残暑を過ぎて僅かに肌寒くなりつつある頃。  本来その名の通りに使われた浴衣の、現在の使い方は夏用の着物、この時期には本来相応しいとは言えぬだろう。  しかし、久々に会う思い人と揃えるように誂えた浴衣を着る機会を、程よい時期に逸してしまった乙女にしてみれば、季節よりもむしろ優先したいモノがあっただろう。  天気もそれを見越したのか、頃合いよくその日は秋というのに、暑かった。  さて、帯も締めて準備万端、その足が向かう先は——帝國の王宮である。  彼女—沢邑勝海—の思い人、谷口竜馬は今現在、帝國の皇子という地位にあった。  /*/  最近造営されたらしい日本庭園は、赴きある風情をたたえていた。  少しだけ居心地悪そうに、客人に頭を下げるバトルメード達の横を通る藍色が、僅かに風にはためく。  帝国の王宮——ともくれば、帝國の中枢とも言うべき場所。  普通の一般人、しかも共和国の人間である彼女が、そこに足を踏み入れるは、多少の戸惑いを見せるのも仕方の無い事であろう。 「谷口さん、どこかなあ……」  戸惑いながら竜馬の姿を探してみれば、目当ての青年が多くのお付きの者——侍従に従われて、庭にゆったりと足を運ぶ姿が見えた。  そうして、小さく手を上げた彼が、深々と頭を下げた勝海に微笑む。  それに、一歩下がっている侍従達が彼の指示を仰ごうと視線を向けたのと同時に、その表情を苦笑に変えた。  どうやら皇子と彼女の間柄を察知したらしい。  邪魔をするのは『馬に蹴られてなんとやら』だが、流石にそれは彼らとて避けたいだろう。 「ああ、下がってくれ。 二人で話をしたい」 「御意。 では、ごゆっくり」     息が抜けた一言を残して侍従達が去ったのを見て、改めて彼女に振り返った青年の顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。  直視できずに真っ赤になって俯く、乙女。 「今日はそちらに遊びに行けず、すみません。  ここはなにもないところですが、庭だけは立派ですよ」 「い、いえ。 谷口さんもお忙しいですし——お仕事とか、色々あるでしょうから。 でも、会って貰えて良かった。 顔見ただけで元気になれます、から」  久々の二人っきり。 さらに会えた思い人がお揃いの浴衣を纏っているとあれば、焦るのも仕方が無いだろう。  随分皇族に馴染んだのか、纏う空気には余裕を持つ者の気さくさが滲み出ており、その焦りを穏やかに包んでいる事に、彼女は気が付いただろうか。 「忙しいのは確かですが——それは、良かった」 「ええ。谷口さんが元気でいてくれると、私も元気で頑張れます」  見上げて嬉しそうに笑う乙女に、柔らかく微笑む青年。 包む空気は、ほんわりとした、一言で表現するとすれば、甘い綿菓子のよう。 「立って話すのも疲れますか。 椅子でも運ばせましょう」 「あ、はい」  邪魔にならぬようと彼の側に近づく彼女と、泰然と振る舞う、彼。  その風景は庭とその着物と相まって、収まり良く——誰が見ても、普通の恋人達の逢瀬に見えた。 /*/  運ばれた大きな椅子にゆったりと腰を落ち着けると、青年はにこやかに笑う。  口にしたのは、元々の所属国の事だった。 「キノウツンは治安回復したそうで。おめでとうございます」 「相談に乗っていただいたお陰です。後は国のみんなの頑張りも——」  それを見上げた恋する乙女は、ひどく真摯な目で彼を見つめる。  思慕の思いもあったとはいえ、彼に相談した結果が良い方向に転がったのは事実である。 「いえ。自分はぜ……ダガーマンに依頼したくらいですので」  彼が言いかけたダガーマンの正体はここで置いておく。 第七世界人なら誰でも知っている人で、共和国では、とてもエライ人である。  まあ、それは脱線なのでさておき、そう言い放った彼は軽く頭を掻いた。 「それでも、手伝って下さった事には代わりはありません。 ……ありがとう、ございました」  月並みといえる、言葉。  だが、そこに込められた、心底からの礼は伝わったらしい。  庭へと顔を向け、目を細めた彼の横顔は、どこか照れているように見えた。 「はあ。 いや、その、庭はあまりお好きではないですか? 自分は盆栽などやろうかと思うくらいで」 「いえ、好きですよ。 ただ、こう言ったところにあまり縁がないものですから。 どこを見ればいいのか、よく判らなくて」  少し困ったように苦笑した彼女。 「そうですね……まずは全体を。 そして石を。 最後に木を」  それに、微笑みながらゆっくりと動かされた青年の手と視線は、見るべき場所を次々と指し示し、それと同時に、乙女の視線が動いていく。  庭と彼らを包むのは、絢爛の季節を越え、落ち着きのある強さに変わり出した日の光。  樹々の緑は艶やかに滑らかに、ほんのりと色づき始めた枝葉と共に、白砂に映える。  ところどころに配置された巨岩や奇岩が時に山、時には崖に映り、大池には、錦鯉であろう魚が、たおやかに水を掻いている。  豪奢とも違う、絢爛とも違う。  されど、金に糸目をつけずに造営された庭は、一種の異空間を造り上げていた。  これぞ、日本の幽玄なる美の一つであろうか。 「なるほど……」  ほぅ、と感嘆のため息を上げて、庭を見つめる勝海の横で、嬉しそうに微笑む竜馬。  さもありなん、この庭はこの皇子のために作られたのだから。 「しかし、王宮の中にこんな庭園があるとは思わなかったです。 てっきり西洋風の庭しかないと思ってました」 「休みがすくないのでと、皇帝が気を使ってくれまして」  苦い笑みと共に言う言葉は、決して重くはないが——やる事は流石皇帝、規模が違う。  ただ、この庭は確かに彼の慰労となっているようで、乙女の目にはとても寛いで見えた。 「いい人ですね。 猫の者が言う言葉じゃないんでしょうけど——ちょっと皇帝陛下がうらやましいです」 「皇帝は大変だと思いますよ」  こっくりと頷いた彼女に、僅かに落ちる影。  財力であったとしても、皇帝陛下には及ばぬ身である。 「でも、谷口さんに色々手助けできるから、いいなって。 私じゃ貴方の手助けできませんから……弱いですし」  彼女単体の力は、帝國皇帝の力に遠く遥かに及ばず、かと言って彼女のアイドレスの力が強い訳でもない。  それを思えば、思慕を伝えようとして赤らめた顔が、僅かの合間にどこか苦い言葉と共に薄く自虐の表情に変わってしまうのも、仕方無いだろう。  慮るように、僅かに眉を顰めた青年の笑みが労るようなものに変わったのは、慰撫の為か。 「気にしないでください。かつては同じ国でしたし、何かあれば手伝いますよ」 「はい。 ——と言うか、何というか。 その……」  その言葉に、かつての同朋ではなく、好意を伝えた相手として見てくれているのか、一瞬の不安に淀む。  その淀みを遮るように、飲み物のオーダーを聞いた彼に答えつつ、さりげないとはいえ素早く彼との距離を詰めたのは、やはり恋心の為せる技だろう。  それを邪魔しないようになのか、僅かな時間の後に届いた茶は、程よい熱さ、渋み甘みともに、完璧な仕上がり。  ただ、それ以上に彼女を驚かせたのは。 「静岡産ですけどね」 「え? 静岡から取り寄せられるんですか?」  いわずとしれた有名な茶所、静岡。  世界が違うNWでもそうなのかは不明である。  それを考えれば、世界を渡った誰かが、持って来たか。 それとも、茶葉程度を持って来れるだけのルートがあるのか。   「NW産のしか手に入らないと思っていましたけど……凄いなぁ」  その驚きの表情に同意の言葉を零した彼は、のんびりとお茶を啜ってもう一度、彼女に笑んだ。  多分、青年にしてもそれは不思議な事に変わりがないのだろう。 「まぁ、キノウツンの問題は今のところないと考えています。 のんびりできますよ」 「じゃぁ、もうちょっと落ち着いたらで良いですから、お忍びで来て下さい。今度こそは案内できるようにしておきます。 ——前、結局案内できませんでしたから」  頬に浮かんだ紅を隠すように、下を向く。 ただ、僅かに悔しそうな色が浮かぶのは、彼との約束を果たせなかった事について、だろう。 「わかりました。いつかは」 「ええ、約束です。 これで二つ目の約束ですかね」  優しさをほんのりと秘めたその一言に、上を向いた勝海の晴れ晴れとした笑顔につられ、藍色を纏う青年は微笑む。  穏やかな初秋の日。  皇子の庭は、その主人と思い人をいたわるように包み込みながら、静穏に時を流していた。