/*ささやかな感謝を*/ /1 「これくださーい」 「はい」 「……」 「……」 「あの、いくらですか?」  カウンタの奥で人差し指をたてる店員。無愛想過ぎる態度にちょっとむっとしつつも、犬妖精の少女はお金を払って帰途についた。  片手には飴。渋い緑の四角い袋に、透明のビニル一つずつ包まれた茶色い飴がいくつも入っている。歩くと揺れてがさがさと音を立て、それが気になるみたいで、足下をついてくる柴犬がこちらを見上げてくる。  モカは不機嫌そうに口をとがらせたまま、FEGの街並みを進んだ。  左右を囲む丈高い構造物。灰色のそれは見上げると首が痛くなるほどで、その隙間から見える青空は、まるで海底から見上げた海面のようだ。遠く、彼方の色つき窓のはるか下。わずかな日差しが差し込む路地を、彼女はさっさと歩いて行く。  しばらく進んで行くと、目的地の喫茶店が見えてきた。傍目に見るとコンクリート二階建ての一般家屋である。ただし窓ガラスがかなり多く、明るく、一階と二階の境目のあたりも少しふくらんでいたりして、鮮やかさといい造形といいちょっと不思議な感じがする。  その一階部分が喫茶店いつかであり、犬妖精のモカの仕事先である。ちなみに足下をついてくる柴犬がその店の営業部長だったりする。  モカはドアを開いて店に戻った。からんからんと響く音の下で左右を見渡す。客席はすっからかんで、差し込む日差しだけが暖かい。店の奥で総一郎は暇そうに新聞を読み、奥様の姿はなく、部長はさっさと進めとばかりに足をぐいぐいと鼻で押してくる。わかってますよーと奥に進むと、ようやくどいたかと部長は奥へとのそのそと。専用カーペットの茶色い記事の上に座り込んだ。ふるふると首を振ってあくびをするあたり、どうも眠いらしい。眠いと言えば今は午後三時である。 「買ってきましたー」 「ああ。ありがとう。瓶に移し替えて出しておいてくれ」 「はぁい」  言われて、奥のキッチン裏の倉庫に移動。今朝方取り出した瓶にざらざらと飴を詰めると、コーヒーの瓶みたいなグリーンのキャップで締めて再び表に。椅子に座って新聞を読んでいる総一郎の脇を抜け、瓶ごとカウンタの隅に置いた。ごん、という音。  総一郎が面を上げた。 「なんだ?」 「はい?」 「不機嫌そうだな」 「それがですねー」  言いかけて、はたとモカはフリーズする。あれ、何に腹を立てていたんだっけ?  ……ああ、そうそう。思い出した。 「部長が早く行け早く行けって押してくるんですよ!」  あれ、それだったっけ。心の中で首を傾げる自分。ついでに部長もえーという顔でこちらを見ている。  総一郎はそうか、と言って再び新聞に視線をおろした。それから思いだしたようにこちらを見る。 「ああそうだ。カレンダは見たか?」 「今度休憩が入ってましたねぇー」 「それだ。わかっているなら良い」 「でも定休日じゃないですよねぇ? あ、奥様とデートですか!?」  総一郎は目をそらした。と、ばさばさと誇りたたきのような音がする。目を向ければモカの尻尾がぱたぱたと揺れていた。……言ったら絶対ばれるなと考えて、口ごもった。 /*/ 「定休日は何をされるんですかぁー?」 「はい?」  そして一時間後。唐突に話しかけられた松井いつかは、ごっちゃりとした部屋の中で椅子を回して振り返った。  数メートル離れた先の入り口にはモカ。そして部屋の向こうでドラフタを背に椅子に座る松井いつかとの間には、グリーンのソファ、前衛的な白い棚、ハンガーラックに数種類のメード服、ビールを積むプラスティックのケース、獅子舞、蓄音機などなど実にバラエティのあるアイテムが行く手をふさいでいる。 「相変わらすすごいですよねぇー」ぱたぱたと尻尾を揺らしながらモカは興味津々の目。「あ、あの服可愛いー!」 「そう? 今度つくってあげましょうか? メード服だけど」 「わーい。仕事着が増えました!」  まあ事実上従業員二名でメード一名にマスタ一名、営業部長一匹という風情である。制服の慣習は、薄い。 「で、さっきの定休日って何?」 「あ、定休日じゃありませんでした。今度ー、カレンダに休みの日があったじゃないですかー」 「そうなんですか?」 「あれ?」 「ふむ……」  なるほど、といつかは頷いた。最近総一郎の挙動が妙に不信だったのはそれが理由か。 「いえ、私は何も知らないですね」いつかは言った。「モカは何か聞きましたか?」 「いいえー。それがむすっと黙り込んで何も答えてくれないんですよー。せっかく飴も買ってきたって言うのに。あ!」 「何か思い出したんですか?」 「そうでした。だからあそこの店員態度悪いと思うんです」 「は?」  話題が飛び飛びである。一人ぷんすかし始めたモカは思い出しました思い出したんですと言いながら一階に下りていく。今頃は総一郎にくってかかっているのだろう。――なんだか聞いた限り、八つ当たりな気がするけど。  まあいいか。 「それにしても」  隠し事、か。  また危険なことをしている……わけじゃないと思いつつもその可能性を捨てきれない。  いつかは五秒ほど考えた後、問い合わせることにした。 /2  謎の正体は翌日に判明した。  またぞろ店の料理の材料でも探そうと買い出しに出たモカは、たまたま夫婦そろって買い物に出ていた久珂夫妻と遭遇した。FEGの巨大な建物の一つにある食料フロアであり、各国から集めた輸入食材が所狭しと並んでいる。恐ろしく安い値札は見ていると背筋がちくちくしてくるほどだ。安くてうまいって何かの罠じゃないか、なんて思って、キャッチフレーズもなかなか信用できない。  先に話しかけてきたのは久珂あゆみの方だった。そのときもかは広大な野菜市場を正面に山と積まれた山菜を前にどれを買うべきか悩んでいたのだ。よもや山菜プッシュセールだったとは。わらびってどこでとれたんだろう。  で、うろうろと迷っているモカに気づいてはきなしかけてきた久珂夫妻と意気投合。晋太郎の完璧なアドバイスを背景に見事な食材群の買い出しに成功した、その帰り道。 「あー、知ってる知ってる。それって結婚記念日ですよ」  と、あゆみが言ったのだった。  ほほーとうなるモカ。ちなみに久珂夫妻は松井家の結婚式に参加していたので、そのことを覚えていたのだった。 「とっても綺麗だったよー」 「わぁ。ドレスかぁ。いいなぁー」 「でも、途中で相手が拗ねて出ていこうとしたり」 「あー。ありそうです店長なら。俗に言うツンというやつですね」 「そうそう」 「あっ!」  はっとして立ち止まるモカ。びっくりして動きを止めるあゆみと晋太郎。 「そうだ。結婚記念日ならパーティやりましょうパーティ」 「いいね」晋太郎が頷いた。「でも、こういうのって本人達以外は邪魔じゃないかな?」 「うーん。じゃあ翌日に!」 「なるほど」 「いいですね」あゆみはこくこく頷いた。「よし、手伝いますっ」 「わかった。僕も手伝うよ」晋太郎も言う。 「わぁー、楽しみになってきました」  モカは笑った。わぁ、どんなことをしようか。  うきうきしながら喫茶店に戻ると、何か良いことあったのかと聞いた総一郎に慌てさせられたが。 /*/  営業は終了。なんだか妙に機嫌が良いモカが勢いよく帰って行った後、総一郎は新聞をたたんだ。  室内はオレンジ色に染まっている。夕焼けは赤く、黒い影とのコントラストが子供の書いたイラストのように鮮明だ。境界は明らかで、静かすぎる空気をわずかに飲む。  そしていつの間にか背後に迫っている気配に振り返ろうとして、  ぽすん、と肩に置かれる手。体の動きが止まる。 「総一郎、暇ですね?」 「……一応、営業中だ」  振り返ることなく総一郎はそう言った。いつかはそうですかと小さく頷いた後、右肩を押さえたままととと、と前に移動。椅子に座った総一郎と視線を合わせるようにわずかにかがみ、再び左手で肩を掴んだ。 「別に逃げたりしないぞ?」 「何を隠しているんですか?」  ――たぶん、肩は震えなかったと思う。心臓ははねたが。 「別に何も隠していない」 「モカが今度は休みだって」 「いつも働いてもらってるからな。たまには休んでもらっても良い」 「また怪我は増えてないですよね?」 「どういう……いや、そういうことは無い。本当だ」  じーっと見られている。総一郎はまっすぐ見返した。いつかは二秒ほどして、首を傾げた。 「そうみたいですね。大統領に聞いても特にそういうことは無いそうでしたし」 「……」  そんなに信用ないのか? 「答えてくれたのは補佐官でしたけど」 「まて。それで納得したのか?」 「可愛かったので」 「……」 「ごめんなさい。本当はまさか竜太郎君が電話に出るとは思わなくてびっくりしてつい質問を忘れてしまったんです。もう一度かけるのもあれだったので、直接聞いてみました」 「そうか。……いやまあ。なんだ」総一郎は少し眉根を寄せた。「別に怪我はしていないし、ついでに言えばここ最近はいたって快調だ」 「それなら良かったです」 「……あー。なんだ。それとまあ、隠していたわけじゃないが」  まだ聞いていなかったことがある。 「その休みの避難だが、空いてるな?」  総一郎はやや気恥ずかしげに、そう言った。 /3  そして当日。家から出て行った松井夫妻を確認してから、十時頃、モカとあゆみと晋太郎が喫茶店に入っていった。  室内は静かで、残っているのは部長だけだ。その部長は、モカ達の入室に気づくと重たそうにまぶたを持ち上げ、ゆっくりと起き上がると、のそのそと日当たりの良い窓際のシートに腰を下ろした。そんな部長を横目に、三人はとりあえずカウンタのそばに集まった。 「結局当日になったけど、良かったの?」晋太郎が聞いた。 「うちのおーさまがそれとなくアドバイスして誘導したから大丈夫だって」あゆみが言う。「夕方過ぎには戻ってくるみたいですよ」 「よし。皆さん、今日一日がんばりましょう!」  モカが拳を掲げる。おー、と二人が習った。部長もあわせて、わん、と言った。  それからは夕方までひたすら準備だった。晋太郎が恐ろしい早さで料理の準備をしていく中、あゆみとモカで店内を掃除してどんどん飾り付けていく。派手すぎないモールに、花瓶と花、テーブルクロスをひいて、準備万端。昼頃にはセッティングもおわり、晋太郎も準備ができたようだった。  そして準備が終わると一休み。昼食にと晋太郎が作ったサンドイッチをお供に、ボックス席に三人が集まる。小さなバスケットに、卵を挟んだ物や、ハムとレタスのサンド、ポテトサラダを挟んだもの、とバリエーション豊かなサンドイッチが入っていた。紅茶はモカがキッチンで入れた物を準備。 「おおー。美味しそうです!」 「でしょう?」  嬉しそうに返したのはあゆみの方である。晋太郎はにこにこ笑いながら、どうぞ、とすすめた。モカは嬉しそうに二切れとり、一つを部長の皿に落としつつ、残りをぱくついた。  レタスはしゃっきりしていて歯ごたえがいい。すると、トマトのほんのりとした甘みと酸味が舌を刺激してくる。自然と笑顔になる。 「うわぁ、すごい。美味しいですー」 「うん。今日はあゆみも手伝ったんだよ」 「えへへ」  少し照れて顔を赤くするあゆみ。晋太郎も一切れ食べて、美味しいよ、とあゆみに笑いかける。 「えへへ。嬉しいです」 「うん。……やっぱりね、こういう、小さな事でも、そう思ったなら、美味しいとか、嬉しいって言うのは、大事だよね」  モカは軽く目を見張った。  ……こくりと、頷いく。笑みを浮かべた。 「そうですね」  和やかな昼下がり。のんびりと昼食は、進んでいく。 /*/  そして夕方。  今日はなんとデートをしてきました。  それもなんとなんと普通のデートです。はやりの映画を見て、ウィンドウショッピングをして、へたをすると財力を忘れて無理してなんでも買いかねない総一郎を止めようとしたら微妙にへこまれそうになったりと、まあ、いろいろありましたが、総括すると。 「楽しかったです」 「ああ、俺もだ」  そう言って微かに笑う総一郎。  二人は夕暮れの道を歩いていた。赤い空は、このデートが終わりを迎えようとしている事を示している。  それは日の出とともに始まって、日没とともに終わりを告げる  いつかはつないでいた手を少し引っ張って寄せると、総一郎の頬にキスをした。少し驚いた顔の総一郎。自分でも今日はずいぶん機嫌が良いと思う。いつもよりずっと気分に任せている気がする。まるで気に入った音楽をかけ続けているような高揚感。空を泳いでいるような浮遊感。  何もしなくても笑みが浮かんでくるのを自覚する。 「あそこのパフェは絶品でしたね。今度パフェを作ってください」 「パフェ、か。……まあ、考えておく」  総一郎は少し難しい顔をしたが、頷いた。頷いた以上は、きっと数日以内に絶品のパフェが食べられることになるだろう。 「次はどこに行くんですか?」 「家に」 「外食じゃないんですね」 「いや……実はそのつもりだったんだが、まあ、なんだ。誰かが気を利かせてくれたらしい」 「そうですか。私はそれでもかまいませんが」 「……ああ」 「気落ちしないでください。あなたと一緒にいるのが一番なんです」 「わかったわかった」  そんな会話をしていると、やがて喫茶店にたどり着く。総一郎は先に立ってドアに鍵を入れる。ドアノブをひねって、ゆっくりと開いた。  からんからんと、ベルの音が響き渡る。  そして一拍。  耳を貫く破裂音。銃声じみた音は室内に入った二人を襲い、 「おかえりなさーい!」  という声と、ほのかに香る煙のかおり、そして見知った人たちに迎えられた。  総一郎といつかは驚いた顔で、クラッカーを手にしたモカ達を見たのだった。 /4  いざ食事が始まると、空気はあっという間に和んでいった。最初は驚いていたいつかと総一郎も、綺麗に飾り立てられ、ほのかにシチューのにおいの香る室内にいるうちに段々と表情を穏やかにしていった。そうして花瓶に生けられた花の名前を聞いたり、いつの間にこんな事をしていたんだという話をしているうちに、晋太郎が夕食を運んできた。  そして夕食が始まった。メニューは焼きたてのパンとシチュー。それに鮮やかな色のサラダを初めとした、豪華ではないが丁寧な作りになっている。 「びっくりしたでしょ?」 「びっくりしました」  あゆみに尋ねられて、いつかは目を丸くしつつ頷いた。しかし驚いているのはもう不利だけで、口元はどう見ても笑っている。総一郎も、やられたな、と苦笑していた。大統領が言っていたのはこう言うことだったのかと思いながら、皆を見た。 「で、こんな素敵な企画を考えたのは誰なんだ?」  晋太郎とあゆみがモカを見た。モカは部長を見た。部長はなんでやねんと椅子のしたに隠れていく。モカはまってーと心の中で叫んだ。 「え、えーと。私ですっ!」 「うわぁ。素敵なイベントですね」いつかは笑った。「ありがとう、モカ」 「は、はいっ」ぱたぱたと尻尾が揺れるモカ。 「じゃあ、挨拶をどうぞ」晋太郎はくすくす笑いながら片手を向けた。 「え、えっ!? 挨拶ですか? えー、えーと」  挨拶なんて考えてもいなかった。いなかったけれど、えーと。モカは目をぐるぐるさせながら、辺りを見回した。晋太郎、あゆみ、いつか、総一郎。部長が足下からじっと見上げてくる。でも勿論、気の利いた台詞なんて思いつかなくて。  そもそも言いたいことは、一つだけ。 「えっと」  ごくりと息をのむ。  ――そう、言いたいことは一つだけ。  何のひねりもないことはわかっている。そのたった一言を言いたくて、実はこんな事までしてしまったのだ。  たとえば、店員の無愛想で不機嫌になることもあるならば。  どこにでもあるたった一言で、人が喜ぶこともあるように。 「おめでとうございます!」  声が響く。そして一瞬の静けさ。 「ありがとう」  唱和する二人の声。  皆が、笑みを浮かべた。