**お散歩日和  海洋国家として名高い紅葉国の6月。  美弥は自宅の玄関で出かける前の最終チェックに入っていた。  この日のためにチョイスした靴を手にとってそれを履き、つま先をとんとんと二回。  屈めていた体を起こすときにふと目に入る、姿見に映った自分の横顔。  緩やかに口角のあがった頬のライン。 嬉しい表情。  頬にかかる髪を払って改めて笑顔を作ってみた。姿見の中の自分もそっくり同じ表情になる。  嬉しい表情。満面の笑顔。  これから待っている時間に思いを馳せながらドアノブに手をかけると、見送りのつもりなのか愛猫のパルフェが玄関先に現れてにー、と一声だけ鳴いた。  可愛い同居人にもう一度にこりと微笑んで美弥はドアを開け放った。 「いってきます」 #center(){/*/}  紅葉国は紅葉が群生した諸島と海中都市に分かれた国である。  海中都市が発展を遂げた昨今においては地表に住む人間が減少して問題になっているが、それはまた別の話だ。  そんな諸島の一つ、人気の絶えた紅葉の街路を美弥は歩いている。  割合急に決まった待ち合わせ場所だが、相手は来ているだろうか。  しかしそんな美弥のどきどき感は数秒後には別種のものに変わっていた。  待ち合わせ相手は、居た。  第6世界、式神ワールドと呼ばれる場所からの客人、日向玄乃丈。  スーツにソフト帽、よれたシャツ、という三点セットはいつもの通り、問題は切り裂かれたスーツの二の腕とそこににじむ血の赤色。  美弥が発見した時はちょうど街路樹の紅葉に寄りかかって元はネクタイだったとおぼしき布で傷口を縛ろうとしていたところだった。  あるいは彼のハードボイルドな日常のワンシーンをたまたま目撃しただけのことなのかもしれないが、心臓に悪いことこの上ない。  この間美弥の脳裏をよぎった様々は察して余りある。 「大丈夫、ですか?」  ともあれ、美弥はそれら様々をミリ秒でシャットダウンして日向の元に駆け寄った。彼もそれに気づいて顔を上げる。 「ああ」  左腕の怪我に布を巻き結び目を口で引っ張ろうとして。 「まあまあだ」  失敗した。  美弥は何でデートの日に、から始まる様々を37通り脳裏に展開してから小さく嘆息して手を差し出した。 「私がやりますから、貸してください。  自分でやるよりはちゃんとできるはずです」  美弥が手を差し出すと、日向はじっと美弥の手と布を見やって、結局黙ってされるに任せた。  手早く布を巻き直して止血のためにきつめに結び上げる美弥。  昔取った杵柄というが。 「……う、大丈夫です?  しばらく医師やってないから、少し勘にぶってるかも」  日向の顔が痛みでわずかに歪んでいるのを見て取って美弥は少し結び目をゆるめた。  アイドレスが替わればそれに由来する職能はリセットされる。巧くできなくても仕方がない。 「まあ、死んだらそれまでだ」  手の平を握ったり開いたり、それから腕を軽く曲げ伸ばししてから日向はにやりと言い放った。それがハードボイルドだから。 「痛い間は、生きてますよ」  美弥はそう囁くと堪えきれずに面伏せて日向に寄り添い、それが怪我している側であることに躊躇して逆から静かに抱き寄せる。  日向もふ、と口元を緩めると左手で美弥の髪を梳いた。後頭の辺りからうなじにかけて優しく二度、三度。 「ちょっと、びっくりしちゃいました」 「すまんね」 「ううん、このくらいの怪我ですんでよかった」 「大けがでもかまわんがね」 「かまいますよー、大けがだったら即病院です」  二人はそのまま少しの間じっと寄り添っていた。会えなかった時間を埋めるために必要な時間プラス美弥が落ち着くための時間の分。  ようやくどきどきの種類が元に戻ったことを感じて美弥は体を離した。口元に笑みを浮かべて日向を見る。  これが落ち着いて彼に向き合える回転数なのだと彼女が感じる心地よい鼓動の感覚。 。 「さて、今日はどうするんだ?」 「うーん、実は最初うちでって考えてたから、ノープランです。 玄ノ丈さんに会いたいなーってことだけ考えてたから」 「…なるほど」  日向は言いながら今し方歩いてきた方向を見遣った。紅葉の街路がまっすぐ続くだけの道。遠くに潮騒、それから港を離れていく船の機関音。それ以外に音はない。  藩国領に諸島を持つ紅葉国にあってこの島はつまるところそれだけの島なのだった。 「まあ、食うところもないしな。 歩くか。散歩だ」 「はい」  美弥が微笑んで頷くと日向は来た方向へ歩き出す。左右に迫る街路樹の紅葉は人の手が入らないままに枝を差し伸べ合いアーチを形作っていた。  こうして人が歩くスペースだけが街路として許されているようなもの。散歩専用島という言葉が一瞬頭をよぎる。あるいは地上で生活する人口が増えればこの街路も賑わったりするのだろうか。 「手を、つないでもいいです?」 「悪いが、怪我してるんだ」  美弥を左側に、数歩前を歩く日向はその提案に少しだけ振り返って笑った。 「右手は…あけておきたいですよね。  にゃー…我慢します」 「いいじゃないか」  ちょっとしゅんとして項垂れる美弥におかしそうに笑うと日向は視線を前に戻して南国の日差しを遮って濃く陰を落とす紅葉のアーチをのんびりと見上げた。  こうして木々の間を二人で歩いての遣り取りで思い出すのは、いつかの宰相府の冬バラ園でのこと。ロケーションも季節もまるで正反対ほどに違うが、右手のことが口をついたのはあるいはその記憶がかすめたからかもしれなかった。 「ここまでのびちゃったのも、あまり見る機会ないですね」 「ああ。トンネルみたいだ。  子供時代なら駆けてたな。嬉しくて」 「今でも、ちょっとやりたくなる感じです」 「いってきていいぞ」  美弥がくすりと笑いながら言うと日向は体ごと振り返って立ち止まった。やはりおかしそうに笑ったままだった。  何故だろう、木々のアーチ、トンネルが続く道というのは人に子供じみた冒険心を喚起させる魔力があるらしかった。 「じゃあ、ちょっと向こうまで」  立ち止まった日向に言い置いて美弥は軽く駆け出した。左右に一本ずつ、また一本ずつ行く手に現れる紅葉を追い越していく。  スカートが風をはらんでフラッタを起こす感触。薄く浮いた汗が紅葉に冷却された空気に揮発していくのが心地よい。  ひとしきり駆けたところで振り返って手を振る。日向は変わらない歩調でこちらへ歩いて来た。  再び肩が並んで一緒に歩き出したところで思い出した様にぽつりと一言。 「そういうところはかわいいな」 「は、はうう」  紅葉が伝染したような顔になる美弥。 「だって、すごく気持ちいいですよ。木々の間走るのって」 「だろうな」  先ほどのシーンを再生してか、日向が快活に笑う。あるいはハードボイルドを決めていなければ彼も駆け出したところかもしれない。 「もっと速く…は、ちょっと無理かな。全力で風切って走りたいくらいです」 「いいね」  言いながら日向は左腕を軽く持ち上げた。大神の姿であればその負傷は確かに駆け回るには不便だろうか。  それを僅かに検討したかのような表情だった。 「わかってれば、もっと走りやすい格好できたんだけど…と、大丈夫です?」 「まあ、しばらくは」  何でもないように答えて日向は一つ頷いた。たぶん、アーチの下を思うさま駆け回る喜びよりも美弥を見つめていること、彼女とより双方が価値があるという検討の結果なのだろう。  その方がいい。  日向は一人でもう一つうなずくと美弥に向けて微笑んだ。 「海でも見るか」 「はい」  にっこりと返事をした美弥の先に立って歩き出す。と、数歩もいかないうちに再び立ち止まって振り返った。 「どうした?  いかないのか?」 「いきますー」  左後方から左横へ、二人肩を並べて紅葉の街路を行く。程なくして両側に並ぶ紅葉がまばらになっていき、いつの間にか足下の地面が砂地になっていく。  潮騒が近い。  二人はこの紅葉の街路と港しかない島を縦断して海岸部に出たのだった。  大きく開けた視界、澄んだ青い海原に紅葉の赤をまとった島々が近く遠く霞むように望める。 「綺麗だな」 「ですね……」  日向がさんざめく波の照り返しに目を細めると、美弥は海風にさらわれる髪を押さえながら水平線を見遣って答えた。  二人はしばらくそのまま並んで立ったまま海を見ていた。  波の音。二人の前を横切っていく小さな船。 「悪いな。手でもつなげればよかったんだが」 「ううん、今度怪我してないときに」  海を見遣ったまま呟いた日向の言葉に美弥はすっかり舞い上がってしまった。  普段ハードボイルドに決めている彼だけに時折垣間見せる表情が例えようもなく愛おしい。  怪我に遠慮していた今日の分、美弥は少しだけ日向に寄り添う。肩越しにちらりと美弥の方を見て微笑む彼の眼差しは優しい。 「そうだ、言い忘れてたことあります」  幸せな瞬間をかみ締めながら美弥は改めて日向に向き直った。  胸に手を当てて今日一番言いたかった言葉を用意する。 「おかえりなさい。  ……いってらっしゃいの後、言ってなかった」  日向はまじまじと美弥を見つめてたっぷり数秒、そのままの姿勢で静止した後、ゆっくりとスーツの胸ポケットに手を差し入れ、愛用のサングラスを取り出した。  サングラス装着。  中天にかかる太陽に目を細める振りをして、努めて落ち着いた声音。 「……ただいまというには、明るすぎるな」 「そうですね」  日向の目元が僅かに赤らんでいるのは日差しのせいでも紅葉が伝染したせいでもないだろう。美弥は勿論見逃さなかった。  くすりと笑って答えると日向も口元を緩め小さく息をついて視線を戻した。 「かわったか」 「ん?」 「いや。なんでもない」 「はい」  美弥はそれ以上言葉を重ねなかった。代わりに日向の胸に体重を預けるようにして頬をすり寄せる。日向は笑ってしなやかな喉を指の甲で撫でた。  指の感触が心地よくて、少しくすぐったくて、そしてとても嬉しい。  目を細め小さく笑って頬をすり寄せる美弥はまるで大きな猫のようで、本当の猫ならごろごろ喉を鳴らしているところ。  これは本物の猫と同じく、少しずつ反っていく喉から細い頤へ日向の指がかかり、ついと持ち上げる。  素早く、かつ自然に日向の唇が触れる感触。  不意打ちのキス。  美弥はほんの少し体をわななかせ、そしてされるに任せた。  脳裏にわだかまっていた不安や悲しみが溶け出して頭全体を暖かく痺れさせるような。  幸福な時間。  潮騒と葉擦れの音が繰り返し耳の奥に残響していた。 #center(){/*/} #right(){拙文:久遠寺 那由他}