/*眠らない夢*/  感覚は微か。まどろみと言うほど重くもなく、朦朧と言うほどにも軽くもない。  あえて言うなら浮遊感。ベッドで寝ているはずのこの身はもうずいぶん遠くに感じた。 「起きなさい。狸寝入りくらい、見抜けないと思って?」  どこかからかうような口調。ヴァンシスカは微かに目を開いた。  それだけで、息が切れそうになる。体を動かすのは、ずっと遠くから糸を引っ張って人形を動かすような感覚に等しい。ひどく繊細で、ひどく苦労する。それは目に見える物も同じ。視界にうつる白い天井や、友人が見下ろしてくる姿も、細長い筒を通してみた彼方の景色のようだ。  現実感がひどく遠い。  動悸すら定かでない体。浅い呼吸で、体に熱を取り戻す。唇がひどく乾いている気が、した。 「まだ限界じゃないようね。もっとも、そろそろみたいだけど」  それはでも、仕方がない。ヴァンシスカは微かに笑みを浮かべた。  目を瞑る。  そうすれば、頭に何かが触れた気がした。  勿論気のせい。今あの人はそばにはいない。だからこれは単なる思い出だ。  ああ。それでも、思い出せる。以前来た時、髪に触れていったあの暖かな感触を――。 「今日、来るらしいわ。最後になるでしょうから、好きなようになさい」  ヴァンシスカは心の中で頷いた。力の入らない、細い腕で、胸の前にあるチョコレートを抱きしめた。 /*/  実際のところ、疲労しているわけではない。  目を開くことですら大変だけれど、それは単に苦労すると言うだけで、できないわけではないのだ。  今では眠ることもない。意識は起きているのか眠っているのかはっきりしない。けれど、視覚も、聴覚も、嗅覚も触覚も全てが遠くにあるだけだ。  無いわけではない。ただ、実感するには遠すぎるだけ。  そっか、看取ってもらえるんだ。そう思うだけで、少し嬉しくなる。 「…………」  きっと口が開いたのなら、笑みがこぼれていたに違いない。  年甲斐もなく高揚している。心臓すら、思いだしたように鼓動した。  抱きしめた物が暖かい。 「はろー。ヴァンシスカ」  久しぶりの声。遠いはずの音が、何故か近い。  返事を返したかったけれど、でも、うまく声が出なかった。  姿を見たかったけれど、でも、何故か目が開かなかった。 「オゼット先生。魔法的なことは全くわからないのですが、このヴァンシスカの状況。どうなんでしょう?」 「見ての通り。もうそろそろ。――――お別れ、してあげて」  答えは無い。ただ、手をそっと握られた気がした。  なんと言ってくれるんだろう。どきどきする。 「あぁヴァンシスカ、ヴァンシスカ。もう、時間はないのか?」  でも残念。私には何も返せない。せめてその、今にも泣いてしまいそうな声をどうにかしたい。  ―――唇に感触。  それだけは遠くはなく。ああ確かにキスされたのだと、何故かわかった。 「あれ?」  戸惑ったような声。そして少しして、口に何かをあてがわれる。  冷たい、水。  舌に触れる。口の中を潤していく。  久しく感じる事の無かった、体の温かさが近づいてくる。  キスをされて、どきどきしている心臓を感じてしまう。  顔がほてる。さましたくて呼吸をする。  そして、ずっしりと重たい感触。  ああそうか。  体はこんなにも疲れていたんだ。  それじゃあ、眠らないと……。 「古い神ね。悪魔と同じくらい、名前も忘れられた……」  意識を手放す。 /*/  ただ、すぐにまた、目が覚める気がした。 /*/  感覚は微か。まどろみと言うほど重くもなく、朦朧と言うほどにも軽くもない。  あえて言うなら浮遊感。ベッドで寝ているはずのこの身は、しかし徐々に重たくなっていく。  ――もうすぐ。夢から覚めるな、と思う。  そうして目を覚ませば、久しぶりの外の明るさに反射的に目を瞑ろうとしてしまった。  景色は鮮烈なオレンジ色。夕暮れ時か、室内はオレンジとブラックの濃い陰影で彩られている。天井は二色で綺麗に二分されていて、まるでその色の厚紙を切り貼りしたように見えた。  手のひらに暖かな感触。ヴァンシスカはわずかに首を傾けた。左を見る。  ベッドの横。椅子に座っていた雹は、うとうとしかけていた頭を持ち上げた。  視線が合う。 「あ、あの」  口ごもる雹。なんと言おうか考えるように目を一度回した。そして一度ごくりとつばを飲んで、笑みを浮かべた。 「おはよう」  ヴァンシスカは笑顔を浮かべると、おはようございます、と言った。