〜お料理ですよ、玄乃丈さん〜 どうしたものかと、玄乃丈は考えていた。 腕を組み、目の前にある問題の人物に、なんと声をかけるべきかを悩んでいた。 そこは玄乃丈が暮らす家の台所であり、一人暮らしの彼の家には本来、ほかの誰かがいるはずはない。 しかしその日は、来客があった。 ヒラヒラとした白いエプロンドレスに、おとなしい色合いのストールをつけた柔和な笑みの女性。 名を、榊遊といった。 探偵業を営む玄乃丈にとっては(数少ない)たびたび仕事をもってきてくれる依頼主、すなわち食い扶持であり生命線でもある人物だった。 数年前からの付き合いであり、それなりに気心の知れた間柄ではあったが、今日は少しばかり勝手が違った。 原因は、彼女がキッチンで料理をしていることにあった。 それは両者合意の上で行われていることだったが、自分が彼女をこきつかっているように思えて、玄乃丈は、困った。 手伝うなりなんなりすれば良いのだが、なんと言って手伝うべきか、わからなかった。 たっぷり15分ほど悩んで、ごく平凡な言葉をくちに出す。 「あー、なにか手伝うか」 「いえいえ。それほど手間がかかるものでもありませんし。玄乃丈さんはテーブルでゆっくりなさっていてくださいな」 キッチンで野菜を水洗いしながら、榊遊はそう言った。 すでに用意してあったかのように、返事の言葉は丁寧かつ流暢だった。 途方に暮れて、玄乃丈は疲れた顔で天井をあおいだ。 きっかけは、遊園地へ出かけた帰り道でのことだった。 話の流れで日向の最近の食事情に話題が移ったところ、収入は依然とあまり変わらず、たいそうひもじい思いをしている、とのことだった。 それならばと、遊が手料理を振る舞いたいと申し出たのだ。 日向はまともな食事ができるならばと深くは考えずに了承し、材料を買い込み、今に至る、というわけだった。 微妙にばつが悪そうに、そうか、とだけ言って玄乃丈は元いたテーブルまで戻っていく。 遊は、後ろ姿を見ながら、少しくらい手伝ってもらうのもよかったかもしれないですね、と思い苦笑した。 考えてみれば、こうしてキッチンを借りて手料理をふるまうということは今までなかった。 以前にサンドイッチなどを持参してきたことはあったが、それとはまた別物だ。 外から見たら新婚夫婦くらいには見えるかもしれませんね、と榊遊(PL♂)は考えて、微笑んだ。  一方、日向はまったく別のことを考えていた。 住み慣れた我が家であるはずなのに、どうにも居心地が悪い。 すぐ後ろから炊事の音が聞こえてくる。 ただそれだけのことに、なぜだかひどく落ち着かない。 一人でカップ焼きそばをすすることに慣れたせいか?  光太郎と一緒だった頃は別段、気にもならなかったはずだが。 テレビでもつけたいところだが、日向家にはテレビがなかった。 以前はあったのだが、一年ほど前、金策に困った折りに彼の一ヶ月分の食費へと姿を変えていた。 仕方がないので新聞を取り出す。 これだけは仕事上、欠かすわけにはいかなかった。 たとえ食費が削られてもだ。 ハードボイルドは金がかかるのだった。 「なになに。ニューワールド遊園地特集、か……」 ふと目にとまったフィーブル新聞の記事は、なかなかに牧歌的だった。 共和国、帝國を含めた全藩国にある遊園地の紹介記事らしい。 その中には、つい数時間前に訪れた愛鳴之藩国の遊園地についても書かれていた。 「意外と流行ってるんだな」 記事を見ると、家族連れを中心に来客者数の伸びは上々、とのことらしい。 なんにせよ、いいことだと日向は思った。 遊ぶ余裕があるということは、それだけ治安がいいということだ。 戦争だのクーリンガンだのと物騒な事件も多いが、負けずに頑張っている証拠だろう。 少しだけいい気分のまま、胸元からタバコを取り出す。 仕事で宰相府に行った時に買い貯めておいた安物だが、味は悪くなかった。 新聞の記事から目をはなすことなく、片手で器用に一本だけ取り出す。 あいにくライターはなかったので(愛用していたジッポライターは半年前、一週間分のカップ焼きそばに姿を変えた)味のれんでもらったマッチを使った。 深々と煙を飲み込んで、吐き出す。 もう何年も続けてきた習慣だが、不思議と飽きはこない。 ああ、調子が出てきた。いつも通りだ。 そう思って再び紫煙をくゆらせよう、としたところで 「あの、玄乃丈さん」 「むお。 ああ、なんだ?」 すっかり忘れていた。 今日は自分のほかに人がいたんだった。 普段の調子で自分一人だと思いこんでいたせいで、かなり間抜けな声が出てしまった気がする。 「用意ができましたので、お皿を並べるの手伝ってもらえませんか?」 「あ、ああ。 わかった」 そんな日向の焦りを知ってか知らずか、何事もなかったかのように遊は話しかけてきた。 日向の返事を聞いて、にこっと笑う。 「じゃあ、お願いしますね」 そう言って皿を渡し、ふたたびキッチンへ引っ込んでいく。 言われた通り、二人分の食器(そんなものが日向宅に常備されているはずもないので、遊が用意した)をテーブルに並べる。 (そういえば、さっきからいったいなにを作っていたんだ?) 考えてみれば、献立を聞いていなかった。 道中、好き嫌いはないかなどは聞かれたが、特になにを作るという話は出ていなかった気がする。 ちょうど並べ終わったところを見計らって、遊が土鍋(そんなものが日向宅に以下同文)を持ってきた。 熱そうな湯気が立ちのぼる。 鍋の中を見て、日向は納得した。 「おでん、か」 日向が指摘した通り、鍋の中身はおでんだった。 はんぺん、ちくわぶ、大根にじゃがいも等々、さまざまな具材が詰め込まれている。 「前におでん屋さんへ行った時、とてもおいしそうに召し上がってらっしゃいましたから」 笑顔で理由を告げた。 さっそく卵と大根を皿に取り分けて、日向へ手渡す。 湯気と一緒に立ちのぼってくるにおいが食欲をそそる。 「まぁ、そうだな。 好物ではある」 「そうだと思いましたわ♪」 ぐう、と日向の腹の虫が泣き出した。 自分が思っている以上に空腹だったようだ。 さっそくとばかりに、大根をばくり、とひとくちに頬張る。 もしゃり、もしゃりと大きく口を動かしてかみ砕く。 しっかりと染み込んだ出汁がくちいっぱいに広がった。 「うまいな」 「それはよかったです。 頑張って作ったかいがありました」 にこにこしながら遊は言った。 自分のぶんを皿にとり、ふうふう冷ましながら食べ進める。 小さく食べる姿は意外に可愛らしい。 もくもくと食べ進める遊を見て、玄乃丈はそう思った。 「思ったんだが、前にいったおでん屋の味に似てる気がするな」 卵をかじりながら、日向は思い返すようにそう言った。 それを聞いて、遊は嬉しそうに答える。 「わかりますか? じつはこの間、例のおでん屋さんで作り方のコツを教えてもらったんです」 「へぇ。 よく聞いただけで真似できるもんだ」 感心したように日向は頷いた。 「うふふ。 そういっていただけると光栄ですわ♪」 笑顔で遊が答える。 #本当は器用の数値を提出しただけなんですけど。 と行頭にシャープをつけて心の中だけでつぶやいた。 もちろん、そのつぶやきは日向の耳にはまったく届かなかった。 微笑む日向。 「しかし、けっこう金がかかったんじゃないか。これは」 思いやるようにそう言った。 この人狼、うまいもの=金がかかる という公式が骨身にしっかり染みていた。 十数年間つかり続けていた貧乏という出汁が、玄乃丈のなかに悲しい現実を染み込ませていたのだった。  「いいえ、たぶん10わんわんくらいですよ?」 なんでもないことのように、遊はさらりとそう言った。 しかしそんな彼女の様子とは逆に、日向は値段を聞いて衝撃を受けていた。 二人分で10わんわんだと。 屋台で食べた時は倍の値段だったはず。 「自分で作れば、材料の値段だけですみますから」 「なるほど……いや、しかしなぁ」 日向は頭の中で計算を始めた。 毎日の焼きそば代とおでん代を比べてみる。 微妙なところで拮抗しているが、もしかしてカップ焼きそばよりも安くあがるんじゃないだろうか。 恐ろしい結論に達し、日向は戦慄した。 自炊というものは日向が考えていた以上に凄まじい存在なのかもしれない。 「もしかして、毎日おでんを作れば金がかからん上に焼きそばを食べなくてもすむのか……?」 日向の真剣なつぶやきを聞いて、遊が苦笑しながら答える 「毎日おでんというのも、飽きてくると思いますけれど」 「あー。そういえばそうだな」 「でも、お料理ができればいろいろ作れて楽しいですよ」 日向は重々しくうなずいた。 焼きそばばかりだと飽きるしな。 そんな悲しい経験則を見た遊は、苦笑しんがら、ふと思いついたように言った。 「もしよければ、お教えしましょうか?」 「いいのか?」 「もちろんですわ♪」 地獄で仏を見たように、助かった表情で日向は微笑んだ。 「わるいな」 こうして、榊遊によるお料理教室(生徒一名限定)が開かれることになったのだが。 当日になって、日向が「食費を浮かせるために自炊というのは、ハードボイルド的にどうなのか」という命題について気づいてしまうことになるのだが、それはまた別のお話。