*ピクニック? この世にあるあらゆるものは水が高きから低きへ流れるように移ろい、変わっていくもの。 人も、体制も、国も。あるいは世界そのものも。 私の母国がそうであったように。 一時としてその姿を留めることはないのだと。 今でも、そう考えている。 だけれども。 変わらずにあるもの、変わらずにあって欲しいもの。 そんなものがあると、信じてみたい気持ちを持つようにもなった。 これこそが私の変化。 思えば、あの頃からその変化の兆しはあったのだと思う。 #center(){/*/} 「空爆…か。  みんな無事だといいな」  道の端で新聞を広げ、ためつすがめつしていた青年は丸眼鏡を指で押し上げると難しげな調子でぼそりと漏らした。  青年の祖国である神聖巫連盟は貴族的、質実剛健な気風である帝國にあって例外的に牧歌的な雰囲気を残した国であった。  待ち人を待つ間の暇つぶしに、と新聞を買い求めた小店は木造の簡素な店構えで、ちんまりと座った老婆が一人で店番をしている。コンビニエンスな、というよりはささやかな万屋というのがふさわしい。  未舗装で薄く土埃がたゆたう往来とそこに連なる町並みはどこかしら郷愁を感じさせる。  青年の祖国はそんな国であった。  やがて土埃を透かしてゆらりと、陽炎のように黒い影が立った。近づくにつれてその影が、黒い洋風の長衣に日傘を差した人影と知れる。  長い銀髪が僅かな風にそよぐ。  目の端にその姿を捉えると、青年は手にしていた新聞を器用に八つ折りにして帯の腰のところに手挟んだ。  特に慌てる様子もなく、のんびりと待ち合わせ場所に現れた待ち人を迎えて歩み寄る。 「あ、ヴァンシスカさん こんにちわ」 「ごきげんよう」  軽く膝を折って鈴を転がすような声音の応え。日傘がくるり。 「お久しぶりです お変わりありませんか?」 「万物は変転します。  多分私も」  ヴァンシスカ・オーノール。  陽炎のように現れた白皙の女性の名をそういった。鍔広の帽子から垂らしたヴェールの奥から眼帯のない方の瞳で青年を見つめ短く答えた静かな声。  外見に似つかわしくない深淵を見てきたようなその瞳。  青年の心を捕らえて放さないもの。 「ふふ、そうですか。  今日はいきなりですが渡したいものがあるんです」  柔らかく笑った青年が袖無しの懐に手を入れると、彼女は僅かに首と日傘を傾けヴェールの向こうで微笑んだ。 「道の端にでも寄りませんか?」  ついと上げられた視線の先、牛の牽いた荷車ががらがらと賑やかな音を立ててこちらへやってくる。 「おっと、すいません」  言い差しながら元居た小店のわきに生えた立木の木陰へ彼女を誘う。  日傘を手にゆったりとした歩みで木陰にやってくる彼女の後を荷車が過ぎていく。この場合どちらが時代錯誤なのだろうか、ともあれそんな彼女の姿はこの町並みに不思議と馴染んで見えた。  木陰で彼女が日傘を降ろすと、青年は改めて大小二つの包みを差し出した。  包みを受け取り、大きい方を開いて彼女が微笑む。  大きく背の身頃を開いて両腕を通す、襟と裾がゆったりとした簡易な衣服様のもの。 「変わったものね」 「割烹着は以前国のみんなとお会いしたときに気になっておられたようなので、用意しました。   よろしければお使いください」  一緒に過ごした楽しい思い出が蘇るような。破顔した青年に笑みを向けると彼女は優雅に腰を折って頭を下げた。 「それからみんなの写真です」  小さく薄い方の包みは一葉の写真だった。彼と、祖国の仲間と彼女が同じフレームに収まったスナップ。 「素敵な贈り物ね。  ありがとう。雹」 「いいえ 喜んでいただけたようでなによりです」  青年の名を呼ぶ彼女の声。涼やかな余韻をよりいっそうの笑顔にして青年は晴天を仰ぐ。太陽は中天に高く、初夏の空は僅かに紗のような薄雲を貼り付けて青い。 「さて、今日ですが 何かしたいことはありますか?」 「お茶でもどうですか。知りたいことはたくさんあります」 「分かりました。  お店に入りますか?ちょっと歩くと見晴らしのいい丘とかもありますがそこでもいいですし」 「お茶の用意があればどこでも」 「ではお茶を持ってピクニックしましょう」  青年は頷いて請け負うと、小店の老婆に手際よく茶の手配を頼んだ。  程なくして携帯用の土瓶に入れられた茶と薄い焼き物の椀、それに彩り豊かな茶菓子の包みが出される。  それらを手に青年は彼女を誘って歩き出した。彼女は微笑み、日傘をくるり。  朗らかに笑い、語らい合いながらゆったりとした歩みで晴天の下を行く二人。  やがて二人は、町並みを見下ろす小高い丘の上に立った。丈の短い草のつけた小さな花を渡ってきた風が彼女の長衣と髪を揺らして吹き抜けていく。  青い空と接する風吹く緑の丘を背に、彼女の姿は切り取ったように際だって見えた。  その遙か遠く、薄雲の向こうでは空が瞬いている。 「どうぞ」  遠雷の兆しか、その割には音も無いが。空模様を気にしつつ、青年は薄手の敷物を敷き延べ、風に飛ばされないように四隅に石を置いてからその上に提げていた荷を広げた。  その手順を興味深そうに見ている彼女の背後で、また一つ二つと空が瞬く。 「あ、ごめんなさい。  そのまま座れないんでしたね…」  つい祖国での風習に沿って敷物を用意したのだが、彼女の母国の習慣、というよりは服装では椅子以外のものに掛けることは難しい。 「座るものですか…」  眼帯のない方の目を丸くして口に手を当て敷物をまじまじと見つめる彼女を微笑ましく見遣りながら、青年は断続的に瞬きを続ける空に胸騒ぎを抑えられなくなっていた。 「すいません、ここまでひっぱって来ちゃいましたが、なんだかいやな予感がします。  戻りましょう」 「数日前から見えていますが、あれはなんですか?  彗星…?」  視線の先を追って彼女も瞬きを続ける空を見上げる。青く抜けるような天蓋に張り付いた紗のような雲を通して太陽が増えたような輝きが漏れていた。 「空から敵が降ってくるかもしれないんです」 「どんな敵で、何を狙って?」 「まだ大丈夫だとは思いますが」  青年は帝國と、祖国、それに今は友好的な関係にある猫の国々を思って厳しい顔になった。  仰ぐ旗はそれぞれ違っても、戦火に見舞われる民の苦しみは同じく、それを思う事は苦かった。 「うちの国は直接は狙われないとは思いますが、燃料生産地とかが狙われると聞きかじりました。  あと情報としてはこんなところですかね」  丘を降る道すがら、先程小店で求めて帯に手挟んでおいた新聞を彼女に示す。  帝國の藩塀を成すとある藩国で発行している共通紙で、情報の確かさには定評がある。その一面に取り上げられているのが件の天領共和国による衛星軌道上からのレーザー爆撃を報じる記事であった。  彼女はしばらく文字を追っていたが、やがて小さく溜息をついて青年のそれが移ったような難しい表情になった。日傘をくるり。 「フランス語じゃないのね」  青年はそうか、と苦笑すると帝國共通語で書かれた記事を読み聞かせ始めた。所々解らない単語を質問する彼女にわかりやすい例を挙げて説明していく。  例えば宇宙。 「宇宙とは…この青い空のもっと上の空間です。  他の国からは列車で行けるなんてこともあるみたいですが、いまのところこの国からは行く手段がないですね」  『宇』は天地四方上下。空間の広がり。『宙』は往古来今。時間の流れ。合わせて時空を表す。これはいわゆる天体を含む領域とはややニュアンスが異なり、直訳しても余りよく意味が解らなかったようだ。  青年の説明に納得したように頷くと、彼女は知性の輝きを増した瞳で青年を見つめながら次の問いを口にした。 「敵が一方的に移動手段をもっているのはなぜ?」 「向こうはあっちが普通の生活空間なんじゃないですかね。 だから移動手段は持っている。 のかな?」  やや自信なさげに答えて青年は口の中で小さく唸った。  祖国を始めとするこのニューワールドに存在する国々はかつて巨大な藩国船という船であったという。いつか充分な民がその内に満ちたとき、藩国船は地の軛を離れて故郷の空へ還るというが。  あるいはかの天領共和国とはそういった原初の姿を留めた国であるのかも知れない。 「話をきくと、とても不利な気がします」 「まぁ、不利です。  空を飛べない身としては、頭を抱えて隠れるか頭上に撃つくらいしかできることがないですしね」  青年は肩をすくめて嘆息した。手も足も出ないとはこのことだ。 「なるほど。母国のようにあちこちからせめられうるってことね…」 「そういえば悪魔の力を借りると空が飛べたりするんですか?」 「空の上まではさすがに…まあ、多少なら」  大気圏外は悪魔の活動領域外らしい。 「ふむ。悪魔使い同士って、何かお互いに感覚的に感じたり とかするんですか?」  僅かに面伏せると彼女は首を振った。ヴェールがふわり。 「あぁ、質問ばっかりですみません。  ヴァンシスカさんのこと、も力のこともまだよくわからなくて」 「いえ。私も知りたいことばかりなので」 「何か気になることがあれば答えます、聞いてください」 「言葉の読み書きについては、私のところに来ていただければ教えられますから。  時間のある時にでも顔出してください」 「はい。とりあえずは…」  距離の感覚が知りたい。  という彼女の言葉に青年は歩きながら腕組みした。 「距離の感覚…というと、個人感覚のテリトリーの基準みたいなものですか?」  青年の答えに彼女は少し困ったように首と日傘をかしげた。上手いニュアンスの言葉が思いつかないらしく口元に指先を当てて暫し。日傘をくるり。小さく頷くと選び取った単語を舌に乗せた。  地図が見たい。 「ああ、地図でしたか」  ようやく合点がいったらしい青年は思案の末、自室に彼女を誘った。帝国領のとある藩国が発行している地図を机の上に広げる。  祖国はここ、宰相府はここ、という風に地図のあちこちを示してみせる。彼女はその様子を興味深げに眺めていた。 「宇宙はどこに?」 「宇宙はこの平面の地図上には描かれていないんです。  強いて言うとこのあたりですかね」  青年はそう言うと地図の上に手をかざした。平面に一軸を足した新しい概念の提示。 「なるほど」  彼女の唇が花開くようにほころび、瞳が知的興味の喜びに輝いた。のも束の間、難しい表情になって地図の上の空間を見据える。 「絶望的な状況の気がします。一方的ですね」 「ただ、今、空の上で戦うことのできる人ががんばってくれています。  うちの国も少しは空の敵に対して準備はしましたし。  希望はまだある。と信じています」  青年はそう言うと窓越しに瞬きを続ける空を見上げた。今この間も頭上の脅威に備える人々の働きは続いていることだろう。 「あー、最後にあなたのことについて、もうひとつ質問してよいですか?」  僅かに頭を振ると視線を彼女に戻してそう問うた青年だが、彼女は地図の上の一点を見つめて思いを巡らしている様子だった。 「パリまでは遠い…でも、どこも均等だったらどうするんだろう。  プロイセンはアルザスを衝くだろうか?」  そのまま暫し。青年の言葉が耳を抜けて脳裏で再構成されるだけの間をたっぷり取ってから彼女は思索の海から急浮上した。ヴェールがふわり。 「はい?」 「…お誕生日はいつでしょうか」 「9月8日です。ここでもそういうのかは知らないけれど」 「まだちょっとありますね。  …自分の誕生日が一月もすれば来るんですが、そのときまた会ってくれますか?」 「ええ。それまでに無事であれば」  極めて簡潔に答えて髪をかき上げると彼女は再び地図の上の一点を見つめて思索に没頭し始めた。  青年は口元を緩めるとその横顔を飽かず見つめる。約束の日までその面影を抱けるよう。  いつか二人で今の記憶と未来の予感をともに抱いて微笑み合えるように。 /*/ そうして、今私は彼の横顔を見つめている。 過ぎ去ったあの頃と。 愛おしい今を感じながら。 変わっていくことは怖いことではない。 変わらずにあるもの、変わらずにあって欲しいものが信じられるのならば。 今では、そう考えている。 #right(){拙文:久遠寺 那由他}