背後から斬りつけられたのに気づいたのと、振り向きざまに斬りつけたのは、ほぼ同時だったのだと信じたい。 男は壁にもたれかかり、荒く息を吐いていた。 砂漠の国に似合わぬ和装。石造りの家々の間、僅かな影に隠れるように。 背から流れ出た血液は、影を出れば地熱と日に晒され乾き、路面に跡を残す。 代わりに冷えたその上を、新たに流れた血が超えていった。 己を中心に、半円状に広がる血液。もう、助かるまい。 おかしくなったのは、何時のころからだったか。 男は回想する。 己を律する術を覚えた筈ではなかったのか。 過ちを正され、殺されることもなく諭され、正道を行くと決めたのではなかったのか。 なのに、何故。 力の入らない右手に握った己の刀は、血に塗れているのか。 まず最初にはるが、何者かに操られたかのようにおかしくなった。 ムラマサを正し、鎮める筈の男が、突然狂乱した。 それにつられるかのように、国中に狂乱が広がり始めた。 何故だ、何故だ、何故だ。 その問いが、それだけが幾度も繰り返される。 問いは次第に形を変えた。 誰のせいだ。 聞けば人は答えるだろう。はるのせいだと。 では、はるが狂ったのは誰のせいだ。 聞けば人は答えるだろう。神のみぞ知るのだ、と。 ならば男は神を憎んだ。 はるを狂わせ、民を狂わせ、この国を焦土に帰そうとする神を憎んだ。 賽を振ることもなく、気紛れに戯れに、民を殺す神を憎んだ。 力の入らぬ体の口元から、歯を食いしばる音がした。 ゆるゆると、視界を上向ける。 次第に日は天頂に近づき、影はその面積を減らしていく。 足先が日に晒されても、最早暑いという感覚もなかった。 ただ斬られた傷だけが熱く、そして今は体中が冷たかった。 けれど震えることもなく、上向けた視界の先の、家々を越えて一際目立つ建築物に、男は視線を向けていた。 コンクリート作りの、高い建物。 めぞんツン。その名を男は思い出した。 次にその住人を思い出した。 そして最後に、その建物の前に立ち、箒を持つもののことを、思い出した。 幼馴染の少女とともに、平和の中に立っていた、勝利者。 小宇宙。常勝の男を思い出した。 彼はまだ、狂ってはいないだろう。ならば、自分は彼に希望を託せるのだ。 他愛ないことを思い出す。平和を謳歌していた頃の事を。 こちらに手を上げ、その反応に戸惑っていた、まるで勝者らしくない男。 やれやれといった様子で嘆息する、隣の少女。 微笑ましい光景だった。二度と見ることの出来ない光景だった。 最早最後だ。 先ほど斬りつけたのが、己からではなかったのだと、最後まで己に言い聞かせ続けて。 ふるり、と最後に一度震えて。 男は二度と動かなくなった。 日差しが天頂に行き着いた。 失った熱を補うのに十分な日差しが注いでも、男は瞼を閉じたままに居る。 頬に僅か浮かべたままの微笑は、あの日小宇宙が見たものと同じであった。