「そうか、出て行くか。ようやっとせいせいするわ」 「随分ですね。貴方らしい言い草ではありますが」 「体を弄繰り回された挙句に、腹の中で子造りまで始められては敵わぬ」 「…それは気が付きませんでした」 -至極真面目に頭を下げる黒衣の男の図- /*/  大きな木がある。 人の身で天辺を見上げようと試みれば、そのまま後ろに倒れてしまう程度には背の高い木である。  大きいだけで特に誰に気に留められるでもなかったが、陰気な顔をした美青年が住み始めてからはただの木から家となり、様々な客が訪れるようになった。 私が彼に声をかけてみたのは、男の元に足繁く通う女が在ると気付いた頃である。 「好い娘だな」 「ええ」 その日はそれで終わった。  その後しばらく、そのようなやり取りを繰り返した。 やり取りと言っても、長くて二言三言程度のものであったが、大体は女のことについてだった。 その方が、僅かにだが男の舌が滑らかになるからだ。 バロ、という男について語るときも滑らかは滑らかなのだが、そちらは些か勢いが良すぎた。 「しかし、お主のような男も妻を娶るとはな。物好きな娘もいるものよ」 「前を否定はしませんが、カイエを悪いように言うのは」 「まて、まて。悪くは言っておらぬ。ただ、面白いのよ。見立てではかつてお主は戦場に生き、戦場で果てるのみを望んでいた。それが今では姿見の前で布切れ一枚の姿様すら気を配るようになっておる」 「それが、どうかしましたか」 「運命が動いておる様が見えるのさ。それも、ただの娘が動かしているのだよ」 「貴方に運命視の能力があるとは思えないのですが」 「かかか、年寄りの戯言だよ」  陰気な顔をした美青年が眉をひそめる。 結局何も言っていないのと同じではないか、と冬の湖のような目でこちらを見ている。 戦士にして魔術師である彼は、他者の言葉についても魔術的な要素をも絡めて解釈しようとする傾向があった。 全ての言葉には意味と力がある、と。 私もどちらかと言われればそちらの存在であったが、長い間人の世を眺めたおかげで、言ノ葉のあれそれにもある程度通じている。 「本当に無意味なことにも意味はあるものさ。こうして話ができることも、そうかもしれぬ」 「答えになっていませんよ」 「そんなに大きな声を出しては起こしてしまうぞ」  む、と口を噤むと、膝の上で寝こけている伴侶の存在を思い出したようだ。 思い出した、とは言っても片方の手で時折毛布を直してやり、もう片方の手でずっと髪を撫でていたのだが、どうやら無意識だったらしい。 微笑ましいことだ。 「ともかく、な。大事にしてやることだ」 「言われなくともそのつもりです…無論そう、できるように努力も怠っていないつもりです」 「ならお主から口付けの一つくらいしてやれ。おっと、邪魔者がいてはそれも出来ぬか、かかか」 「どうにも貴方と話していると、バロにからかわれている気分になりますね」 更に笑いが大きくなり、更に眉間に皺(しわ)がよった。 /*/  その朝、日が昇るか昇らないかの頃、バルク・O・クレーエは彼にしては本当に珍しいことに、着の身着のままで落ちていた眠りから意識を覚醒した。 膝の上では彼の伴侶であるカイエが、安心しきった様子で子犬のように安らかな寝息を立てている。 どうやら昨日の引越しの荷造りによる疲労で二人揃って寝落ちたらしい、と眠気をはらいながら分析する。 無論のこと常の引越しであればこのように疲労することはない。 彼は誰かに言われたように元来戦場で生き、戦場で死ぬ戦士であり、魔術師なのだから。 しかしながら「じゃあバルク様、お引越しの準備をしましょう」と何故か嬉しそうに言う伴侶を見ていると、なんとなく魔の技を行使するのが躊躇われたのだった。 結局、以前ならば最適化した手段を用いて、(昨日かかった時間の)十分の一もかけずに行っていた行動を、敢えて日が落ちるまでかけて二人で一つ一つ行った。  理由はうまく説明が出来ない。 ただ、そのことに喜びを感じる自分がいることに少し、驚いた。 そして、ふと思い出せぬ誰かの言葉が脳をよぎると、彼はごく自然に、未だ眠りの中にある伴侶に愛情を示すことにした。 /*/  大きな木がある。 人の身で天辺を見上げようと試みれば、そのまま後ろに倒れてしまう程度には背の高い木である。  かつては大きいだけで特に誰に気に留められるでもなかったが、陰気な顔をした美青年が住み始めてからはただの木から家となり、様々な客が訪れるようになった。 木は、おそらくそのことを感謝し、その意を示したのであった。 /*/ 以下オマケという名のやりたい放題 それいけ!バルクさん  バルクさんの意識は深い、深い思索の中にあった。 額に指を添え冬の木漏れ日を思い起こさせる柔らかな表情は、一幅の絵画のごとく、触れることさえ躊躇われて。  彼の目前には二枚の布切れが掛けられている。 それらは、男性用の水着―俗に海パンと呼称される物である。 ある時、黒にして兄弟より譲られたそれらは、いつか彼が伴侶と水遊びをするときの為にじっと衣装棚で雌伏の時を過ごしていたのだが、先ほどより観察の対象とされていた。    そう、バルクさんはまだ自力で水着を作ることを諦めていなかったのだ。 なぜ彼がそこまで自力で作ることに拘るのか… それは彼がこれまでに積み上げて着た魔術師としての意地か、後退を知らぬ戦士としての矜持か、それとも妥協を許さぬ生来の生真面目さか。 ただ、一言で言うならば、男は時として他者から見れば本当に些細な事に並々ならぬ情熱を発露させるものであり、ひいてはバルクさんもやはり男であったという事だろう。    しかしバルクさんには不可解なことがあった。 その二つはあまりにも意匠が違い、性能が違い、魔力の気配が感じられなかった。 歴代の黒の戦士の中でも豊富なバルクさんの知識にもそれらの名は無かったのだが、一つはビキニと呼ばれるものであり、もう一つは褌と呼ばれるものであった。 さてはこの身にすら感じ取らせぬほどに魔力を精緻に編みこみ、巧妙に隠匿されているのか。 ともかく、実際に着用してみよう。 黒の兄弟への敬意から、バルクさんはまったく持って完全に疑うことなく、未知の領域へと踏み出した。  そして今、午後の柔らかな日差しが差し込む部屋にて、まるで神話の一説のような光景が顕れた。 姿見に映るは鴉の濡れ羽色の長髪を一括りにまとめ、大理石から掘り出された彫像のごとく鍛え抜かれた肉体に、その肢体に神々しく纏われたビキニパンツ。 なるほど、やはり体験してみるものだ、とバルクさんはひとりごちる。 それは実際に身に纏ってみるとただの布でなく、伸縮性に富んだゴム質の素材で出来ていることが判る。 一部の隙も無くフィットした感覚は、どこか頼もしさすら覚えるほどだ。  だが、バルクさんはまたしても疑問を抱いた。 以前水遊びに誘われた際、バルクさんの連れ合いの女性は胸部にも同じように布を巻いていたのである。 あれから少なからぬ人物に話を聞くうちに、バルクさんも男性と女性の水着についての意義は理解できていたが、やはり脳に次ぐ生命維持機関である心臓と肺の守りを己の肉体のみとするには些かの抵抗があった バルクさんの名誉の為に述べておくと、これは決して彼が小心であると言うのではない。 むしろこれもまた、磨き抜かれた黒曜石のような、純粋なる戦士としての本能の発露であるのだ。  そうこうして、バルクさんが知り合いの騎兵に胸当てを借りに行くべきか、せめてこちらの巻き布は自力で作るべきか、と真理に挑む数学者のような表情で悩んでいる頃、突然の来客があった。 今更説明の必要も無い、バロである。 バロはバルクさんを見てひとしきり笑った後、バルクさんに事情を聞き更にもう一度笑ったが、胸部の巻き布に話が及ぶと、かつて彼が臨んだ最も大きな戦いの時と同じ表情になり 「バルクよ、もしお前がどうしてもそれを身に着けたいと望むならば、この俺を打ち倒し、屍を踏み越えてからにしろ。さもなくば俺がこの世全ての正義に代わってお前を裁く」 と悲壮な決意を固めて言うので、バルクさんは彼が用いうる最大の破壊呪文を行使しかけたが、そこまでするほどのことでもない、と思い直し、来客を持て成す用意を始めるのだった。 「その前に服を着ろ!」 とバロが叫んだのは言うまでも無い。  バルクさんの水着との戦いは、まだ始まったばかり。 注:以上の文章はあくまで「バルクさん」について筆者が独断と偏見と個人的見解に基づいて自由気ままに描いたものであり、本物のバルク氏とは少なからず齟齬が生じているであろう事をお断りいたします。