リゾートホテルの一室を借りたらしく、今日はそこで一泊の予定。あと数日、気が向いたままにあちらこちらへ行こう、と爽一郎は話していた。  ノープラン? と麗華は内心で思ったものだが。どこに行くんだろう、とわくわくもしている。 「―――――、っ」  うん、とのびをする。  爽一郎はこちらを見た。サングラス越しでも分かるほど目を丸くしていた。……いきなり水をかけられた猫みたい。 「どうしたの?」 「いや。……珍しいな、と思った」 「? 何が?」 「のびが」 「えー」  少し笑う。確かに珍しいかもしれないけど、でも…… 「……いつもはどう思ってるの?」 「ん? そうだな」  うーん、と考える爽一郎。なんで考え込んでるんだろう、と少しへこむ麗華。眉根が寄りそうになる。 「愛してる」 「、っ……!」  どきん、とする。  一瞬で顔が真っ赤になった。  ……そっと息を吸って、ゆっくりと吐く。胸がどきどきしている。不意打ちだ。ずるい。ずるい。なんでこんな風に突然言うんだろう。もうっ。  でも、 「私も愛してる」  頬にキス。爽一郎は少し照れたように笑い、頬にキスを返した。 /*/  ホテルに着いた。  広いフロントロビィに入り、チェックを済ませた後、白い建物へと向かっていく。階段を一つ登り、もう少し奥に向かった。  とて、とて。とた、とた。短い歩調でのんびりと。  目的の部屋に入って、爽一郎は帽子とサングラスを取った。テーブルに置こうとして、 「あっ。取っちゃうんだ」 「そんなに気に入ったのか?」  少し意外になって聞く。麗華はクスクスと笑いながら、そっとベッドに腰掛ける。小首を傾げ、こちらを見ていた。 「でも、部屋の中だとサングラスは見えにくいかな」 「ま。そんなにいいなら」  爽一郎はもう一度サングラスをかけた。確かに、日差しが入ってくるとは言え、少しくらい。 「あ。えっと、困るなら無理しなくても……」 「気にする……あー。いや」  気にするな、と言っても、気にし始めた麗華はいつまでも気にし続ける。爽一郎は少し言葉を考えた。 「手を伸ばしてくれるか?」 「え?」 「手」 「う、うん。…………これでいい?」  そっと伸ばしてきた手。  それを、大切な思い出を包むように手に取った。 「これで大丈夫だ。隣に座っても?」  麗華は手を引いて、ベッドの隣へと誘導してくれる。爽一郎は隣に座った。  肩が触れ合うほど、近い。 「そうだな。これはこれで、悪くない」 「そう? ………」  少し間。麗華は何か考えていたようだが、やがてそっと寄り添ってきた。肩に頭を乗せる。爽一郎は彼女の肩を包むように腕を伸ばした。抱き寄せる。 「ふふ……幸せ」 「ああ。……いいことだ」  爽一郎は本心からそう言った。  思えば、以前だったらそのまま微妙な事になりそうなタイミングをいくつもやり過ごしている。それだけでも、ずいぶん変わったな、と思う。  一体、何が変わったのだろう。  何が変えたのだろう。  今分かるのは。  それがいいことだという、それだけだ。 /*/  思えば、不思議なことなのかもしれない……と麗華は考えた。  ほとんど、散歩をするような一日だった。  夏の園にやってきて、浜辺を歩いて、土産物を見て、ホテルに来て、一緒に寄り添って、美味しい食事を取って。  もしかしたら。贅沢なのかもしれない。  シャワーを浴びて、ふかふかのベッドに座り込んで麗華は考え込む。少し離れたところから響いてくるシャワーの音。窓の外から響いてくる波の音。目を向ければ、白い星々がちかちかと瞬いている。  そよ風に、薄いカーテンが笑うように揺れている。  ここにいる事が、とても幸せに感じられる。 「不思議」  呟きは、当たり前の日々に沈んでいく。  一緒にいるだけ。一緒に話すだけ。一緒に……。  ただそれだけだった。  本当にそれだけの一日だったのに、  とても、幸せなのは、何故だろう。  ―――少し、ため息をつく。  今まで、気を張りすぎていたような気がする。  彼が、何を考えているのか分からない。  彼が、愛してくれているのか分からない。  彼が、どうしているのか分からない。  わからない事ばかりで。それで怖くなって、でもきっと……という思いで動いて。すれ違ってきた。  今でも。そうなりそうなことが時々ある。  けれど。  今日はどう?/何が大切?  昨日はどう?/何が本当?  明日はどう?/何が良い?  もっと素直に。見たこと、聞いたこと、触れたこと、感じたこと……。  定かではない何かを信じてきて、信じていて、信じていく日々。  それの連なりが、つまりは…… 「何か見えたのか?」  気づけばシャワーの音は消えていた。爽一郎は薄手の部屋着を着ている。ホテルが貸し出ししているものだ。彼はベッドにあがると、麗華の隣に座ってきた。口は緩やかな弧を描いている。 「ううん。ただ、幸せだなって」 「そうだな」  それが、でも、ただの当たり前な事ではないと。二人とも気づいている。  何度もすれ違ってきた。何度も分からないと思ってきた。  だから知っている。今はとても奇跡的な事なのだと。  それが積み重なって、眩しいくらいの幸せなのだと。 「爽一郎さん」 「愛してる」 「……もうっ。先に言わないで」  お互い、くすりと笑う。しばらく肩を震わせた後、麗華は長くキスをした。  至るには長く。  夜は深く。  その、結晶のような幸せをかみしめる。  それは、とても、甘い味。