*二歩下がる  此方、記憶を喪いたる女在り。  喪いしは愛しいものの記憶。  然うして記憶を奪いたるもまた。  愛しいもの。  何を喪いしか、それも覚えず。  ただ狼狽周章。  今は亡い。  という記憶。 #center(){/*/}  コール・ポーは電話の前で軽く頭を下げて受話器を置いた。  小さくため息、それから軽く目を瞑って思いを馳せる。  これからどうすれば、と。  瞼に映るのはただ一人、彼女の恋人。銀髪の海賊。  シルヴァ・ポー。  自分とともにいるのは不幸だから、と彼女の記憶を奪って 去った人。  身勝手で。  捉え所が無くて。  会えばいつもはぐらかしてばかりの。  とても優しい、愛しい人。  そんな彼の存在を最後に確認できた空港への、確認の連絡も空振りに終わった。  そこから先の足取りは杳として掴めない。元々が神出鬼没の海賊、夜明けの船のエースだった男だ。国家権力を煙に巻くくらいは軽くやってのけるのだろう。  瞼の彼を目に焼き付けてから目を開くと、コールはちらりと玄関のドアを見遣った。ともあれ、こうしていても埒が明かないことは確かだ。  一方で、外に出て行くことを躊躇する自分も感じられる。  深閑とした芥辺境国。 針を落とせばその音も聞こえそうな静けさはあの時を想起させる。  額にふれる彼の手と最後の言葉。当て所ない手紙を手にして涙する自分。  喪った、という痛みを感じられるのが暁光だとは思う。記憶を喪ったまま何もわからないでいるよりは。  ただ、あの喪失感をまた味わいたくはなかった。  でも。だから。  刹那の葛藤の末。  コールは鼻から大きく息を吐いて背筋を伸ばした。  ついでに尻尾はぴんと。その先に結ばれた黄色いリボンのような切れ端も元気よく。  そうだ。まずはあの場所から空港までを辿ってみよう。彼の目撃情報を聞き込むのだ。  現場百遍。昔の偉い人もそう言っていたではないか。  よくわからない理論武装で自分を鼓舞したコールは勢いよくドアに手をかけ、そろりと、あくまで慎重に外へと滑り出た。  人間そう都合良くはできていない。何をしたって怖いものは怖いのである。  がちゃり。  そうして普遍的平凡な擬音を立てる扉が開いて閉まる間に彼女が目にしたもの。  シルヴァがのんびり空を見ていた。  瞼の彼が何事もなかったかのように、至極自然体で。  あろう事か彼女の自宅の前に。  ドアを開けるまでの意気込みもそのままに足からもんどり打つコール。背後に青い鳥の群舞が見えたとか見えなかったとか。  ともあれ。  驚異的な速度で姿勢制御に成功したコールは改めて玄関先に佇むシルヴァをまじまじと観察した。  間違いなく、其処にいる。  どうやら想い在り余っての幻覚妄想の類ではないことを確認すると、コールはこちらにまるで気付く様子もなくただのんびりと空を見上げている彼に近寄ることにした。  相手はなんと言っても手練れ、ここで逃がさず、さりとて頑無視もされず。そんな乙女心を込めてじりじりと間合いを詰める姿はあたかも雀を狙うイエネコの如し。  今こそ必殺の間合い。 「シルヴァさん!こんにちはですー」  努めて明るく挨拶するコールだが果たして。 「俺には話しかけない方がいい」  シルヴァはゆっくりとコールの方を見てそれだけ言うと、またゆっくりと元通りの姿勢に戻って空を見上げた。  もしかして何か大事な張り込み中で、とか。と辺りをきょろきょろ見回すコールだが、最前と変わらず辺りは静けさを保っている。  人っ子一人いない。  コールは念の為口元に手を当てるとシルヴァに小声で話しかけた。 「ど、どしてですかっ!」  変わらず空を見上げていたシルヴァだが、コールの見ているその前でやがてその肩が小刻みに震えだし、ついには堪えきれないといった感じの笑い声になる。  何が起こったのかと呆気に取られること暫し、コールの顔にみるみる朱が差していく。  どうやらからかわれていただけらしい。そういえば、肝心なときにはいつもこういう感じではぐらかされていた気もする。  嬉しいのと恥ずかしいのと寂しかったのと。いろいろな感情が入り乱れてただ顔を真っ赤にして立ちつくすだけのコールの頭を、シルヴァの手がゆっくりと撫でる。  懐かしさを感じる、優しいその感触。そうされているうちに余計なものが洗い流されて純粋な喜びだけがきらきらとした輝きで胸を満たしていく。 「し、シルヴァさん。お、おひさし、ぶり、です!」 「……ああ。  小動物は、あいかわらずだな」 「………。  お姉さんぽいほうがいいですか? 恥ずかし過ぎて無理ですが」  久しぶりの逢瀬に、彼の第一声はそれで、対するコールは拳を握りしめて大真面目な表情だが。 「まあ、無理だろうな」  シルヴァは笑ってあっさりそう返した。 「元からこうなので、必要であれば教育していただけると嬉しい、です!」  その程度の返しではめげないコール。拳を握りしめたまま鼻息を一つ。 「他の男にでもやってもらえ。  海賊には、荷が重い」 「……う。重くてごめんなさいです。  シルヴァさんとは……シルヴァさんのお隣にいられたらそれだけで良いです!」  真剣な声音でそう言い募るコールだが、シルヴァは頭を撫でていた手を止めると寂しげに微笑んで目をそらした。 「……そ、そゆお顔はぶ・ぶーです」  途端にまた様々な思いが脳裏に入り乱れ始めるコール。宙に浮いた仮想のボタンを叩く仕草とともに普遍的な擬音を口にした。 「シルヴァさんはいつも自信満々で笑ってるのがぴんぽん、だと思います…ます」 「そうだな。そうするよ」  意外な指摘だったのか、シルヴァは二三度瞬いて口元を僅かに緩めてからコールの前髪を除けるようにして額に指先を伸ばした。  反射的にびくりと体を縮めて後ずさるコール。 「?」 「わ、わたしのココは現在だめだめぽいんとです!のっとたっち!!」  両手で額を押さえ絶対堅守の構え。ついでに怪しげな英語が口をついて出たりしたが、それもこれも例の記憶を奪われた際の体験によるものであった。  のだが。 「胸だと犯罪だろう」  わざとはぐらかしているのかシルヴァの返しは素っ気なく的外れなものであった。しかし悲しいかな、混乱の極みに達しているところのコールは更に混乱に輪をかけるばかり。 「も、物事には確かに順番があるですよシルヴァさん!おっぱいは結婚指輪と婚姻届がひつようですっ」 「永遠に無理そうだな」  これは思惑通りか、いつもの調子に戻った会話に安心したように笑って、シルヴァは今度は手の平をゆっくりと伸ばしてコールの頭を撫でた。 「え、えと。シルヴァさんとなら何でもしたいんですが。  ……駄目ですか?」 「お前が不幸になるし。そもそもお前、男だろう」 「おーんーなーでーす!  セイリも毎月ばっちり来ますよ!!」  シルヴァが自然に笑い声を上げて頭を撫でているのでコールもつられたように笑って答える。こういった問答も随分懐かしく感じられる。  男とか女とか子供とか大人とか幸せとか不幸とか。  そんな刹那の追憶の中から不意に別れ際の記憶が頭をかすめて、コールは頭を撫でるシルヴァの手を押し頂くように取って胸の前に捕らえた。  もうどこかへいってしまわないように。  実質的にそんなことは不可能だとは知っていても、そうせずにはいられなかった。  シルヴァは珍しく茶化すでもはぐらかすでもなく、おとなしくされるがままにしている。 「う、うー。私がここに居る理由も、ぜんぶ、シルヴァさんです。  だから、男呼ばわりされたりすると悲しいし…いやまあ確かにそんな過去はありましたが、それは過去でして、とりあえず、今のわたしみてください、です」 「……」  コールは真剣そのものだが、シルヴァはやはり笑ったまま、空いた方の手で頭を撫でるに留めた。  想いは言葉では届かないのだろうか。  触れてはいても彼方と此方に無限の隔たりが横たわっているのか。 「頭なでられるのは好きですけど、ぎゅっとしてちゅーのが好きです。って前に喫茶店でお話したです」 「ここは外だ。場所を考えろ」  もどかしい。いじけるコールに対する答えはやはりいつかと同じだった。  もしかして何か大事な張り込み中で、とか。と辺りをきょろきょろ見回すコールだが、最前と変わらず辺りは静けさを保っている。  人っ子一人いない。  コールは念の為口元に手を当てるとシルヴァに小声で話しかけた。 「じゃあ、シルヴァさん、しゃがんでくださいです」 「?」  思わず言われるがままその場にしゃがみ込んだシルヴァの頭をコールは素早く胸に抱きしめた。  そのまま抱き留めるには葉身長差がありすぎるので採った電撃作戦だが。  不意を打たれて身動きできないシルヴァは何をするんだとか、場所を考えろと言っただろうとか、反撃の言葉を探す。  その間にも容赦なく耳を打つ鼓動の音。服越しに感じられる甘やかな体温。かすかに震えている身体。  彼が重荷だと断じてきたもの。  大事なものになってしまえば彼が決定的に変わってしまう、後戻りは効かないもの。だから自覚的に、或いは無自覚的にも多分避けてきたのだ。これまでも、そして今も。  だが。  今回くらいはまあ、負けたままにしておいてやるか。  あと少しはこのままで。  心の中でだけ静かに呟くと、シルヴァはそっと目を瞑る。  静けさに包み込まれて二人はその場に佇み続けた。 #center(){/*/}  彼方、記憶を奪いたる男在り。  奪いしは愛しいものの記憶。  然うして記憶を取り戻せしもまた。  愛しいもの。  何を奪いしか、それを想わぬ日はなく。  ただ狼狽周章。  今ここに在る。  という記憶。  此方と彼方の岸部に立って男と女が手を携える。  わたしのあなたと。  あなたのわたしと。  三千世界の片隅の。  不思議の川のあちら側。  貴方は。貴方は。  貴方は誰。    応えはすぐ、瞑っていた目を開くだけ。 #right(){拙文:久遠寺 那由他}