*指輪を買いに行こう #center(){/*/}  あなたは、覚えているだろうか。  帝國の実質的要たる宰相府へ思い人を求めて乗り込み、涙と鼻水で顔を汚して切々と窮状を訴え、挙げ句かの館の主に電話の取り次ぎをさせた男の事を。  斯様に表面の事象だけをなぞれば珍事以外のなにものでもない、言い換えれば愚かしき蛮勇のようであったこの出来事によって彼は掛け替えのないものを手にいれた。  月は太陽があってこそ夜空に輝くもの。あるいはその逆も然りか。  さて此度、月は太陽を輝かせることができるだろうか。  青空晴れ渡るこの良き日、彼の太陽が降り立った。 #center(){/*/}  空港のゲートをくぐった陽子は深呼吸するように空を振り仰いだ。  髪を揺らす柔らかい風に含まれる匂いはかすかに甘く、どこか懐かしさを喚起させた。  歩きながら左右を見渡せば、舗装された道路が伸びる向こうは近代的な建造物と黄金色の畑が混在している。 そこですれ違う民は尻端折であったり着流しであったり。  帝國にあっては少数派である古き良き東国の雰囲気を充分に残したこの国の風景は、陽子にはほっとできるものだった。  ここが、彼の母国。  何となくその言葉を思い浮かべただけで面映ゆい。小麦色の肌に朱を差して口元を緩めると、その彼がこちらは満面の笑みで彼女を迎えた。 「初めて、かな?たけきのに来るのは」 「はいデス」  いつもと同じ無精ひげ。着崩した着流しに懐手。セルフレームの眼鏡。その奥の優しい瞳。  微笑むと名前の通り月が欠けるような、その目。  陽子は思い人が目の前に存在する幸福を確認して、更に顔を赤らめ、もじもじと恥ずかしそうにした。 「恥じ入ることなんてないよ。胸を張って」  そう言って破顔する彼が眩しい。陽子は大きな体を小さくして頷いた。  陽子の手荷物を持って先を歩く彼の後に着いて歩く。 「陽子さんがウチの国に来てくれて嬉しいよ。 俺、この国好きなんだ」 「が、がんばりまス」  彼の故国で始まる新しい生活。それにまつわる諸々と未来を幻視して勢い込む陽子であったが、彼の声はあくまで緊張をほぐすように柔らかい。 「頑張らなくても良いよ。  そのままの、いつもの陽子さんが大好きだから」  彼の一言から色々先走っていた陽子は再び恥ずかしそうに小さくなった。そんな彼女の姿に相好を和ませ優しい視線を送る彼。 「ふふ。ウチの国はちょっと前に『恋愛に呪われた国』なんて言われてね。  そしたら藩国民が祈りを捧げてくれたんだって」 「すみません…」  最前の顛末を思い起こしその風評に関して自分に責任の一端があるのでは、としゅんとする陽子であったが、この風評はその後も散見するのでどうやら二人とは無関係らしい。 「なんであやまるのさ。   藩国民の優しさがある国だって言いたかったんだ」 「…」  真摯に応えて陽子の手を取る彼に陽子は黙って微笑み手を握り返した。彼の人となり、その言動の端々からこの国の民の思い遣りが垣間見える。  彼の母国、その民。きっと良い人ばかりなのだろう。大きな手の平の感触を感じながら、陽子は嬉しそうに上目遣いに彼を見つめた。  彼はそんな陽子に微笑みを返した後、やや落ち着き無く小さく咳払いして眼鏡を直した。 「今日は陽子さんに指輪を、その、贈りたくて…」  陽子は小さく、こくんと頷いた。  それはつまり、そういうことだろうか。  結婚を前提にお付き合いする男女が必然的に買い求めるという。  勿論陽子の気持ちはとうの昔に決まっているが、一応確認せねばならない。 「ぺ、ペア、ですか?」 「もちろん。  指輪があればプロポーズできる…から」 「はい」  しきりに顎の無精ひげを撫でながら盛大に照れる彼と嬉しそうに何度も頷き頬を紅潮させる陽子と。  田園の稲穂も頭を垂れようという、幸せの光景。 「じゃあ、行こうか」 「はい」  再び歩を進めようとして、陽子は瞬きの間逡巡し、少しだけ手を伸ばした。  と思ったら引っ込めた。  その手をそっと取って彼は指を絡める。 「あ、ごめん。手をつなぎたいんだけど…」  輝くような笑顔で頷いた陽子としっかり手を繋いで彼は歩を進め、やがて田園の景色が途切れると商店が軒を連ねる商業区に入る。  それに伴ってすれ違う人の数も増えていき、目的の宝飾店の付近まで来ると真っ直ぐ歩くのも困難なほどの人出になった。  この辺りで手を繋いで歩くことはあきらめた二人だが。 「人多いね…はぐれないようにしようね」  と言いつつ彼が振り返ったときには既に陽子は人波に消えていた。 「陽子さん?あれ。陽子さーん!」  やはり無理にでも手を繋いでおけば、と臍を噛みつつ声を上げると。 「はあい」  思いの外近くから応えがあり、声がした方に振り返ると人混みの中から陽子が精一杯背伸びして手を挙げこちらへ歩み寄って来るところだった。  平均的な東国人の中にあって大柄でエキゾチックな容貌の陽子はすぐに目につく。  はぐれずに済んだことに安堵しつつ、今度こそしっかり手を取って目当ての宝飾店に入ると、二人は揃って途切れない人波を見遣った。  どうやらこの人出はみなこの宝飾店が目当てらしい。 「なんで宝石屋が大繁盛するデスか?」 「この前大きな動乱があってね。  それから今この国は復興している中だからかな」 「?」  陽子は不思議そうに小首を傾げ人差し指を頬に当ててカウンターに並ぶ民人達を見遣る。ひっきりなしに出入りする民人が買い求めるのはいずれも帝國銀行の刻印の入ったインゴッド、あるいは装身具に加工された高純度の金らしい。 「金…金本位政策?  安心の置ける資本を持っておこうという、経済対策、だったかな…ごめん、詳しくは分からないや」  政府の発行する貨幣の価値保証に金を用いることを金本位制という。それに対し、現在のNWにおいては貨幣の価値はその実存を超えて存在している。  帝國の共通貨幣単位であるわんわん、同じく共和国のにゃんにゃん、宰相府が独自に発行しているマイルにしても同じである。これは景気が良いときには良いのだが。 「政府に信用がないですね」  陽子はそう言って納得したように頷いた。  政府に信用がないということは発行される貨幣の信用も無いということ。  そこで明日には紙切れになるかも知れない不安定な貨幣を、価値の目減りしない貴金属に換えておこうということのようだ。 「そういうことだったはず…いや、教養無いと恥ずかしいね。 勉強しなきゃ」 「一緒に。やるデス」 「そうだね。うん、なんか俺勉強好きになりそう」  また新たに生まれた共通の目標に、二人で揃ってなんだか盛大に照れながら、彼は咳払いを一つ。ショーケースに並んだ煌びやかな装飾品の数々に目を遣った。 「ええと、実は装飾具関係は全く分からないんだ。  陽子さん選んでもらって良い?」 「私も…あんまり…」 「じゃあ店員さんに聞こうね。  悩むのも素敵だけど、二人の時間がもったいない」  彼が手を挙げて声を掛けると、カウンターの向こうで手持ち無沙汰の風情だった店員が喜色を浮かべてやってきた。  どうやら投機目的に金を買い漁る客ばかりで辟易していたらしい。 「はい。なんでございましょう」 「すみません。婚約指輪を探しているのですが、詳しく分からなくて。  おススメを教えてもらえますか?」  彼の言葉に店員はスマイルを増量して滑らかに対応を始める。待ちわびたプロ意識の発揮のしがいのあるお客様の来店であった。 「大まかにわけますと、プラチナゴールド、ゴールドから選んでいただけるますと、さらにご説明できます」 「すみません…その違いも分からなくて。簡単にご説明いただけますか?」 「銀色か、金色、ですね。太さは細い方が普段使いにはいいかもしれませんね」  これと、これと言う風に見本にいくつかシンプルなデザインのリングを並べてみせる店員に彼は顎の無精ヒゲを撫でながら陽子を振り返った。 「陽子さん、指輪は銀色、金色どっちが好き?」  ショウケースの上に指輪が一つ並ぶたびに頬の紅潮と瞳の輝きを増していた陽子は、彼の言葉に我に返って。 「き、きんで」  とだけ何とか応えて大きく肩で息をした。どうやら幸せ過ぎて目眩がするらしい。彼はその様子にじんわり胸に迫るものを感じつつ、要望を店員に伝えた。 「金を教えてください」  今度は金を素材にした指輪がショウケースの上に並べられていく。文字が書かれたもの 。チェーンのもの。細いもの。ねじりの入っているもの。 「だんな様はあわせて?」 「はい、合わせます」  冷静に受け応えているようで、実はだんな様の一語を脳裏で反芻している彼である。  だんな様。  陽子にそう呼ばれたらどうなったしまうか、まあ想像に固くない線ではあろうか。 「宝石は何を?結婚指輪でしたらダイヤがございます」 「どれも綺麗だね。  陽子さん、どれが好き?」 「ダイヤ…」  右から左へ、ショウケースの上の指輪達に順繰りに何度も熱心に視線を注いでいた陽子はその中からダイヤが目立たないように埋め込んである、細い金の指輪を迷わず指さした。  ダイヤと金という組み合わせながら清楚で控えめな指輪は、やはり陽子の人となりを良く表していた。 「分かった。 おいくらになりますか?」 「5万わんわんでございます」  店員が示した指輪のタグに彼は一つ頷いた。充分買える金額だ。 「陽子さんが好きなので決めるよ。この金の指輪にしようか?」 「もっと安いので…」  陽子は提示された金額にやや我に返ったようで、申し訳なさそうに小さくなったが彼はおおらかな笑みを浮かべると大きく頭を振った。 「いやいやいや」 「これで、いいですか?」  それでも陽子は迷っているようで、もう少し値の下がった指輪と交互に見比べているが、やはり初めに示した指輪が気に入っているらしい。 「うん。じゃあ付けてみて決めよう。 店員さん、付けてみていいですか?」 「よろしゅうございますとも」  店員は満面の笑みで請け合うと素早く二人分の指のサイズを採寸して陽子に指輪を手渡した。  指輪が薬指に収まった左手を灯りにかざして嘆息する陽子。  それは思った通り、いやそれ以上に輝きを伴った印象で。彼は目を細めてその光景を脳裏に刻みつけた。 「似合う。  これにしようか。どう?」 「は、はいです。一生の最大の贅沢で!」 「うん」  左手を大事そうに胸元に押し頂くようにして感極まった陽子の姿に、彼もまた溢れんばかりの喜びを感じていた。  その勢いのまま、微笑ましげに見守っていた店員にこう宣言した。 「店員さん、これ買います!  俺たちの婚約指輪を!」  ああ、歓喜と幸福に満ちた人間の、なんと光輝に満ちたことか。  この道に長く携わっているのであろう店員は、その光輝の勢いに負け、頼まれてもいないにもかかわらず値引きをした上で、綺麗な小箱に二人の指輪を厳かに納めて手渡した。  /*/  来た時と同じように、睦まじく手を繋いで笑顔を交わし宝飾店を後にする二人に、一連の遣り取りの途中からやや呆気に取られて見守っていた風情の民人から何故か小さな拍手がわき起こったという。  それは金を買い求めに宝飾店を訪れた人波に伝わってさざ波のように、寄り添って歩く二人を包んだ。  若い二人の前途に幸あれかしと。  そんな風に小さく誰かの幸せを祈る気持ちが蘇る瞬間だったのだろう。  そして彼らは家へ帰り、ちょっと良いものを見た、と家人に話しただろう。  災禍がそうであるように、幸福もまた人の間を伝播するのだ。  それは僅かであっても人の心を良き方へ導く、素敵で小さな魔法である。  どうぞ月と太陽に永く光輝のありますよう。 #right(){拙文:久遠寺 那由他}