まず最初に確認しておいて貰いたい事がある。 今回の話はある『二人』についてのお話である。 話の主題は突発的な事件でもでなければ、過去に起きた事件の事でもない。『二人』にとっての日常である。 『二人』にとってはドラマチックでもないし、劇的な事も起きない平凡な物だ。 ただ、日常を綴った物だけに『二人』だけの時間など、普段は見れない事も書かれている。 だが、あくまでもお話のテーマは『二人』にとっての日常であり、それ以上でもそれ以下でもない。 この事を念頭に置いて、読み進めていただければ幸いである。 確認が終わったところで、二人について少し詳しく紹介しよう。 一人目は猫野和錆という男性である。 和錆の職業は医者であり、医学者でもある。 分野的な細かい話はさておくが、いわゆる『科学』等に属する技術・医療法を用いる。 様々な作戦、医療現場に関与してきた人物でもあり、その道の人ならずとも彼の名前を聞いた事がある人も居るだろう。 あまりに広範囲な活動などを行ってきたからか、人呼んで『国境無き医者』という二つ名まである。 どこの漫画の主人公だ!? と言いたくなるかもしれないが事実なんだからしょうがない。 二人目は猫野月子という女性である。 月子も医者であり、こちらは『魔法』を駆使した技術・医療法を用いる。 更に言えば看護師としての資格も有し、有事の際には衛生兵にもなるという活動場所を選ばない人物だ。 年若く、最近になってようやく正式な医者になったのもあり、彼女自身については知らない人も多いだろう。 ただ、和錆に負けず劣らず優秀な医者であり、和錆に的確なサポートを行い多大なる助力をする。 和錆とは対照的な得意分野、活動方法なども彼のサポートに貢献しており、彼とは非常に強力なパートナー関係を結んでいる。 さて、今の紹介だけだと随分と格好良い、或いは称賛されたイメージもあるかもしれない。 実際、それだけの功績もあるし、働きもしてきているので出鱈目な称賛でもなければ格好良さでもないだろう。 ……まぁ、出だしくらいは格好良くしておかないといけないかな、という文責の葛藤の末でもある。 この二人、名字が一緒である。当然、偶然同じ名字の二人などではなく、二人は『家族』である。 ただし、『兄妹』でなければ『姉弟』でもないし、ましてや『親子』でもない。 そう、この二人は『夫婦』である。しかも『新婚ほやほやの夫婦』なのだ。 ……さて、ここでもう一度冒頭の文章を繰り返そう 当然、全く同じ文章ではない。文章中の『二人』を『新婚ほやほやの夫婦』に置き換えてみよう。 今回の話はある『新婚ほやほやの夫婦』についてのお話である。 話の中心は突発的な事件でもでなければ、過去に起きた事件の事でもない。『新婚ほやほやの夫婦』にとっての日常である。 『新婚ほやほやの夫婦』にとってはドラマチックでもないし、劇的な事も起きない平凡な物だ。 ただ、日常を綴った物だけに『新婚ほやほやの夫婦』だけの時間など、普段は見れない事も書かれている。 だが、あくまでもお話のテーマは『新婚ほやほやの夫婦』にとっての日常であり、それ以上でもそれ以下でもない。 この事を念頭に置いて、読み進めていただければ幸いである。 ……なに、この絶望感? ****** 物語は宰相府の居住区の一角にある家から始まる。 周りの家と比べて特に大きな特徴は無く、知らない人から見ればそこが誰の家かも判らないだろう。 そんな、当たり前の家の早朝のシーンから、ある夫婦の1日を追っていこう。 05:33 -起床- 月子の視点 自分の方がいつも早く起きる。それは別に何かに起こされて、という訳ではない。 ただ、知らない内に寝顔を見られるのが恥ずかしくて、先に起きるのが習慣化した。それだけの事である。 「ん……ぁ……んぅ……」 ゆっくりと覚醒していきながら、月子は溜息とも吐息ともつかない艶やかな声を漏らす。 寝起きなのでまだ目がとろん、としている。寝起きですぐに覚醒するわけでもないので、しょうがない事でもある。 「んぅ……ん……」 男の声がすぐ傍から聞こえ、月子の身体がビク、と震える。 寝ぼけていた頭が一気に冴えていき、自分がどこに居るのか、今の声が誰なのか、そう言った自分を取り巻く状況全てを思い出し、把握していく。 ここは自宅の寝室だ。当たり前だ、今まで寝ていたんだから。 寝ていた場所はダブルのベッド。両手を広げてもベッドからはみ出さないくらいの大きなベッドだ。寝室のスペースの多くはこのベッドが占拠している。 月子は当然、そのベッドの中央で寝ていた。ただ、こんな大きなベッドに一人で寝ていた訳ではない。 もう一人、このベッドで寝ている人物が居る。それは先ほどの声の主で、隣で寝ている夫……つまり、和錆だ。 いや、隣なんていうのは生ぬるい表現だろう。何しろ、二人が使っている上掛けには一つの大きな山しか無く、二人はほぼ密着しているのが判る。 トクン、と心臓が強く高鳴り、顔が紅潮していく。布団の中で自分達がどうなっているのか、考える事は止める。そんな事を考えたら顔から火が出てしまいそうだ。 月子は一度深呼吸をする。毎朝の事で彼女も手慣れているのか、ゆっくりと一度深呼吸を繰り返すと落ち着きをすぐに取り戻した。 「……和錆、起きてる? ……まだ、寝てるよね?」 小声で声をかけてみると「んー」と声を上げて、少しだけ身をよじる和錆。 自分が枕にしていた彼の腕も動くが大きく動かなかったので、月子自身が体勢を変える必要は無さそうだ。 それから少しの間、一分ほど時間が経っても和錆はそれ以上動かず、何も言わない。とりあえず彼が寝ているという事は確認出来た。 改めて自分の姿を確認してみる。別に変わったところは無い。昨日の夜、自分が覚えている寝る直前と変わらない恰好だ。 少しだけどうしよう、と月子は考える。いや、誰も見てないのは判っているんだけど、やっぱり恥ずかしいというか、日が昇ってると見えちゃうし、いくら夫婦とは言え、やっぱり恥ずかしい物は恥ずかしいし。 乙女回路は3秒ほどで走り終わり、とりあえず上掛けをもう一度きちんとかけ直すという事で自分の中で決着する。 「……まだこんな時間かぁ」 時計を見てみると、随分と早い。寝ていたのは五時間くらいだろうか? とはいえ、和錆と一緒に寝るようになってから睡眠が深くなったのか、それくらい眠れれば十分な事が多い。 (最初の頃はあんなに緊張したのに……これが慣れって奴なのかな?) 初めて和錆と一緒に寝た時は緊張からか寝付けず、それからもしばらくは睡眠不足な日が続いていたのが嘘のようだ。 それが今ではこうである。変わったな、と自分でも思う。 夫婦だし付き合いも長いから色んな事が自分の中で『当たり前』になっている。そう、今の自分達にとってこれくらいは『当たり前』なのだ。 ……のだが、さすがにこうして密着するのは『当たり前』でも照れてしまう。嫌でも和錆と一緒になったんだと実感する。いや、全然嫌じゃないけど、むしろ嬉しいし、今のは言葉の綾というか、表現の問題であって嫌なんて思った事無いけど、ただひたすら恥ずかしいとはやっぱり思ったりするけど。 思考が乙女回路をもう一度走り抜けた。誰にも聞かれてないし、自分で思ってるだけなのに、なんでこういう風に誰かに言い訳しちゃうんだろうとむしろ自分の思考に気恥ずかしさすら覚える。 結婚式の時に参加者に結婚について「でも、長いつきあいだったから、実感はあんまり」 なんて言ったのを思い出す。 けど、それはむしろ結婚式という日常ではなく特別なイベントだったからだと今なら判る。 だって結婚式の時、緊張していた。本当に実感が湧かなかったり、何も感じなければ緊張なんてする訳が無い。 ただ、あの時は『結婚式』というイベントに気持ちが浮ついていただけなのだろう。 「ん、んぅ……んぅう……」 考え事をしている内に和錆が小さな声を漏らして、もう一度身をよじらせ、動いた。 「ぁ……ゎ……」 動き自体はそれほど大きくなかった。それでも、声が漏れそうになって慌ててそれを抑える。 何しろ、和錆は寝返りをうつとそのまま自分を抱きしめるように体勢を変えた。 自然と顔が近くなり、和錆の顔が目の前になった。近い、近いよ、物凄く近い。 初めてじゃないけど、それは当然、キスする時なんかはこれくらい顔近くなるけど、でも不意打ちは狡い。 しかも無防備なのがなお狡い。こっちはこんなに驚いているし、多分頬も赤くなってるのに、和錆は平然と寝てるし、いや寝てるから当たり前なんだけど、そんな事は判ってるけど、でも狡い。 自分を包み込むようにされているから、当然触れ合ってる面積も多くなっている。固く男性的な感触が寝間着越しに伝わってくる。 駄目だ、考えたら負ける。何に? 判らないけど、とりあえず考えたら駄目だ。 意識をそこからそらそうと目の前の和錆の顔を見る。彫りの深い、印象的な顔立ち。 長い髪もそれを隠しきれず、むしろ隙間からチラチラ見えるので余計に気になってしまう。 普段は明るい笑顔で自分を見てくるその顔も今は穏やかな寝顔で、一番印象的な目は閉じられたままだ。 出会った頃はその目が怖いとも思ったけど、今ではその目に見られるとドキドキする……いや、昔もしてたんだけど、ちょっと意味合いが違ったというか……だから、現実逃避してる場合じゃないんだ。 乙女回路という現実逃避も三回目。いい加減、このままでは良くないと月子は何とか気持ちを落ち着かせようとする。 そして思う。これが『実感』か。この日常の不意打ちや、いつも通りのはずなのに驚かされるのが『実感』なのか。 確かに結婚前からこういう事はあったし、結婚してから特別増えた訳でも無い。 ただ、こういう事が起きた時に『結婚した』という事実と『これからこの人とずっと一緒に居る』というのが加わる事で、今まで以上にドキドキしてしまう。 「……すー……はぁ……」 深呼吸をするとあまりの近さに和錆の匂いがより明確に感じてしまう……なんていう策士なのだろうか、彼は。酷いにも程がある。言いがかりなのは判っているけど、自分がこうして悩まされてるなんて彼は気づいていないのだろう、何だか悔しい。 「……仕返しするよ?」 小さな声で呟く。当然、反応はない。というか、あったら怒る。狙ってやってるのかと、いや、本気で怒る訳でも無いのだけれど。 返事が無い事を確認して、ゆっくりと顔を近づける。 「……ちゅ」 唇を重ねて、すぐに離す。別に初めてじゃないけど、これくらい何度かしてるけど、唇がやけに熱く感じる。 「……ふふ、これくらい良いよね」 彼が寝ていて、気づいていない間にキスをする。仕返しである。何しろ彼は自分がキスをした事を知らない。自分だけの秘密が増える。これが仕返しでなくて、なんなのだろう? 時計を見てみると、もうすぐ六時だ。いつも彼を起こす時間まで、あと少し時間がある。 「……もうちょっとだけ、うん」 月子はそう呟き、和錆に抱かれたまま、目を閉じる。目を閉じれば自分を包み込む温かい感触をより一層感じられる。 彼を感じる。強く、今まで以上に、今までよりも強く。 もう少しだけ、このまま。いつも通りの日常が始まるまで、自分だけの秘密の時間。 05:51 -起床- 和錆の視点 和錆は『何か』を感じて一気に目が醒めた。 (何だ、何が起きている?) 身体が一気に覚醒したのは特殊能力でも何でもない。 ただ、様々な事件や出来事、自身の命が何度か危機にさらされた事によって『何かが起きた』と思えば自然と目が醒める。それだけである。 目を閉じたまま状況を確認する。片腕が少し痺れている。が、別段それに違和感は感じない。つまり、これは違和感じゃない。 自分が寝ている場所も問題無い。感触でベッドだと判るし、そのスプリングがいつも寝ている物と同じだ。つまり、自宅の寝室だ。 急激な覚醒はアドレナリンが大量に分泌されるのか、極端に思考が高速化されてそこまで1秒とかからず判断する。 だが、そこまで考えても起きた理由が判らず、さて、では何が原因だ? と考える。 目を開いた方が良いのだろうか? だが、どういう訳かそうしない方が良いと思った。 強いて言えば勘である。が、バカには出来ない。勘は時に観測データを超える。虫の知らせなどが良い例だろう。 「……ふふ、これくらい良いよね?」 囁くような声が聞こえた。すぐ近く……というか、目の前から。 可愛らしい女性の声である。誰か……なんて考える必要も無い。声は彼の妻である月子の声だ。 その声は緊張しているどころか、リラックスした様子であり、という事は少なくとも月子や自分が危機的な状況に陥っている訳じゃない事も判った。 (ん……? でも、それならなんで急に目が醒めたんだ?) 急激な覚醒なんてそう何度もある訳じゃない。だからこそ少し緊張したのだが、どうも何も無いようだ。 改めて自分の状態を確認する。片腕が痺れているのは腕枕をしているからだろう。 自分が抱きしめている柔らかく、温かい感触……うん、これは月子だろう。 痺れた腕ではよく判らないが、もう片方の腕や触れ合っている部分には女性特有の柔らかさと滑らかな肌の感触が…… (……って、月子さんを抱き枕状態にしてるのか、俺!?) その事実を認識した途端に意識が更なる高みへと上っていく。或いは袋小路に向かって真っ逆さまか。 「……ふふ、うん……こういうのも良いかな……」 月子が自ら寄り添ってきて、自分の腕の中で満足そうに吐息とも溜息とも取れる、艶やかな声を漏らす。 うわ、ヤバイ、何がどうヤバイのかは具体的には出来ないが、とにかくヤバイ、と更に思考がぐるぐるし始める和錆。 (お、落ち着け、とにかく落ち着くんだ。冷静に、論理的思考を展開させるんだっ) 月子が和錆を起こすつもりならハッキリと声をかけてくるだろうし、身体をゆすったりもしてくるだろう。 だが、月子はリラックスした様子でむしろ今の状況を楽しんでいる雰囲気さえある。 (てことは、月子さんも満更じゃないのか……って、そうじゃなくて! えーと、そうだ……起こさないってことはまだ俺は寝てた方が良いのかな?) とはいえ、寝たふりというのは意外に難しい。 「……ふふ、和錆……ん……」 例えばこうして名前を呼ばれたり。 「ん……んぅ……」 更に身体を密着させられたり。 「……髪、伸びたかな」 月子の長い髪が掌に触れたりと、ちょっとした事でも身体……特に表情がにやけてしまいそうになる。 それを抑えなくてはいけないのだが、力む事も出来ない。抱き合っている状態で力めば、すぐに月子に判ってしまうだろう。 もし月子に寝たふりをしている、とバレてしまったらどうだろう? 怒るだろうか? それとも「和錆ったら意地悪」とちょっと拗ねるだろうか? あ、それはそれで良いかもしれない、って、そうじゃない! 「……ん……ふぅ……んぅ……」 (あわ、あわわわわっ!?) 考えている間に月子が艶やかな吐息を漏らし、身を預けてきて更に和錆は混乱する。 傍目には判らないだろうが、上掛けの下では身体は密着しているし、脚も絡み合っている有様だ。 (だ、駄目だ……これ以上はさすがに無理だ……っ) 色んな意味で限界を悟り、とにかくこのままではいかん、と和錆が声をかけようとした瞬間。 「わんっ」 と犬の泣き声がした。途端に腕の中の月子が反応した。 「あ……コーヒー……お腹すいたの?」 「わん」 「そっか、ごめんね、今ご飯あげるからちょっと静かにね……和錆、起きちゃうから」 「くぅん……」 「うん、良い子。それじゃ、少し待って」 月子はそう言うとゆっくりと身体を動かし、和錆を起こさないように慎重に腕の中から抜ける。 洋服を入れてあるクローゼットが開く音、衣擦れの音も少し。ただ、それもすぐに終わってパタン、と寝室の扉が閉じる音がした。 月子が部屋から出て行ったのを確認して、和錆が目を開く。 幸い、大事には至らなかった。いや、大事というのが何を示すのかは自分でもいまいちよく判ってないのだが。 「……とりあえず、起きるか」 時計を見ると普段起こされる時間の二十分ほど前。二度寝するには時間が微妙だし、何よりも頭も身体も既に完全に起きてしまっている。 身体を起こし、上掛けをはねのける。布団から抜け出て、服を着る。 身支度をしながら、先ほどまでの月子の様子を思い出して、にやけてしまう。 「やっぱり月子さん、可愛いなぁ」 ついさっきまではどうしてこうなった!? くらい混乱していたが、終わってみれば……うん、あんな風に甘えてもらえるのは良い。凄く良い、とにやけてしまうあたり、喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、人間の業の深さを感じるというか。 「……でも、何で俺、起きたんだろうな?」 何となく自分の唇を指で撫でながら、和錆は首を捻った。 11:31 -二人の仕事- 時刻は正午まであと少し、という頃。二人はやはり同じ場所に居た。 そこはISSという組織の一部であり、二人の職場である。当然、医者である二人の職場なので、医療現場である。 とはいえ、医療現場と言っても様々だ。単純に患者を診る事を目的とした場所から新たな治療法を探す研究所まである。 ここはその両者を兼ね備える、一種の総合医療施設である。 正午まであと少し、という事でシフトが早い人間は既に昼食を食べ始め、逆に遅めの人間はもう少し後に来る自分の休憩時間を励みに仕事に取り組んでいた。 和錆と月子も例外ではなく、先に休憩に入った月子が待ち合わせ場所の資料室ににやってくると、和錆は難しい顔をしながら資料を見ていた。 月子はそれを見て、何も言わずに部屋の片隅に備え付けてあるコーヒーサーバーからコーヒーをいれ、和錆の元に向かった。 「和錆、はい」 「え……あ、月子さん、もう来てたんだ。ごめん、ちょっと集中してて」 声をかけられてようやく月子が来ていた事に気づいた和錆は驚くと同時に申し訳なさそうに頭を下げる。 「良いよ、仕事でしょ? 休憩はまだ無理そう?」 月子はそれを見て微笑むとそのまま和錆の近くにコーヒーを置き、そのまま隣に席に座った。 「あ、うん。大丈夫、10分くらい待って貰えるかな、一度資料片付けないといけないから」 机の上に山と積まれた本、過去のカルテなどを見て、バツが悪そうにする和錆。何だか悪戯が見つかった子供のようでもある。 月子はそんな様子にくすくす笑う。別に悪い事なんてしてないのに、和錆は月子に対して何かあるとすぐに謝ってしまうのだ。 「大丈夫だよ、そんなに慌てなくても」 「そ、そっか、ごめん。なんかちょっとテンパってて……うん、片付ける前にちょっとだけ一息いれるね」 差し出されたコーヒーに口を付けるとあわあわと表情を変えていた和錆にも余裕が出来てたようだ。 一口飲んで、ゆっくりと呼吸をするともうそこには慌てている様子ではなく、普段の和錆特有の明るい表情になっていた。 「美味しいよ。ありがとう、月子さん」 「どういたしまして。和錆、難しい顔してたから。あんな表情ばっかりだと顔にしわが出来ちゃうよ?」 「……そんな表情してた?」 「してたよ。和錆は彫りが深いから余計に判りやすいね」 「それは……ちょっと恥ずかしいかもしれない」 月子の言葉に和錆ははにかむ。実際、自分ではそうと意識していなかったので、尚更だ。 「何かあった? 困り事?」 「ん……実は今研究しているクローン技術についてなんだけど、ちょっと問題がある箇所を見つけてね。その対応策を色々と調べてたんだ」 猫野和錆は医者ではあるが、同時にナノマシン研究者であり、クローン医学者でもある。 多くは知られていないかもしれないが、以前に起きた『マンイーター事件』でもその問題の解決に尽力した。 その結果や詳しい経緯については別の記事(可能なら『和錆、医療研究者』にリンクを)を参照してもらうとして、話を進めよう。 「良い方法が見つからない?」 「……うん、ちょっと行き詰まってるかな。月子さんにはお見通しみたいだね」 まいりました、と和錆がお手上げのポーズを取ると月子は笑う。 「それくらい見てれば判るよ。手伝おうか?」 月子の提案に和錆の表情が明るくなる。それは彼女が今まで一番見てきたであろう、明るい表情だ。 二つ返事で月子の言葉に返すと思われたが、すぐに和錆はまた少し表情を難しくした。 「……良いの? 月子さんが居てくれると凄く心強いけど、そっちの方の仕事もあるでしょ?」 和錆の言葉通り、月子も仕事がある。特に現場で働けるように色んな資格も取っている為、現場では和錆以上に必要とされる事もある。 また、よほど医療現場が性に合っているのか、本人の努力もあるのだろうが、医療行為を行う月子は時に名医と言われる和錆以上の実力を発揮する。 そんな事情を和錆が知らない訳も無く、自分のせいで月子に負担をかけてしまうのは非常に心苦しくも思う。 だが、月子はそんな和錆の不安や気持ちごと吹き飛ばすように微笑む。 「うん、何とか都合付けてみる。それに家に仕事は持ち込まないで欲しいもん」 「……あいたたた、それを言われるとなぁ」 「ふふ、冗談だよ。でも、おうちで二人で居る時に難し顔をされるのはやっぱり嫌だし、私が手伝って和錆の負担が軽くなるなら、そうしたい」 「……ありがとう、本当に。感謝してるよ、いつも」 月子の言葉に和錆は微笑む。その明るい表情。その為なら自分は頑張れると月子も笑う。 自分が月であるならば、和錆にはやはり太陽であって貰いたい……というと、少しロマンティックに過ぎるかもしれないが、正直な気持ちとしてやはり和錆にはその明るい表情で居て貰いたいのだ。 「お礼は良いよ。夫婦だし、同僚だし。私達はパートナーでしょ? 助け合うのは当然だよ」 その言葉には偽りも誇張もない。 お互いに得意な医療方法が違うとなれば、様々な時に激論を交わす事だってある。 ただ、それは相手を貶めたりけなす為ではなく、どうすれば患者にとって最善の医療が行えるかという『医者』として当たり前の事に忠実だからだ。 お互いの治療方法のそれぞれの有用性や特徴、そう言った物を尊重する。無理矢理に自分の技術にはめ込もうとしたり、或いは相手の治療方法に自分の治療方法を混ぜようともしない。そんな事をするよりも、部分部分で使い分けるだけで十分なのだ。 むしろ、医療法の違いは争いの種になるよりも多角的な視野を二人に与えている。 特に和錆は医学者という側面もある為、月子の助力と視点があるかないかでは大きく成果が変わる事すらある。 二人で居るという事は単純に労働力が二倍になるのではなく、お互いの欠点を埋め、お互いの長所を伸ばし、お互いを更なる高見へと導く。 正に相棒、正にパートナーという言葉に相応しい二人である。 「お礼は言わせて欲しいな。月子さんがいれば百人力だし、本当に助かってるんだ。いつもありがとう、月子さん」 「ふふ、どういたしまして。それじゃ、さっそく残ってる仕事、片付けてくるよ」 月子は笑って立ち上がる。ふわ、と長い髪とスカートが立ち上がると同時に広がる。 見る物の目を奪う様な華やかな見た目だが、服装は当然清楚な物で、医者の代名詞とも言える白衣は真っ白で清潔感を見る者に与える。 医療の申し子、というと語弊があるかもしれない。だが、確かに彼女はその外見も能力も医療……特に現場という物に対して真っ向から向かっている。 既に名の知れた自分よりもそうであるように見える事に和錆はその姿を素直に心強く思う。 それと同時に後世では月子の名前が偉大な医療者として残るのではないかと思う。そう、医学者でなく、医療者である。 「凄いね……上手く言葉にできないけど、本当に凄いと思う」 「急にどうしたの、褒めても何も出ないよ?」 「いや……月子さんを見てるとたまにどこまで行くんだろうと思う事があってさ」 「ここまで連れてきてくれたのは和錆でしょ? 違うって言うだろうけど、切っ掛けは間違い無くそうだよ」 「……お見事です、月子さん。何だかこそばゆいね」 確かに自分が言うだろう言葉を先回りして言われてしまい、和錆は恥ずかしいやらくすぐったいやら。 月子はそんな様子の和錆を見て、くすくすと笑う。 「褒めてくれるのは嬉しいけど、それ、今聞きたい言葉じゃないな」 「勉強不足で申し訳ない……どんな言葉が聞きたかった?」 「仕事が終わった後、お礼にどこに連れてってくれるのか。それを教えて貰いたかったかな」 そう言うと月子は悪戯が成功した子供の様に……正に眩しいほどの笑顔を和錆に向けた。 19:13 -家族- とん、とん、とん、と一定のリズムを刻みながら月子は街中を歩く。 恰好は病院に居た時とは違い、白衣は着ていない。ただ、白衣の下に着ていた物は同じであり、やはり清潔・清楚な服装で纏まっている。 頭の上には月子のトレードマークとも言えるベレー帽があり広がる髪の毛をある程度抑える役割を担っているようだ。 だが、それでも歩く度に広がる長い黒髪とスカートはやはり人目を引き、道行く人が時折振り返っては月子の姿に見惚れる。 時刻は既に夜の七時過ぎ。当然日は落ちて、砂漠国である宰相府は冷え込む……が、いわゆる寒暖の差は10度以下で宰相府がどれほど環境に恵まれているのかを実感できる。四季の庭園は伊達では無いのだ。 「〜〜〜〜♪」 上機嫌に鼻歌を歌いながら一定のリズムで歩く月子はやはり人目を引き、その大半が男性な事を知ったら和錆がやきもきするだろうが、彼はここに居ない。 月子は今は一人……ではなく、手にはリードがありその先にはダックスフントが繋がれていた。しかもそのダックスフントの頭上にはひよこも居る。 「〜〜〜〜♪」 「わんっ」 上機嫌そうに鼻歌を歌う月子に合わせるようにダックスフントが鳴声を上げる。 それは月子には歌に合わせるように聞こえただろうが、彼女に見惚れていた男性達はその鳴声で正気に戻り、慌てて自分の行くべき道へと戻っていく。 まるで「僕が月子さんの騎士なんだ」と言わんばかりのしたダックスフントの振る舞いだが、月子から見れば「散歩が嬉しそう」という認識であり、見る人によって印象が変わるという好例になってしまっている。 「うん、もうちょっと散歩しよっか、二人とも」 「わんっ」 「ぴー」 ダックスフントは返事の様に吠え、頭の上のひよこも同じように無く。 「ふふ、コーヒーとピーちゃんは本当に仲良しだね」 月子はそれを見てくすくすと笑う。この二匹は猫野家の大事な家族なのだが、ずっと二匹一緒に居て、終始こんな感じである。 ダックスフントの方はコーヒーという名前であり、名前に違わぬコーヒーっぽい体毛が特徴だ。 ひよこの方はピーちゃん。見たまんまひよこなのだが、時折ひよことは思えぬ反応を返す事がある。今鳴いたのもその良い例である。 だが、月子も和錆も細かい事は気にせず、二人を大事な家族として考えている。一緒に住む以上、ペットだって家族なのだ。 とはいえ、そろそろ家に戻って夕食の準備なんかした方が良いんだろうけど……。 「もうちょっと散歩したい?」 「わんっ」 「ぴー」 月子の問いかけに二匹は仲良く答える。本当に自分が言っている事が判っているんじゃないかと思い、月子はくすくす笑う。 和錆はそろそろ病院で資料を纏めて終える頃だろう。和錆がある程度の見当を付けたところで手伝っていた月子は先に帰ってきた。 ずっと一緒に居たいという気持ちは当然あった。一時間もすれば一緒に帰れると判っていたから待とうかとも思った。 ただ、そうすると家に帰り着くのが今と同じくらいか、或いはそれ以上に遅くなる。あまり遅くなるとコーヒーの散歩をしてあげることも出来なくなってしまう。 仕事上、どうしても忙しくて散歩に行けない事だってある。 深夜などに出かけるのは和錆が反対した。宰相府とはいえ、何があるか判らないし、そもそもそんな深夜に出歩く事自体がやはり良くない。 だから、都合がつけられる時にはきちんと散歩に行ってあげるべきだ。それが二人一緒じゃなくても、というのが二人が出した答えだった。 「それじゃ、行こうか。それにこの道なら途中で和錆に会えるかも知れないしね」 今歩いている道は職場からの帰り道だ。娯楽街やバザーなどからは程よく距離がある為、人通りも多くはない。 なので、もしも和錆が帰ってきていればすぐに気づけると、月子はこの道を歩いているのだが。 「わんっ」 「ん? どうしたの、コーヒー」 「わんっ」 『見てくださいよ、月子さん』と言わんばかりにコーヒーはリードを引っ張るようにして歩き出す。 月子がそれに引かれるようにして歩いて行くと、少し離れた道の一角に男女と一匹の犬が居た。 「あわわわ、だ、ダメダメ、さすがにこれは駄目ですよ!?」 男は手に持った袋を高く上げて、犬から離している。だが、犬はそんな事気にしていないのか、尻尾をぶんぶん振って男にじゃれついている。 「あらら、すいません。ふふ、うちのキャラメルは人見知りをするんですけど、こんなに懐くなんて珍しいですわ」 「い、いや、そんな暢気な状況じゃないですよ!? 犬は好きですし、俺も飼ってますけど……だ、駄目だってば!?」 のほほんとした女性に対して男は慌てたようにいうが、何だかその様はラブコメ的でもあり、ちょっとだけムっとして月子は男に声をかけた。 「……なにしてるの、和錆?」 「あ……月子さん、その……た、ただいまです」 まぁ、お察しの通り男は和錆である。和錆は声をかけられるとビク、と大きく身体を震わせて月子の方を見た。 月子はにこ、と和錆に向けて笑顔を向ける。綺麗で可愛らしい笑顔なのだが、その笑顔を見た瞬間、更にビク、と和錆は震えた。 「すいません、うちのキャラメル、どうにもこの人の事が好きらしくじゃれついちゃって」 和錆の足下でじゃれついている犬はキャラメルというらしい。名前のキャラメル色の体毛の大型犬……いわゆるゴールデンレトリーバーだ。 「そ、そうなんだよ、月子さん。いやー、犬に好かれるのは嬉しいんだけど、さすがにこのサイズだとちょっとビックリするよね、あは、あはははは……」 何だかバツが悪そうな和錆。いや、当然浮気なんてしてないのだが、帰りがけに月子以外の女性と一緒の所を見られた、というだけでやはりバツは悪い。 実は月子は思い至ってなかったのだが、何しろ和錆は政治的な理由で月子以外の女性と付き合う事になりかけた『前科』があるのだ。 当然、その時には色々とてんやわんやとあったが、最終的に月子を選んだし、その意志はハッキリ示している(なので、月子もすぐにそれと結びつけられなかった)のだが、和錆からすれば噛まず言ってレベルじゃねーぞ、という話である。 そういう訳で和錆は必要以上に恐縮してしまうのだが、今の月子にとっては仕事中などは毅然としている和錆が凄く小さくなっている様がおかしいらしく、いぢわるしたくなってしまう。 「ふーん、そっか。和錆、犬にはモテモテだもんね」 「う……は、はい、そうですね」 別に当てつけがましく言われた訳でも無いのだが、やはり深読みしてしまった身を縮こまらせる和錆。 また、笑顔なのが……男なら判ると思うが、自分の妻・彼女に負い目があるときに笑顔を出されると、余計に恐縮してしまうのが男である。 「奥さんですか? ふふ、お綺麗な奥さんですね」 そんな二人の様子に気づいているのか、いないのか。キャラメルの飼い主である女性は優雅に微笑んでいる。 「そ、そうなんです。その、そういう訳で自分達もそろそろ帰宅しないといけないので……」 「ええ、お引き留めしてすいませんでした。よろしかったら今度は奥さんもご一緒にお散歩させて貰えればと思います。それでは」 女性はそう言って一礼をすると、今だに和錆にじゃれつこうとしているキャラメルを窘め、一緒に歩き出して行った。 当然、そうすれば残るのは和錆と月子、コーヒーとピーちゃんという『猫野一家』だけである。 「……えーと、その」 何と声をかければいいのか判らず、やや情けないとも言える表情で話を切り出そうとする和錆だが、気がつけば月子が先の方へと歩き出していた。 しまった、そこまで怒らせたかっ!? と慌てる和錆だが、何のことは無い、にやつく顔を見られないように月子が先に歩き出しただけだ。 なのだが、当然神ならぬ和錆にそんな事が判るわけでもなく、本当に怒らせてしまったんじゃないか、と心配になる。でも、どうやって声を掛ければ良いのか判らず、何かを喋ろうとする気配は出す物の、月子の後について歩くだけである。。 月子は別に怒っている訳でも、まして浮気を疑っている訳でも無いのだが、そういう風にされるともうちょっといぢめたくなり、月子は微笑む。 「良く会うのかな、今の人? 綺麗な人だったね」 「あ、いや……会ったのは初めてかな、うん。いや、別になにがどうこうって訳じゃないんだよ? 歩いてたらキャラメル君がじゃれついてきて、ちょっと身動きが取れなくなって、その」 途端にあわあわしながら言葉を重ねる和錆。月子はそんな様子が面白くてとうとう我慢出来ずにくすくすと笑う。 「ふふ、そんなに慌てなくても良いんだよ? それとも本当に何かやましいこと、してた?」 「し、してないしてない! 全然してないよ!?」 ぶんぶんと首を振る和錆。もしも和錆が嘘を言ったり、本当に誤魔化そうとするならこんなあからさまに動揺しない事を月子は知っている。 むしろ深く静かに……自分が見れないところまで一人で沈んでいく様な……そんな人である。 「別に疑ってないから大丈夫だよ、和錆。それより仕事はどうだった?」 「あ、うん。月子さんのおかげでかなり良い感じでまとまったよ。明日検討会を開いて、他の人にも意見を聞いてみるつもりだけど……うん、かなり自信ある」 「そっか、手伝った甲斐があって良かった」 月子が微笑みながら振り返る。少し勢いがあった為、髪の毛とスカートがふわ、と広がり月光の下で踊る。 「あ……う、うん……」 「? どうしたの、和錆。やっぱり何かあった?」 「い、いや……ちょっと不意打ちだったから、驚いただけ……月子さん、凄く綺麗だったから」 「このタイミングで言われると何か誤魔化そうとしてるのかな、って疑っちゃうよ?」 「ち、違うって! 本当に助かったんだ……ありがとう、月子さん」 顔を赤くして、慌てるように言う和錆に月子は微笑む。自分では気づいていないだろうが、それは月光によってハッキリと見えすぎず、隠れすぎない……何とも魅力的な雰囲気だった。 「別に良いよ。和錆が難しい顔するより、そういう顔してくれてる方が嬉しいし」 「そう言ってくれるのが本当に嬉しいんだよ……それで手伝って貰ったお礼なんだけど、これ」 和錆はそう言うと手に持っていた袋を見せる。それは和錆がキャラメルから必至になって守っていた物だ。 「それは?」 「帰りにさ、ちょっと娯楽区によって……デザートに良いかな、って買ってきたんだ」 中身を見てみるとそれはフルーツとクリームが入ったロールケーキ。いつだったか、喫茶店で和錆が食べるか迷っていた物に似たものだった。 「ショートケーキと迷ったんだけど……美味しそうだったからそれにしてみた。どうかな?」 「……ふふ、うん。全然良いよ、ありがとう、和錆」 律儀な人だなぁ、と思う。確かに仕事の時間を割いて手伝ったのは事実だけど、それは何も和錆の為だけじゃない。 あの時言った言葉は本当で月子にとっても明るい表情の和錆の方が嬉しい。だから、自分の為でもあるのだ。 「あ、今度の休みにそのお店行ってみない? 他にも色んな種類のがあるし、どこかに連れてくって約束もしたしさ」 それなのに、こうして約束を律儀に守ってくれる和錆は端から見れば滑稽なのかもしれない。 だが、それでも自分にとっては和錆のこんな仕草はとても胸が温かくなって、愛しさが強くなる。 ありふれた事だけど、ありふれた事だからこそ……自分を大切にしてくれているのだと強く感じる事が出来る。 「……どうしたの、月子さん?」 くすくす笑う月子に和錆が尋ねる。月子は微笑んだまま、首を振った。 「ううん、何でもない。それより帰ろっか。ご飯、すぐに作るから」 月子は自然な動作で和錆に近寄るとリードを持っていた手で和錆の手を握る。 「あ……うん、そうだね。帰ろうか」 昔は学校の規則などから人通りの多い場所でこういう事をするのに緊張する事もあったが、今ではそんな事も無くなり、自分達がしたい時にこういう事が出来る。 そんな当たり前が和錆にとっても嬉しく、自然と表情が緩んで、月子に優しく微笑む。 「わんっ」 「ぴー」 『僕達もいるんだよっ』とまるで存在をアピールするようにコーヒーがちょっとだけ大きな声で吠えた。 23:49 -今日の終わりと明日の始まり- 特別な1でも無ければ二人は日付が変わる前にはベッドに入るようにしている。 理由は単純で仕事が仕事なので寝不足での判断力低下が怖いからである。 一つの判断ミスが幾つもの惨事に繋がる事もある。しかも、その多くは人の命に関わる事になってしまう。 その自覚があるからこそ、二人はあまり夜更かししない。二人の時間は大切だが、それを理由に他の人に迷惑をかけるのはお互い良しとしなかった。 ……と、ここまでは表向きの理由でもある。 実際、ベッドに入ってすぐに寝付けるかと言われるとそうでもなく、眠りに落ちるまで大体一時間、長い時には二時間ほど二人の時間共有する事も多い。 もう凄く単純に言えば、ベッド→一緒に寝る→普段よりも密着→ヒャッホイ! である。しかも表現・程度の違いはお互いに、である。 笑う気持ちはわかるが、好きな人と一緒に居られるのである。そりゃ、ヒャッホイだろう。 「……和錆、寝づらくない?」 「ん、大丈夫だよ、月子さん」 寝室のベッドの上で月子が尋ねると和錆が静かな声で答える。 二人は寝間着を着ていて、体勢はいつも通り並んで仰向けになり、和錆は腕枕をしている。 ちなみにこの腕枕、最初は和錆の提案である。男の夢、女の子に腕枕という事で和錆からお願いした。 最初の頃こそ、月子は和錆の心配をしていたのだが、和錆自身が問題無いとアピールする事でこの腕枕は習慣化した。 とはいえ、それでも一度は必ず寝づらくないか、腕は大丈夫かと聞いてくるのが月子であり、和錆はその度に明るく大丈夫だと応える。 「月子さんは腕枕って嫌?」 「嫌じゃないけど、ちょっと心配かな。長時間の腕枕って鬱血するし、寝返りが自由に打てないから睡眠効果も弱まっちゃうし」 とてもお医者さんらしい意見に和錆は笑う。確かに医学・人体の構造的には正しい。 正しいのだが、それはあくまでも肉体の化学反応の話である。 「むしろ月子さんと一緒にこうできる方が心のバランス的には良いから、全然気にしないで」 「……私も和錆の腕枕が今じゃ一番寝やすいから判るけど、照れるよ」 「大丈夫、俺も恥ずかしいし……まぁ、誰も聞いてないからさ」 和錆はそう言うとはにかむ。二人とも頬を少し赤くする。 一応、トイレなどに起きた時の為に足下が見える程度に明かりはつけてあるが、それでもお互いの顔の微細な変化にまでは気づけない。 暗闇ではないが、限りなくそれに近い状況。触れ合っている事もあってか、和錆は少し大胆に行動する。 「それじゃ、いつもとちょっと体勢変えてみようか?」 「え、どういう風に?」 「こんな感じ、かな」 和錆が身体を動かして体勢を変える。仰向けから、横向きに身体を変えて、腕枕をしていない方の腕で月子を軽く抱きしめる。 それは朝と全く同じ体勢で『偶然』の一致に月子は顔を赤くする。 「か、顔近くないかな?」 「……暗くてよく見えないからもう少し近くで見て良い?」 「だ、駄目……赤くなってるし、なんか……恥ずかしい」 「そっか。でも、見ちゃおうかな」 「だ、駄目だって……ぁ、ぅ……ち、近いってば、もう」 朝の事もあるせいか、物凄く恥ずかしそうにしている月子。とはいえ、和錆の身体を突き放そうともしないあたり、乙女回路が発動中なのかも知れない。 別に月子は極端な恥ずかしがり屋ではない。自分からキスや抱きついてくる事もしばしばあり、街中などでそれをされて和錆の方が慌てる事だって多い。 だからこそ、ここまであからさまに照れている月子というのは……うん、良い。やっぱり凄く良い、と和錆は胸の中でガッツポーズである。 「キスする時はもっと近いし、大丈夫だって」 「そ、それは……そうなんだけど……だ、だから……近いよ、和錆」 月子の止める声は弱々しく、和錆はそれを無視する様に顔を更に近づける。触れ合うほどの距離になれば、和錆にもハッキリと月子の顔の変化が見て取れる。 月子は顔を真っ赤にして、目を合わせられないようだ。事実、視線はせわしなく動き、呼吸が少し荒い。 それでも月子は逃げる事はせず、もじもじと布団の中で月子が動く。照れてるのか、可愛いなぁ、と半分正解、半分外れている感想を心の中で呟く和錆。 「……も、もしかして和錆……起きてた?」 「……え、な、何が?」 今度は月子が偶然にも正解を言い当てる。とはいえ、月子がいっているのは「キスをした時」の話なのだが、逆にそれは判らない和錆である。 「……あやしい。本当は起きてたんでしょ、和錆?」 「ん、んー? な、なんの事だろうなぁ、あは、ははははは」 お互いに半分ずつ正解している物だから、決定的な間違いも無いまま話は進んでいく。 ただ、和錆は和錆で成り行きとは「寝たふりをしていた」という後ろめたさがあるので、何とか誤魔化そうとしている。 「だ、だから……その、朝……した時に……起きてたんじゃないの?」 「う、いや……その……ごめん、起きてました」 月子が更に踏み込むと、さすがにこれ以上は誤魔化せないと悟り、和錆は素直に認める。 途端、月子が顔を赤くする。無防備に甘えているところを(目は瞑っていたが)見られたばかりか、自分が悪戯したと思っていたら相手にそれが筒抜けだったと知れば、それは赤くもなる。 「……和錆、意地悪。楽しんでたんだ」 ちょっと拗ねた様に言う月子。朝の妄想そのままで「あ、これはこれで良いかも」と思うがそれどころじゃないと悟る和錆。 「い、いや、ごめん。あんな風に甘えてられるのが嬉しくてさ、俺も寝起きで月子さんを抱きしめてるって状況に驚いててすぐに言い出せなくて」 「……だからって、キスした時まで表情変えないなんて、和錆は寝たふり上手すぎるよ」 「……え、キス?」 「……え?」 固まる二人。和錆は何のことだか判らず、月子はそれが何を示しているのか判らない。 「……え、えーと……朝、気づいたら抱きしめてて、それで月子さんが抱きついてきてたんだけど……キス?」 「……ぁ……な、なんでもないっ」 月子は顔を真っ赤にして隠れるように上掛けを頭まで被せてしまう。 それでも腕枕は止めないあたり、新婚さんというか、月子の微妙な心情が垣間見える。 「……月子さん、キスって何かな?」 その様子に和錆は笑い、布団の上からとんとん、と月子の肩を叩きながら尋ねる。 「……知らない」 布団の中からくぐもった声で応えられる。きっと今は顔を真っ赤にしてるんだろうなぁ、と和錆は笑う。 とはいえ、このままスルーする……なんて大人な対応をするわけもなく、和錆は笑ったまま腕枕をしていない方の手で上掛けを掴む自分も隠すように上掛けを被る。 「これで隠れられないよ、月子さん」 「ぅ……か、顔見ちゃ駄目。今は……駄目」 「何で?」 「そ、そんなの見れば判るでしょ?」 「いや、布団の中って真っ暗だから見えないよ、月子さん」 「あ、う……そ、それは……う、うぅ……」 妙に進退窮まった感がある月子とそれを楽しむように笑い声を漏らす和錆。 布団の中なので、何が起きているのかはよく判らないが、かなり仲良しの様子である。 「月子さん、本当に可愛いね……」 和錆が動いた。顔の部分が動き、二つの山が一つになる。 「……にゃー」 月子の可愛らしい声が聞こえて、和錆のくすくす笑う声が静かな寝室に響く。 「……くぁ……」 リビングではコーヒーがあくびをした。 「……ぴー」 動きに釣られて、ひよこのピーちゃんがもそもそと動き、何かあったの? と言わんばかりにコーヒーを見る。 「……わふ」 コーヒーは何も無いよ、いつも通りさ、と言うように声を漏らすと、そのままピーちゃんを抱くようにして眠りに入る。 「……ぴ」 ピーちゃんもそっかぁ、と言わんばかりに抱かれるまま、コーヒーの体毛に埋まるようにして、瞳を閉じた。 こうして、今日も終わる。 いつもの日常、ちょっとだけ違いはあっても普段とほとんど変わらない日常。 明日も続くだろう、明後日も続くだろう。 それに不満を覚える事は無い。何故なら幸せという実感を二人が噛み締めているから。 むしろこの日常が大きく変わる事件なんて無い方が良い。 様々な事件、出来事を経ている二人には日常の大切さも身に染みて判っている。 だからこそ、何かが起きれば彼と彼女は『当たり前の日常』を守る為に尽力するだろう。 これはそんな、どこにでも居る当たり前の『夫婦』の話。